風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第一章] 浄闇の御動座祭は鎮魂祭だ!

7. 天神が森(高縄山)に祭祀された神々

霊峰高縄山(986米)は高縄半島の主峰であり、神体山として古来から崇められてきた。しかし風早国の創始に関わる物部氏やその祖神饒速日尊との関連が解からず忸怩たる思いで居たところ、先述の篠原徹旨氏が『風早二十八号「高縄山頂天神が森に祭祀された神々達」』で考察を展開されており、ここに氏の御論考を紹介いたしたい。

私も不勉強の至りだが、高縄山頂を「天神が森」といつの頃からか称するようになり「松山市猪之木字天神乙500の2」と「松山市横谷字天神乙441の3」との地番構成になっているとことだ。

『伊予風速誌』は江戸時代元和八年(1622)3月、藩公の命により奉行加藤内記、加藤図書の共著で編纂され、その中「風速郡神途郷河野内川上猿川村」の項にはおおむね次の記述がある。

  1. 高縄山を登美高名和(とみのたかなわ)と称す。
  2. 高名和登美大神(たかなわとみおおかみ)は饒速日尊・天道女尊の二神とし、往古天神が森に天降りせられたとされ、また大巳貴(大国主)、少彦名の二伸が越智の神戸より野間の神戸を経て、風早の神途を巡行された戸蹟であるとする。
  3. 饒速日尊・天道女尊二神は小千・河野両家の太祖であり風早國造の神籬を斎き祀られし高名和明神であるとする。
  4. この社は、河野内川上登美宮と号し祭神は饒速日尊・天道女尊、大山津見尊の三座である。
  5. 推古帝四年八月国司小千益躬公、朝鮮征討に大功のあった三並公・高縄公を合祀する。和銅五年(712)元明天皇御宇、小千玉興公、三島の宮より高?神・雷神十六将神を合祀し、高縄明神と号す。
  6. 文治二年(1185)河野通信公、父通清の像を刻し高縄山頂に収め、高縄大権現と称し、今に山頂にあり。
  7. 持統天皇十年(696)小千玉興大和國葛城山より役氏小角を迎え高縄山の大手道搦手道を切り開き、慶雲三年(706)行基律師河野殿別院へ観音像を彫み収む。光仁中(770―780)僧空海並びに僧定法師留錫修行の霊場なり。
  8. 天正十三年九月河野家衰微により、社領地も没収せられ、今は山林のみ遺されたり。また慶長十三年国主加藤義明公狩のため本陣高縄寺に出馬の砌、当神社にご参拝ありて白銀5枚、御太刀等御倉へ収められ、その後この例により寛永十八年太主松平大物主隠岐守定行公御狩出馬のとき、お側役御代参等もありしところなれば、ご紋付御柳燈一対今に奉納しあり。
  9. 当社の別当職は高縄寺・正法寺・全蓮寺・蓮生寺となっており、月輪番にて厳重に祭典が執行されていた。

以上により天神が森に祭祀された神々は高名和登美宮あるいは高名和明神とされ第一番目に祭祀された神は高名和登美大神(夫婦神の饒速日尊・天道女尊)であり、二番目が越智・河野両家の大先祖越智高縄であり三番目が河野家時代の先覚者河野通清・通信父子であったといえよう。