風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第一章] 浄闇の御動座祭は鎮魂祭だ!

5. 天皇家(天孫族)と物部氏の祭祀形態の類似性

ちなみに道臣命は天押日命(あめのおしひのみこと)より三代目で、初めは、日臣命(ひのおみのみこと)と言った。難渋のすえ大軍(大来目部(おおくめべ))を指揮し、神武天皇を宇陀まで先導した功績により、道臣の名を賜った。のちの大伴氏である。(大伴氏と並んで久米氏も武勇で名をはせた。神武東征のとき活躍した久米氏の兵士等が凱歌を歌い、舞ったのを起源とし、後に天皇即位の大嘗祭に奏せられるようになった久米舞(くめまい)が有名。)

故、(ここ)天忍日命(あめのおしひのみこと)天津久米命(あまつくめのみこと)の二人、天の 石靱(いわゆき)を取り負ひ、頭椎(くぶつち)太刀(たち)を取り()き、天のはじ弓を取り持ち、(あめ)真鹿児矢(まかかこや)を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき。
故、其の天忍日命〔此は大伴連等の祖〕。天津久米 命〔此は久米直等の祖なり〕。 
          (『古事記』天孫降臨条)

上記のように『古事記』には記すが、周知のように久米氏は奈良時代には既にほとんど勢力をもたず、『貞観儀式』の「踐祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」の条によれば久米舞さえも大伴氏とその支族佐伯氏の管掌するところとなってしまっている。それにもかかわらず、そしてまた『日本書紀』一書第四では「大伴連(おおとものむらじ)の遠祖の天忍日命(あまのおしひのみこと)は、来目部(くめべ)の遠祖の天クシ津大来目(あまのくしつおおくめ)を率いて」と記されているにもかかわらず、ここに大伴氏と相対しているのである。これはかつて久米氏が大伴氏と並ぶ武門の氏族として、その力を誇ったことがあったことを示していると考えられている。これを『神武記』『神武紀』と併せ見ると、久米氏こそ大伴氏以前に勢力を有した軍事的伴造であった可能性もある。近年伊予国久米郷にゆかりがあるとして、公民活動の一環として地元ご婦人の手で久米舞が復活された。せっかくだから関係団体の記事を紹介しよう。

 伊豫の久米郡を本拠とする久米氏の繁栄を物語る宮中儀礼として、久米舞が残されています。久米舞は、戦勝の歌に舞を付け八人あるいは二十人で舞われます。神秘的な和琴の調べに太刀を抜き敵を討つ振りは、王者の威厳を示すものとして儀式化されたものと言われています。しかしながら、その栄華の時期は短く、今に残る久米舞は、大伴・佐伯両氏によって受け継がれてきたもの言われています。

これら二氏と共に後に天皇家を支える二大軍閥となる物部氏は、このときまだニギハヤヒを頂点とする大和防衛軍の主力部隊であった。彼らはナガスネヒコのように大和の先住民ではなく、不思議なことに天孫族(後の天皇家)と同様に天降り伝承を持つ氏族であった。このことは物部氏の天孫族に匹敵する特異な派生の経緯を物語っている。

ニギハヤヒの子で物部氏の祖ウマシマヂは神武天皇の即位に際し、ニギハヤヒの持ちきりだった神宝を献上し、神楯(かむたて)を立てて祀ったといい(これは畿内の統治権を、天皇に奉ったことを意味するのであろう。)、また『旧事本紀』はこう記す。

三月七日 命令を下して

「我、東征して6年になる。天神の威勢のお陰で、凶徒は殺された。しかし、周辺の国はいまだ静まらない。残りの禍は尚あると言えども、中州(うちつくに=国内)は騒ぎがない。皇都を広め開き壮大な宮室を造るのは誠に宜しい。そして、今はまだ蒙昧な状態だが民心は素朴である。巣に住み穴に住む習わしである。そもそも大人(聖人)の制度を立てて、道理は必ず行われる。山林を切り開き宮室を造り、恭しく高御座(玉位)に臨めば、国民を治める事が出来る。上は天神が国を授けられた徳に答え、下は皇孫の正しく養われる御心を広め、その後国を一つにして都を開き、天下をおおい家とする事は良い事ではないか。それは、畝傍山の東南の橿原の地を見れば、国の真中である。」

