風早物部饒速日王国

勝岡八幡神社御神紋:左三つ巴

勝岡八幡宮 御輿一体走り

勝岡八幡宮御由緒

勝岡八幡神社 拝殿

当社の創立は非常に古く、今から1500年位前応神天皇の御代(4世紀後半)、伊予国に国造として饒速日尊神裔・小千命が御滞在中に、たまたま堀江方面から大変強い勢力のある兇賊が勝岡方面に襲来して善良な庶民をいじめ困らせましたため、小千命は早速勝岡にあった白人(うらど)城に拠って、強賊を平定いたしました。お陰で庶民は救われてやっと安堵の胸を撫で下ろしました。この功績によって小千命は朝廷より恩賞を賜り、勝ち戦にあやかって白人城の地を勝岡と名前を改めたとのことです。このように勝岡という名前は誠に由緒深いものがあります。「予章記 長福寺本」ではご神体が小舟で流れついた所は和気郡の堀江と言われている。

この時の戦いで討ち取った兇賊を三津より北一里ばかりの地点・()の谷に埋めたと記されていますから、これは今の太山寺の裏手から高浜に出る()の谷と思われます。今ではこのあたりも開墾されていますが、大正末期までは草木が生い茂る昼尚薄暗く一人で通行するのは気味悪いばかりの谷間でした。

その後小千命は諸所に館を設けて一層庶民に仁孝を施されましたから、命から直接恩恵を蒙った私たちの先祖は命を敬慕する情極めて厚く、後に命を太山寺字小山の中野山に斎き奉って白人宮(うらどのみや)と申し上げ、賊を平定した8月7日を祭日と定めて、祭りを始めたのであります。この祭日決定は伊予国では最初のことだったそうであります。これらの事柄を踏まえても命の御仁恵の深さと先人が命を崇敬した心のゆかしさがしのばれます。白人の宮は今から600年近く前の後花園天皇の永享年間惜しくも戦火に遭い社殿と共に社記宝物などことごとく焼失しましたことは、誠に残念でなりません。

勝岡八幡神社 本殿

私たちの先祖は白人の宮の焼失を惜しみましたが、霊験ますます新たかなため、由緒深い勝ち戦の城址である勝岡の現在地に構想を大きくして遷宮し、同時に宇佐八幡を勧請して名も勝岡八幡大神と称え奉ることになったのであります。宇佐八幡の祭神は応神天皇、神功皇后、日売大神であります。

かつて、町名と神社名が同じというのは恐れおおいということで、勝岡町の辺りを「片岡」(かとか)と呼んでいた時期もあったが、昭和17年の町名変更の際に再び町名となった。社格は郷社。

勝岡の神輿一体走り

勝岡神輿一体走り 1

勝岡神輿一体走り 1
画像出典:Wa☆Daフォトギャラリー

愛媛県松山市勝岡町の勝岡八幡神社秋祭りの御輿一体走りは県下に例のない変わった神事である。一体走りの起源は主に下記の通りです。宝暦4(1754)年の和気郡代官所記録に「勝岡八幡宮出走込み」とあるので、この行事を「走り込み」といい、江戸中期に既に行われていたことが判明した。現在松山市の無形民俗文化財に指定されている。

勝岡神輿一体走り 2

勝岡神輿一体走り 2
画像出典:Wa☆Daフォトギャラリー

 勝岡八幡大神は霊験あらたかな大神であらせられ、朝廷の御尊崇厚くその昔、勝岡八幡神社が朝廷から宮号と菊花の紋章を下賜(かし)され、幣帛を奉られた際、当時、遠浅の地の利による勝岡の特産品であった食塩を献上しました。以来、勝岡の塩は珍重され、そのため御用船は都としばしば往来したと伝えられ、裸の若者(輿丁)達が御輿や唐櫃に乗せて塩をかついで、和気浜沖に停泊する御用船まで運んだという言い伝えに由来します。また一説には大神の鎮座まします白人の丘、広い神域の近くまで入り江で、砂洲塩田浅瀬であり、氏神に奉献する五穀開山の幸は、唐櫃に収め裸の若者たちが奉仕して、掛け声勇ましく潮時を見計らって往来したことに始まったとも伝えられています。 秋の例大祭日はお旅所での祭典の後、御神輿は裸の輿丁が奉仕し、潮時に合わせて砂洲、浅瀬を渡り氏の里ざとへ掛け声勇ましく、御神幸せられた。これが古老のいう「おたび」であろう。

