風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第三章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その1

1 西行法師のDNAが私にも

「伊勢に行きたい 伊勢路がみたい せめて一生に 一度でも」と歌に詠まれた伊勢神宮。初老の私にして五度目の参拝だから今がいかに平和で、時代を経て運輸旅客の便が良くなったか、改めてありがたく思わないではいられない。今回、北条市神社総代会(平野修会長当時)の伊勢神宮参拝旅行が去る平成一五年四月七日から九日にかけて実施され、私も年度始めの多忙の時期であったが、職場の上司、先輩諸侯のご理解を得て、松尾神社総代として参加させて頂いた。聞けば先のご遷宮(平成五年、次回は平成二十五年が第六十二回式年遷宮大祭の予定)以来実に十年ぶりの本会の正式参拝であったという。

私が、神宮にお参りさせて頂いて、いつも思う和歌がある。

なにごとの おはしますかは(原文 西行法師家集には『おはしますをば』とある)しらねども かたじけなさになみだこぼるる

今から八百余年の昔、西行法師(一一一八~九〇)が神宮に参拝した時の歌である。西行は、以仁王(もちひとおう)と源頼政が挙兵、伊豆の頼朝、木曽の義仲もこれに呼応し、さしもの栄華を誇った平家も没落に向い始めた一一八〇(治承四)年から六年間、伊勢の二見浦に草庵を結んだ。彼は仏家であるが、神宮を尊崇していた。それは、こんな和歌も詠んでいることからもわかる。

「さかきばに 心をかけむ木綿垂(ゆふし)でて おもへば神も ほとけなりけり」

もともと神道も仏教も多神・多仏であり、他の宗教に対する寛容性が強いことから、彼も違和感無く自然体で詠まれたものであろう。日本人が諸宗派を超えて二十一世紀の今となっても、我が国の宗廟として大挙参拝する所以でもある。

また哲学者西田幾多郎氏は、その著「善の研究」において、最初の西行の歌を引用して「道徳の威厳は実にその不測の辺に存する」ことも一面の真理であると語っている。彼はこれを、道徳は人性自然の上に根拠を持つものでなければならないとする自律的倫理学の立場から付言しているものである。

少々話が堅くなったが、要はあの広大な神域に一歩入り、玉砂利を(きびす)に感じたとたんに、鳥肌が立ち、自ずと涙ぐんでしまう衝動――私はこれと同じような感覚を国歌「君が代」を斉唱する時にも持つ。その時、頭に去来するものは、数千年の太古よりこの日本列島に人々が渡り、小さな集落がやがて幾多の小国家を経て大きな一つの国へと発展し、絶えることなく日本国が現に存在していること、その頂点に百二十五代の皇統を連綿と受け継ぐ皇室をわが国民は推戴(すいたい)していること、いわば科学で割りきれない人知を超えたものへの畏敬の念とでも言えようか。そしてその中にちっぽけな凡夫である自分が、今ココにささやかな時をつむがせていただいていることの喜びや幸せが、ジーンと胸に迫ってくるのである。更に加えて今回は、時に三回忌を迎えた母を憶い、生前の親不孝をこの聖地に額ずいて詫びたい衝動に駆られてしまった。仏教徒でも有る私と八百余年前に参拝した西行法師、基本的なところでDNAが受け継がれていることの不思議さを思うのだ。

二〇〇四(平成十六)年夏、アテネでオリンピックが開催され、めでたくも郷土出身の土佐礼子選手が五位入賞を果たしたが、神宮はパルテノン神殿に匹的する建築物と言ったのはドイツの建築家ブルーノ・タウトとか。共に伝統、文化そして何よりも国民性が凝縮している建物である。