と言われた。


二十日 詔を有司にして都の造営を始めた。天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫の天富命(あまとみのみこと)手置帆負(たおきほおい)彦狭智(ひこさしり)の二神の孫を率いて、斎斧(いみおの=斎清めた斧)と斎鋤(いわいすき=斎清めた鋤)で山材をとり、正殿を構え建てた。所謂、「畝傍の橿原に底津磐根に太い宮柱を立てて、高天原に届くほど高くし、初めて国を治められた天皇で天業の基礎を作られた」と言うのである。皇孫命の瑞御殿(みずのみあらか=宮殿)を造ってお供えした。その忌部の末裔が居るところは紀伊の国の名草の御木(みき)麁香(あらか)の二郷である。その材を取る忌部の居るところを御木と言い、殿を造る忌部の居るところを麁香と言う。これはその事の元である。また、古事では正殿を麁香と言う。(現在の●橿原神宮)

庚申(かのえさる)年八月十六日(戊辰(つちのえたつ)) 天孫は正妃を立てようと、改めて広く良き人を求めた。奏する人があり

事代主神(ことしろぬしのかみ)と三島の溝?耳神(みぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)とが生んだ児で蹈鞴五十鈴媛命 (たたらいすずひめのみこと)と云います方が、器量の良い方です」 と言った。天孫は喜ばれた。

九月十四日(乙巳(きのとみ)) 納めて蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。

辛酉(かのえとり)年を元年とした。春正月一日(庚辰(かのえたつ)) 橿原に都を造り初めて皇位に登られた。正妃の蹈鞴五十鈴媛命を尊んで立てて皇后とした。大三輪神(おおみわのかみ)の娘で有る。
宇摩志麻治命(うましまちのみこと)天瑞宝(あめのみずたから)を奉献し、神楯を立てて斎い祭った。また新木を五十櫛(いぐし=多くの櫛)のように布都主剣大神(ふつぬしのつるぎのおおかみ)の廻りに刺し廻らし、殿内に崇め斎い祭って十宝(とくさのたから)を納めて、近宿(ちかきとのい)に着き従っていた。名付けて足尼(すくね)と言い、その足尼名は之に従って始まった。天富命(あめのとみのみこと)は諸々の忌部(いんべ)を率いて天璽(あまつしるし)の鏡剣を捧げ、正殿に安置した。
天種子命(あめのたねこのみこと)天神の寿詞(よごと)を奏した。即ち神世の古事の類がこれで有る。
宇摩志麻治命は内物部(うちつもののべ)を率いて、矛楯を立てて威儀を厳しく増した。
道臣命は来目部(くめべ)を率いて宮門を守り、その開け閉めを掌った。
並びに四方の国に天位の貴さを見せ知らしめた。国々の民に朝廷の重きを示し伝えた。時に皇子達と大夫達は諸々の官・臣・連・伴造・国造等を率いて年の初めに朝賀の礼拝を行った。凡そ即位・賀正・建都・践祚等の行事はこの時より始まった。(『先代旧事本紀』「天皇本紀巻第七一」)
         ●現代語訳文章引用 HP『拳拳服膺』より 深謝
                   

と神武天皇の即位式が、物部系の人脈を中心に進められ、これらの建都、即位・賀正といった皇室の行事・祭祀がこのとき定められたとして、さらには神武天皇のウマシマヂに対する次の言葉がある。

十一月十五日 宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は殿内に天璽(あまつしるし)瑞宝(みずたから)を斎奉り、帝と后のために御魂を崇め鎮めて寿祚を祈った。所謂、御鎮魂祭(みたましずめのまつり)はこの事から始まった。天瑞宝(あめのみずたから)は宇摩志麻治命の父の饒速日尊(にぎはやひのみこと)が天神より授けられ、天から持って来た天璽の瑞宝十種(みずたからとくさ)と云われる。所謂、 瀛都鏡(おきつかがみ)が一つ、邊都鏡(へつかがみ)が一つ、八握剣(やつかのつるぎ)が一つ、生玉(いくたま)が一つ、死反玉(しにかえしたま)が一つ、道反玉(みちかえしたま)が一つ、蛇比禮(おろちひれ)が一つ、蜂比禮(はちひれ)が一つ、品物比禮(くさぐさのもののひれ)が一つである。天神が教えられたのは、「もし、痛む所が有ればこの十宝(とくさのたから)に命じて『一二三四五六七八九十』言い『ふるへゆらゆらとふるへ』と言えば死んだ人も生き返る」と。すなわちこれが布瑠(ふる)の言の本である。所謂、御鎮魂祭(みたましずめのまつり)はこれが本である。その御鎮魂祭りは猿女君等が百の歌女(うため)を率いて、その言の本を挙げて、神楽を歌い舞う。これはそれが本である。