勝岡神輿一体走り 3

勝岡神輿一体走り 3
画像出典:Wa☆Daフォトギャラリー

 要するに勝岡八幡神社独特の神事一体走りは、往昔の面影をしのび始められたものであろうと古老の口碑に今も伝えられています。古代の祭礼日8月7日にちなんだ10月7日の例大祭日の宮出しは10月7日の例大祭の御輿渡御は日の出頃に行われ、社殿から神門までは御輿を高く差し上げたまま宮出しする。高い石段、長い馬場、おりからの旭光を浴び、金色に輝く7体の御神輿。かつては馬場をうずめた老松の深緑に映える黄、赤、浅黄(水色)の優雅なオキヌの色調。勇ましく美しいジャンジャンジャンの鈴の音は広い神域にこだまして、優美勇壮誠に豪華絢爛な時代絵巻を一時間半にわたって展開する。

勝岡神輿一体走り 4

勝岡神輿一体走り 4
画像出典:Wa☆Daフォトギャラリー

 お旅所での祭典が終わると、いよいよ御輿の一体走りである。祭神小千命は荒神様であり、氏子はその意を体し、一体走りは文字通り御輿一体ずつが、神社参道100メートル余りを青年10人ほどが御輿をかいて疾走する競技である。青年たちは潮垢離をとって身を清め、鉢巻きを締め褌姿に襷掛けのりりしいいでたちで走り込みをする。筋骨たくましい氏子青年の健康美は若き男子の晴れ姿であり、女子の憧れの的でもあります。一体走りの栄誉に輝く若者はそれぞれの神輿の前で記念撮影のあと走る順番待ち。走り込みの順番は、安城寺-和気-太山寺-和気浜-高浜6丁目と昔から決まっている。何でもこの順番は地区を流れる宮前川の水利慣行に関係するらしいが、由来は不詳。合図一声、御輿は走り込みをするが、この場合御輿を上下左右に揺らさず、美しいフォームで参道を見事に疾走するのがコツで、それを競う。激しい動きのなか、霊妙なるバランスを得る時、神鈴は音を止める。鈴が鳴らない様に水平を保つと神輿は宙に浮いて馬場を一直線に快走。息きづまる一瞬、まさに神人一体・尊厳神秘の極致である。無事完走、魅せられた大観衆は万雷の拍手と喚声をもってこれを賞揚する。次々これを繰り返し、馬場先はしばらく拍手喚声の坩堝と化す。

 私たち先人が遺した誠に由緒深くまた、勝岡独特の重要文化財一体走りは子々孫々に末永く存続したいものであります。

安城寺の川狩神事

安城寺の川狩神事 1

安城寺の川狩神事 1
画像出典:Wa☆Daフォトギャラリー

 御輿渡御に関連して安城寺の川狩神事がある。本行事は秋祭当日、青年取締役と一体走りの輿丁10数名が褌姿になり、御輿を久万川にかつぎ入れて、流水で祓い清める神事を言う。

この由来は、勝岡八幡神社の旧神主家柳原家にゆかりある伝承という。柳原神主家の屋敷は安城寺の太夫田(地積60アール)と伝えられ、その一隅の小社に金無垢の御神体が祀られていた。

ある年この御神体を勝岡八幡神社に合祀することになり、神遷しをしたが神社石段下までは事なく運んだのに、それより上へは一歩も進み得ず、幾度か試みた挙句、御輿を洗い清めて出直すことを思い立ち、太山寺川に引き返し、川狩りをして出直したところ、こんどは不思議にも御神体がやすやすと石段を上ることができた。

安城寺の川狩神事 2

安城寺の川狩神事 2
画像出典:Wa☆Daフォトギャラリー

川狩神事に因む故事であるが、安城寺の里人はそれでこの太山寺川を一名祓川と呼んでいる。爾来この神事は近在に見られない特殊神事として毎年数百人の見物客があり盛観であったが、河川の汚染が著しくなり、久万川における神事は昭和42年で中断され、現在は太夫田のほとりの小川で行事を続けていたが、平成の御代になり地元の要望と愛媛県当局の親水公園整備事業とをタイアップさせる形で、今日のように立派なプール式川狩り斎場ができあがったのである。なお本神事は一説によると勝岡八幡神社(男神)の御霊と諸山積神社(女神)の御霊の御輿が打ち連れて門回りをし、各所で合体(御輿の長柄を何回か打合せる)を行ったことから目合(まぐあ)い説に起因するとも巷間言われる。

川狩り神事の関連リンク