風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第二章] なぜ神輿を(なげう)って壊すのか

5.祭礼奉仕少年団こそが健全育成の要
― 懐想~松尾的!正しい秋祭りの迎え方 ―

  • 松尾社の宮出しの練り
  • 平成元年に新調された松尾社の神輿(自宅にて)
  • 松尾社の神輿を自宅に迎える
  • 中西外獅子舞保存会による「親爺と猿」
  • 老人ホームも慰問する獅子舞
  • こよりの制作風景
  • この小旗にこよりを糊づけする
  • 昔は日の丸も1枚毎手作業で乾かしたもの
  • とにかく日の丸大好きの氏子は、綱引きでもこの様子
  • 難波小学校運動会でも祭の種目
  • 区長さんをいち早く頭取に仕立てます

新開区友人椙野氏謹製のミニ神輿が当家に渡御(秋祭り自宅祝宴)

小学校三年生になると地元自治会ごとに、少年団に入団することになる。子供大将(主・「オモ」とも言う)と呼ばれる責任者は中学校三年生の中から選ばれ、今でこそ少子化でやむなく女子を加入させた所もあるが[かく言う、ウチも平成十四年から解禁]、本来は女人禁制でダンジリの提灯の火の点火は特に童男の役目とされてきた。[これも電気配線となり、その意味するところが廃れてしまった]何も私は女性蔑視論者ではないが、世の中全ての事象を男女に平等に機会を与えることの徹底が、男女同権でも、男女共同参画社会の実現でもないと確信している。(女性大阪府知事の土俵入り問題など)旅館・料亭は女将だから、また次行きたくなるもの。歌舞伎は女性を幕府の命とは言え排除し、登場人物・演目に制約があったからこそ、あそこまで世界に通用する我が国の最高の舞台芸術に昇華されたのである。女性以上に女性らしい男性による「女形」が生まれたのである。

話が多少脱線したが、少年団に入ると上下関係は厳しく、まず先輩には逆らえない、学校の色んな情報交換や、時には思春期関心の的のエロい話も先輩から教わったりした。また近くの墓場まで肝試しを敢行して、度胸をつけたり,地域の習俗、伝承の言われなども学習した。時には、どう考えても理不尽で合理性のないことと思うこともあったが、自分たちが子供大将の歳になったら改善しようと子供ながらに密かに誓ったりしたものだ。一方学年が上がるごとに、自覚と責任が求められ、最高学年ともなると、学校への届出書類やら、地域の人々との打ち合わせ、いわばリーダシップや交渉術、表現力も自然と養われて行ったのである。いわば少年団は、将来地域を背負っていく子供達にとって通過儀礼的役割も為す若者宿であり、世のため人の為に社会に役立つひとづくりの拠点でもあったのだ。もちろんその原点は郷土愛である。

ではここで中西外区・松尾氏子の少年団時代を振り返ってみたいと思う。

小学校3年生になると男子は少年団に入団する。区内の中学校3年生までの男子で組織され、当然最年長の中三生が子供大将となる。私が入団したのが昭和51年の秋。入団者の最初の試練は笹飾りに使用する紙縒(こよ)りの製作命令である。

だんじりの旗付作業の風景(風早タウン氏子提供)

そのノルマは最低学年では100本、次第に中学校2年まで徐々に増えていき、最高ノルマは1000本程度だったと記憶している。当然支配者階級の中3生はノルマ無しだ。入団した当時は全く縒れず、全て家族のお手製による供出であった。薄いきずき紙を幅1.5㎝程度に切り裂き、両手の器用を使って縒りのかかった真白な100束の紙縒りを作成していく。完成したそれはまるでそうめんの束のようで眩しかった。常に毎年挑戦するが、当時は自分がやるとそうめんのようにまっすぐ硬く長く縒れない。あまりそれを繰り返していると家族から「なんしよんの、紙がもったいないのに。」と静止される始末だ。そう、この頃はきずきは自前で買わなければならなかった。祭礼のためならとゴタゴタ言う利己主義の家庭は無かったおおらかな時代。しかしいくらお祭りどころでもこれは改善が必要と子供ながらに感じていた。町内会の祭礼費で手当てすべきものと思ったから。それで私が晴れて子供大将になった時、当時の村上政敏区長に掛け合い、区費でもって用紙を購入、しかもあらかじめ短冊状に裂いた状態で各家庭に配布することを提案、その年から採用された。我ながら良い改革をしたと思っている。