二年二月二日 天皇は功績を定めて賞された。宇摩志麻治命に詔をして

「汝の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。先に神霊之剣を授けて類無き勲を崇め報いた。今、股肱の職を設けて、末永く二心の無い美を伝えよう。今より後、子々孫々八十連綿、必ずこの職を継ぎ、永きに渡って大いなる鏡とするように」

と仰られた。宇摩志麻治命と天日方奇日方命(あめのみかたくしひかたのみこと)は共に食国政申大夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)となった。食国政申大夫は今の大連(おおむらじ)である。亦は大臣(おおおみ)とも云う。天日方奇日方命は皇后の兄で大神君(おおみわのきみ)の先祖ある。
道臣命に詔をして

「汝は正しく勝つ勇敢である。良く我々を導いた功績が有る。よって先に日臣(ひのおみ)を改めて道臣(みちのおみ)とした。加えて大来目(おおくめ)の精強な兵を率いて密命を奉じ良く諷歌による謀略を用いて禍を掃蕩した。このごとき功績は良く誠が有る。軍の統率者として、末裔に伝えなさい」

と仰った。謀略を用いるのはこの時からである。道臣は大伴連(おおとものむらじ)の先祖である。また、道臣の宅地は築坂邑に有り、これを持って報いられた。また、大来目を畝傍山の西川邊(にしかわべ)の地に住まわせ使われた。今、来目邑(くめむら)と云うのはこれが元である。所謂、久米連(くめのむらじ)の先祖である。

              ●文章引用 HP『拳拳服膺』より 深謝

とニギハヤヒからの天の瑞宝の授受が、まるで神武即位の証であるかのようにいい、この神宝を持って毎年冬に鎮め祭り(御鎮祭・鎮魂祭)を行うというのである。これら一連の記事を見る限り、朝廷行事の根本を物部氏が創始、神武が踏襲したかの印象さえ受けるのである。

関連して吉田裕子氏は、次のように指摘する。「大嘗祭には〃蛇の呪文〃が秘められていて、この信仰が物部氏のものに似ているとし、物部氏の祭祀そのものが天皇家によって踏襲されたことも考えられる。この場合も祖神の蛇の呪力を担うものとしての物部氏に対する記憶は、そのまま祭祀における物部氏の重用につながるのである。」(『大嘗祭』弘文堂)事実、神武天皇が初代に即位以降草創期の皇后を物部氏一門から輩出し[掲載資料参照]、外戚の地位(皇后家)を独占し宇摩志麻治命(うましまじのみこと)(國津比古命神社御祭神配祀 ウマシマヂ)他、歴代の物部宗家は、今で言う内閣総理大臣の要職に就き、国政を束ねていくことになる。

このことは、ナガスネヒコをはじめとする大和の守旧派を説得し東北に落ちのびさせたか、万やむを得ず誅殺たか、いずれにしても大和の版籍を神武に献上、大王位の禅譲という建国の最高偉勲者に対して、神武が感謝し「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり。而るに今果たして殊功を樹てたり」と褒め、フツノミタマの剣を授けたことからもわかる。

一方、民俗学者折口信夫氏は、外からくる魂が毎年冬になると人間の体に付着し、魂の入れ替えをするという古代日本の信仰形態を前提とした上で、新嘗祭も、魂の蘇生を目的とした行事であったといい、天皇も例外ではないとされる。太陽の弱まる冬、人や天皇の魂も弱まり、これを復活させるために外から来る魂を呼び込んで身体に付着させる、というものがあった。そして
「恐れ多い事ではあるが、昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た」
とする。さらに氏は、天皇にはこの世で唯一の〃天皇霊〃が付くのであってこの天皇霊とは〃太陽神・天照大御神〃から受け継がれる霊でもある。だからこそ天皇は、日の御子であり、現実の皇位は先帝から受け継ぐが、信仰上はみな天照大御神の孫であるという。

