風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第二章] なぜ神輿を(なげう)って壊すのか

1.風早國造神主(かざはやこくぞうかんぬし) 井上忠衡(いのうえただひら)宮司の御薨去ごこうきょを悼む

在りし日の忠衡宮司 左、巫女の冠を整える気遣いをお見せになった。大濱お旅所祭典会場にて

在りし日の忠衡宮司(神輿奥に着座)、御動座祭にて

拙論初の上梓にあたって、御子息の忠史(ただふみ)禰宜(ねぎ)(現宮司)と共にご指導いただいた忠衡宮司が去る平成十七年五月十八日、薬石功無く御薨去あそばされたことは誠に残念の一語に尽きることで、衷心より哀悼の意を表する次第です。

宮出し祭典に臨むため石段を正装して上る忠衡宮司

思えば平成十六年の松尾神社の祭典でお会いしたのが最後となりました。温厚篤実・剛毅清廉のお人柄で、孫の世代の私にもよくお目をかけていただきました。先号(風早歴史文化研究会機関誌『風早第53号〔平成17年5月1日発行〕』)の原稿を校閲願い、過分なお褒めの言葉もいただきました。今となりましては図らずも生前、原稿の段階ではありましたが、お目をお通し下さったことがせめてもの慰めです。

過ぐる平成5年、風早宮大氏神御鎮座千百年祭祝宴において、私の手を握って「氏神様のことを頼むぞ。」と涙目で真剣に仰られたのを私は、神社奉職にあたって日々の糧にしてまいりました。手元には宮司肉声の講演テープもありますので、いずれデータ化して当サイトにアップしていきたいと考えています。

松山市八反地八竹山墓苑にある風早国造神主家の墳墓

また宮司が兼務社でありました当職が奉仕する「松尾神社御祭神由緒」を過ぐる平成十二年八月、石碑で建立したときには、その玉稿を賜りました。この事業は『中西外区は旧北条市内有数の祭り所ではあるが、村社の由緒や祭神についても、他に語れないようでは本当のまつりびとではない』との見地に立ち、神社総代の末席を汚す私を含め宮総代一同の建議により区長以下役員の御賛同を得て境内地に落成したもので、これにより中西外区氏子末代に主祭神大山咋命(オオヤマクイノミコト)をはじめとするあまたの御祭神の御神徳が、広く伝わることとなりました。

生前の御遺徳をたたえ、宮司の御冥福を祈りつつ、稿を進めて参りたいと存じます。

合掌


阿蘇神社の楼門。日本三大楼門の一つ

「國造」とは大和朝廷時代・古代の地方長官(県知事職相当)を意味する名称だが、元来はそれぞれのクニ(古代地方国家)の王であった。風早宮大氏神同様に現在熊本県阿蘇市一宮町宮地3083-1にある肥後國一宮の式内社(明神大社)阿蘇神社(旧官幣大社・全国450社阿蘇神社の総本社)も初代阿蘇國造であった速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が建立し、祖神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)阿蘇都彦命(あそつひこのみこと))と妃神(きさきかみ)阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)をお祭したのが始まりで、近くには國造神社もあり初代國造夫妻(妃神・雨宮媛命(あまみやひめのみこと))を開拓・農業神として祀る。阿蘇國造神主家(大宮司家)は朝廷と結びつき阿蘇神の神威を高めていった。

阿蘇大観峰にて井上櫛玉社宮司と(平成20年5月22日)

阿蘇品保夫氏はその著『阿蘇社と大宮司』のなかで「阿蘇大宮司家には天皇家とよく似た性格を指摘することができる。‥‥天皇家も大宮司家もその国土・地域の支配と祭祀の統括者であり、その地位の正統な継承者とされているところに権威の原点があった」と述べている。現在は第91代阿蘇惟之氏が大宮司職を世襲している。律令時代を経て中世に至ると、現在の阿蘇市一帯の社領(荘園)を統べ、大宮司として神職と武士を束ねる座に就いた。その勢力は肥後一円に及んだという。愛媛県内では風早國造と同様古い歴史を誇る伊予國一宮の式内社(明神大社)大山祇神社(旧国幣大社・全国一万社余りの三島神社の総本社)創始の越智國造の末裔から武士化した河野水軍が興ったのと合わせ興味深い。風早國造家の来歴も今後の研究課題といたしたい。

現在の阿蘇神社大宮司は91代目

以下、阿蘇惟之(あそこれゆき)大宮司の御文章を紹介してこの稿を展開してまいりたい。何故なら本章こそは風早火事祭(かざはやのひのことまつ)りの考察であり、大宮司も運命共同体としての「祭り」の意義をお説きになっているからである。

わが国は、敗戦の中から不死鳥のごとく立ち直り、未曾有の経済復興と世界が驚嘆するほどの繁栄を果たしました。その結果、押しも押されない経済大国となり、生活は豊かとなり、恵まれた環境になりはしました。けれども何か大切なものを見失った感があります。たしかに経済の発展は、共同体としての生活と地位向上に役立ちました。しかしわが国をわが国たらしめる上で必要不可欠な要素であります連帯感・信頼感・倫理観という精神性において、脆弱さが顕著になってまいりました。

古来、みおやたちは農業の手振りの中から生活の生き方や規範を学んできました。自然とともに生きるみおやたちの生き方の中心には、常に神様がおられる神社がありました。

さらにみおやたちは、神社に心のよりどころ、魂の安らぎを求めました。地域社会の中心には、津々浦々の神社があります。氏神さまや2000年来の祭りがあればこそ、運命共同体としての喜び・悲しみ・怒り・苦しみを分かち合うことができたのです。そこに地域の連帯感・信頼感・倫理観が自ずと醸成されてまいりました。

私どもに課せられました使命は、みおやたちが心血を注いで築き上げてこられた連帯感・信頼感を取り戻すことに尽きます。この尊い精神の絆を取り戻し、堅持し伝えていくことがわが国の発展の基となることを信じて、日々、ひたすらに神明に祈りを続けております。

- 学習研究社2003年3月13日刊「神社紀行17 阿蘇神社」より抜粋