風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第一章] 浄闇(じょうあん)御動座祭(ごどうざさい/span>)鎮魂祭(ちんこんさい)だ!

1. はじめに―井上禰宜(ねぎ)からの大いなる示唆

風早宮大氏神(かざはやぐうおおうじがみ)の略縁起については詳しく別項に記したのでご参照願いたい。主祭神饒速日尊(にぎはやのみこと)をはじめその家族ご一家おそろいでしかも、ご夫婦向かい合って社殿配置が成される全国唯一の風早物部氏の宗廟(前方後円墳)である。冒頭に敬意を表して風早歴史文化研究会を創始された泰斗・得居 衛氏(故人)の文章を引用して論考の口火を切りたい。

国津比古命神社(くにつひこのみことじんじゃ)延喜式内社(えんぎしきないしゃ)で古い歴史を持つ神社であるが伊勢神宮とは関係が薄く、拝殿のつくりや御祭神など大和の石上神宮(いそのかみじんぐう)(素佐男尊(すさのおのみこと)とその父親並びに子孫の饒速日尊、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)の四代を祀る)と全く同じ出雲系の神々をまつる神社で、のちに推古天皇の頃に出されたという出雲系神社の古文書を抹殺せよとの命令を無視して現在に到った全国でも有数の神社で、天武天皇時代に創営された伊勢皇大神宮よりも古い歴史を持った神社である。『風早第二十八号・平成四年十一月一日』より

さらに後年、

風早宮大氏神(かざはやぐうおおうじがみ)(注1)の御祭神研究については、本会会長もされた碩学(せきがく) 篠原徹旨先生がおられる(連載六度を数える)。が、鬼籍に入られてしまい、本テーマについて生前ご教示をいただけなかったことが残念でならない。

単なるどこにでもいる(旧北条市ではさして珍しくない)祭り男であった私が、御祭神 饒速日尊(ニギハヤヒ―以下、特別な配慮を要す時意外は、カタカナ書きで略称)の原像と風早宮大氏神の由緒ならびに、他に例を見ない祭礼絵巻物語、さらには日本建国秘史について関心を持ったのは、今から約十年前(平成四年)に遡る。当時私は町おこし団体として愛媛県生活文化県政の肝煎りで発足した北条市生活文化若者塾「かざはや」の事務局長をしていた。活動の一環として秋祭り前の平成四年十月にメンバーで、国津社(櫛玉社へは平成六年)に御神燈を奉納し、大氏神境内の清掃活動を実施したときのこと。終了後社務所で、國津比古命神社(くにつひこのみことじんじゃ)(国津社)の井上忠史禰宜(いのうえただふみねぎ)(当時は父上忠衡(ただひら)氏が宮司職)から湯茶の接待を受けたのであるが、ねぎらいの言葉の後、ややあって禰宜さんが床の間の掛け軸を指してこう言われた。

「ここに『天照皇大神(あまてらすすめらおおかみ)』と書かれていますが、本来は何か字の間に文字が抜け落ちているのです。今は書店でいろいろな古代史に関する本が出ていますから、ぜひ皆さんのような若い人に関心を持っていただいて、歴史の見直しをしてもらいたい」とのお話であった。

隠された文字といわれても検討もつかず、唐突な事で多少面食らった一同だったが、なぜかそれ以上の詳しい説明はされなかった。またこちらとしても、その場でさらに突っ込んで聞くのもはばかられる感じがした。直感、なにかあるなと感じた。そこで一つだけ観点を変えて、私から禰宜さんに質問してみた。

「御祭神の饒速日命は天津神ですか?国津神ですか?」と。

すると「天津神でもあり、国津神でもあります。」と答えられた。

そこがポイントだった。大いなる示唆!この一言からベールに包まれたミステリアスな大氏神饒速日尊・消された覇王ニギハヤヒへの探究が始まることになったのである。