それだけではない。この容器に入る霊は天皇霊だけでなく、群臣から天子様に差し上げるものである、とも言う。しかも天皇には日本の国を治めるのに根本的な力の泉があって、これがわからなければ皇室の尊厳は分からない、とする氏は、その根本的な力を、物部氏の力とするのである。

「天皇は、大和の國の君主であるから、大和の國の魂がついた方が、天皇となった(三種の神器には別の意味がある)。大和の魂は、物部氏のもので、魂を扱う方法を物部の石上の鎮魂術といふ。」

纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)内の大王墓「石塚古墳」(日本最古・西暦二五〇年頃)出土の「鶏形木製品」は元始大和王権(私見では物部ニギハヤヒ王国と想定)の時代に大王継承儀礼に使われたとみられる祭祀遺物であるといわれている。

これら一連の諸賢の論考を紐解く限り、朝廷祭祀・行事の根本を物部氏が創始したかの印象を感じるのは、一人氏子の身贔屓であろうか。

『日本書紀』神武三十一年条には、大和葛城の丘陵地帯に登り、国の(かたち)を望み「何とすばらしい国を得たか」と言っている。これがいわゆる天皇の国見と呼ばれるもので、古来から伝わる予祝行事であったものを天皇家が取り入れたことで、正当な統治者であることを内外に宣命するねらいがあった。
饒速日尊、天磐船(あめのいわふね)に乗りて、大虚(おおぞら)翔行(めぐりゆ)きて、()(くに)(おせ)りて(あまくだ)りたまふに及至故(いたかれ)()りて(なづ)けて、「虚空見(そらみ)日本(やまと)の国」と()
『旧事本紀』
つまり、ニギハヤヒは神武同様国見を行っていたのである。記紀・風土記を通じて天皇・皇祖神以外の国見説話は極めて異例であり、物部氏の特異な地位を物語ろう。

ニギハヤヒの降臨先は、富雄川の上流、茶筅の里として知られる生駒市高山から大阪府交野市へ下る磐船街道の渓流沿いにある磐船(いわふね)神社とされる。

 饒速日命は天照大御神の御孫神にあたり、大御神の詔を受けて高天原より豊葦原の中津国(神代の日本の呼び名)に降臨された神様です。命は三十二人の伴緒をひきつれ、天の磐船に乗って河内国河上哮ヶ峯に天降り、のちに大和国鳥見の白庭山に遷られ、土地の豪族鳥見の長髓彦の妹御炊屋媛を妃とされ、大和河内地方の開拓に着手されました。日本国(やまとのくに)というこの国の呼び名は饒速日命が天の磐船に乗って降臨される時に空よりこの国土を望まれて「虚空見つ日本国(そらみつやまとのくに)」と言われた事から始まるとされています。
 饒速日命には、天上において生まれ、尾張氏の祖神となられる天香語山命と、御炊屋媛門の間に生まれた、物部氏の祖神となられる宇摩志麻治命のお二人の御子神がおられます。神武天皇の御東遷に際し長髓彦は反旗を翻しますが宇摩志麻治命(古事記、日本書紀では饒速日命となっています)は、長髓彦を誅し天皇に帰順し、以後長く朝廷に仕え、物部氏という強大な氏族を形成してゆきます。また、天香語山命の子孫の尾張氏は尾張地方(愛知県)を開拓した氏族としてその地名に名を残しています。
 磐船神社は御祭神饒速日命が天照大御神の詔により天孫降臨された記念の地であり、古典によると「河内国河上哮ヶ峯」と呼ばれているところです。御神体は命の乗ってこられた「天の磐船」といわれる高さ12メートル、幅12メートルある船の形をした巨大な磐座(いわくら)で、初めて訪れた人々は皆一様にその威容に圧倒されるといいます。
 当社は大阪府の東北部、交野市私市(かたのし きさいち)にあり、奈良県生駒市に隣接する、生駒山系の北端、まさに河内と大和の境に位置します。境内を流れる天野川(あまのがわ)は、10キロほどくだって淀川に注ぎ込みます。この天野川にそって古代の道ができ、「上つ鳥見路」と名付けられ、後世には「磐船街道」とか「割石越え」と呼ばれるこの道(現在の国道168号線)は現在の枚方と奈良の斑鳩地方をむすび、さらには熊野にまで続く道でした。瀬戸内を通り大阪湾に到着した人々や大陸の先進文化は、大和朝廷以前にはそこから淀川、天野川を遡りこの道を通って大和に入るのが最も容易であったと思われます。
 またその一方で、古代からの日本人の巨石信仰にも思いを馳せると、天の磐船は古代の人々にとってまさに天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域でありました。そしてこの地に出現された饒速日命はまさに天から降臨された神様であり、長髓彦などの豪族たちをはじめ、大和の人々から天神(あまつかみ)として崇敬を集めたのであり、命のお伝えになられた文化が大和河内地方を発展させたものと思われます。そして当社は、天神として初めて大和河内地方に降臨された饒速日命の天降りの地として信仰されてきました。

磐船神社と物部氏

 古代における当社の祭祀は饒速日命の子孫である物部氏(もののべし)によって行なわれていました。その中でも特に交野地方に居住した肩野(かたの)物部氏という物部の一族が深く関係していたと思われます。この一族は現在の交野市及び枚方市一帯を開発経営しており、交野市森で発見された「森古墳群」の3世紀末~4世紀の前方後円墳群はこの一族の墳墓と考えられており、相当有力な部族であったようです。また饒速日命の六世の孫で崇神朝における重臣であった伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の住居が現在の枚方市伊加賀町あたりにあったと伝承され、森古墳群中最大最古の古墳の被葬者はこの方ではないかとする説が有力です。

     ● 文章引用 HP『磐船神社』 深謝

このあと大和に移り住んだところが神社由緒にも出てきた鳥見の白庭山というところで、現在(通称)矢落大明神、矢田の大宮さんと親しまれる矢田坐久志玉比古神社(やたにますくしたまひこじんじゃ)(名神大社 県社 奈良県大和郡山市矢田町956番地)があり、ご夫婦が仲良く祀られている。神社より戴いた御由緒を掲載する。

 櫛玉饒速日命は御別名を、天照国照彦火明櫛玉饒速日命と称し奉ります。御父神は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(天之忍穂耳命・天照坐皇大神の御子)、御母神は萬幡豊秋津師比売命(栲幡千千媛)であられます。御父神が天津神の命により、天孫降臨に先立ち豊葦原中津国仮平定のために天降ろうとされたときにお生まれになりました。
 御父神は天津神に御子神を御自分の代わりに天降らせ給えとお願いになりました。
 天津神は命を御召しになり天璽の十種の神宝を御授けになり、『若し痛むところがあれば此の十種の神宝を使って、一二三四五六七八九十と唱えて打ち振りなさい。そうすれば死者も甦ります』と申され、あわせて天羽羽矢・天羽羽弓(天歩靫)をも授けられました。三十二従神を率連れ天磐船に御乗りになり、初めに河内国の河上の哮峯に天降られ、その後大和の鳥見の白庭山(現在地にして御終焉の地)に遷り住まわれます。命は天磐船に御乗りになり、天空を翔け巡りながら三本の天羽羽矢を射放たれ、矢の落ちたところを宮居と定め天降られました。
 一の矢は神社南方約五百メートルに、二の矢は神社境内に、三の矢は神社北方約五百メートルに落ちました。このことから御社号を『矢落神社・矢落大明神』とも申し上げ、この地を『矢田』と呼ぶようになりました。
 土豪の長髄彦(登美能那賀須泥毘古)の妹の御炊屋姫(登美依毘売)を娶り妃とし、宇摩志麻遅命(宇美真手命・建国時の近衛長官)をお生みになります。神武天皇が東征されると、命は既に平定を済まされていた畿内一円を御渡しになられます。  天皇は東征出発の前、天璽を授かった日の御子が、天磐船に乗られ、東の四方を青山に囲まれた美地に天降られていることを塩土老翁(塩椎神)から御聞きでしたので、命の忠節を殊の外喜ばれ、神剣を御授けになり大勲に報い給われました。
 御神裔の物部氏の崇敬篤く、御創建当初より六世紀前半期に至る間は畿内随一の名社として栄え、御社殿は宏壮美麗を極めた当地方最大の古社でありました。
 命と共に降臨した一族はこの地に定住し、命没後、御魂を安めるため社を建て祭祀を執り行っています。
 毎年一月八日に御神域前面に大綱を掛ける『綱掛祭』は、雄龍雌龍になぞらえた二本の太い綱を用意し、御神前にて更に一本の大しめ縄にないます。
 水神としての龍の力を仰ぎ、適度な降水による農作物の豊かな恵みと水運の安全を祈願し、雄龍雌龍が結ばれることによる子孫の繁栄を祈ります。天磐船の降りた処に守護神の龍神を示す縄を幾重にも巻き、命への永遠の側近警護をお誓いします。
 天璽の十種の神宝の御神徳から治病息災健康長寿の神・医術の祖神『医療祖神』と共に近年は天磐船の故事から飛行の祖神『航空祖神』として航空関係者・旅行者の崇敬が寄せられています。
 楼門のプロペラは昭和十八年、大日本飛行協会大阪支部から奉納された中島飛行機製の陸軍九一戦闘機のもので、堀丈夫陸軍中尉より『神威赫奕』と揮毫されています。

この近くには式内社・村社登彌(とみ)神社(奈良市石木町六四八―一村社)もあり、ニギハヤヒ夫妻の住居地の伝承を残し、かつまた皇紀四年、春二月二十三日、神武天皇が、この地に於いて、皇祖天神を祭祀されたのが、そもそもの淵源であり、その後、登美連が、祖先である天孫饒速日命の住居地―白庭山であった、この地に、命ご夫妻を奉祀したのが、当神社のご創建であると社伝する。この伝承を同様に伝える神社が桜井市にある県社等彌(とみ)神社であり、御祭神は大日?貴尊(おおひるめのむちのみこと)すなわち女王アマテラスである。『日本書紀』に伝える登彌神社は果たしてどちらなのか。私は双方共に参拝したことがあるが、奈良市の神社は参拝者も無く、地元タクシーの運転手もその場所がわからずくるくると迂回したほど、市民の認知度が無い。後日手紙を出し、現在神主が居る事は確認できたが、代々の社家は途絶え、寂寂たる思いをした。一方桜井市の方は参拝者も多く境内整備もなされ賑わっていた。だが、大和地方を平定した神武天皇が即位後四年、大和鳥見山の上小野榛原及び下小野榛原に天津神を祀る場である「霊畤(まつりのにわ)」を築いたとされるスポットこそは、やはり通称、木嶋大明神(きじまだいみょうじん)として崇敬された 登美饒速日命(とみのにぎはやひのみこと)を祭神とする奈良市の村社登彌神社の方であろうと私は推測する。この二社の置かれた現状こそは女神アマテラスにその座を奪われた無念の祭神と社叢の荒廃ではないか。

霊畤(れいじ)」とは神霊があつまる場所という意味だが、ここでは神事を行う斎場ということだろう。東征にあたって神武天皇は天津神たちにさまざまな加護を受けており、それに対する感謝の意を表したものだろう。当然祀られる天津神とは神武東征の最功労者たるニギハヤヒが最適である。ちなみに上下の「小野榛原」の名を現代につたえる場所は奈良県宇陀郡榛原町である。しかし、鳥見山(桜井市)からは十キロも離れており、伝説の地かどうかは定かではない。

そもそも初代風速國造物部阿佐利命(もののべのあさりのみこと)は応神天皇の御宇(四世紀)、大和國から勅令を奉じ着任し、国内の開拓、民生の安定に努められた。その結果初期の目的をおおむね達成したとして「我、大御宝(おおみたから)の幸せを願ふ。一願を成就せり。是は祖神の神々の恩頼(みたまのふゆ)によってなされたものなり」と一念発起され、一社(櫛玉饒速日命神社(くしたまにぎはやひのみことじんじや))を建立したのが風早宮大氏神の起こりとされる。まさに鳥見山霊畤(とみやまれいじ)の地方版さながらではないか。