さて紙縒りの提出日は子供ながらに戦々恐々としたものだ。何しろ鬼の子供大将が一人一人の成果品を査定し、合否を決めていくのだから。落第すればやり直しである。幸い私は全ての学年で合格したが、縒りが甘かったり、丈が短かい、ピンと立っていないことを理由に付き返された同級生もいた。今は子供の数が減少したため、小学校全ての男女を子供会活動と称して少年団の構成員に拡大したが、それでも準備に支障があるので、すべて紙縒りの既製品を購入している。したがって大体中学校になると一人前に縒れる紙縒りを縒れないまま成人を迎える氏子が大半になってきた。もとより縒れないといって日常生活に支障はないのだが。

松尾社の神輿を自宅に奉迎する

だんじりの天幕を飾る日の丸の笹飾りも昨今はぱらぱらの七夕程度だが、私たちの頃は、一本に2500枚から3000枚程度びっしりと結ぶ(いわえる)ことを命じられていた。特に中西外区の屋台の笹は他のところより1.5倍くらいは付いていたのではないか。緑の葉や幹が見えないくらい吊りさがすのが松尾流だった。どこよりも、何事にもトップでなきゃならない威厳あるうるさ型、こだわり派が昔はいたものだ。当時10月10日であった神楽(かぐら)(大氏神例大祭日)には、朝から団員総出で笹に日の丸を片端から付けていった。それでも大・小だんじり合せて8本の笹飾りを完成するのは正午頃になる。これにも意地悪な(ほんとはやさしい)中3生がわざと笹を振り回し日の丸の小旗を落としていく。なんせ何十枚と落下する日の丸なんだからね。付け方が甘いと怒られる。手元の小旗が消化できればいいやと嫌気もさしてきた頃、一箇所に複数枚いわえたのが見つかりでもしたときには、張り飛ばされたものだ。この時は先輩を疎ましく感じた。まるで軍隊教練さながらだった。それでも公徳心や公共性を肌に感じていたかどうかは分からないが、指摘を甘受して繰り返し巻き返し付け替え付け替えようやく合格をもらうことに従順努力した。一方先輩方も作業後の道路の清掃や用水路に落ちた小旗を拾うように指示するなど、時に優等生的な大人の片鱗が見えたりしてちょっとおかしかった。びっくりしたものだ。そうそう、前後するが半紙を六等分した日の丸は10枚程度を重ねて先輩が色粉を溶いた深紅の溶液に芋やなすびを半分に切って、前から後ろからと判を押していって製作するんだよ。それを先輩からもらい集会所大広間に一面に敷いた新聞紙の上に一枚づつ広げて乾かせていくんだ。

重かった松尾社旧神輿時代

そして一晩置いて翌晩回収。それが終わると出来上がった紙縒りの糊代に一枚一枚のりを付けてつけていく作業へと移る。私語を許されず3名程度に班分けされてノルマを果たしたところから家に帰ることを許された。これにもこつがあって、旗をそのまま重ねては糊がひっ付くので少しづつ鯉のうろこのように効率よく並べて、テンポよく紙縒りを置いていくのが最良とされる。糊は多すぎても少なすぎてもいけない。だが現在はこの旗作りの作業も無い。余りに手間がかかるので印刷業者から既製品の日の丸を購入して、これまた既製品の紙縒りをセロテープで止めている。「(より)(祭り準備会)」も塾や部活が忙しく必要最小限に実施されているに過ぎない。当時はこの一連の作業が夏から秋祭りまで毎晩のように続いた。「決まって区内への放送は「小学校3年から中学校3年までの男子の方は今から寄りをしたいと思いますので、今すぐ集会所に集まってください。」こうである。声変わりしたいわゆるオイサン声になった中学生たちが集会所からマイクを握るのが慣例だった。これを聞くや否やまるで消防士のように自転車に跨り駆けていくのである。何かの事情で来られないときは事前に届けが必要で、協力せず怠惰して欠席しようものなら「祭りに参加させないぞ!」と恫喝まがいの言質を先輩から浴びせられたりもした。人権至上主義がはびこる昨今なら、いささか問題発言だろうか。そんな過酷奉仕作業の連続―ことに旗乾かしは腰が痛く単調の作業の連続だ。子供ながら飽きてくると、先輩たちも心得ていてドンマやプロレス、エロ本の回覧、墓地への肝試しといった遊びを織り交ぜて緩急を付けることで、我々の人心掌握を図っていたようだ。また時折、愛護班(PTA)のおいさんから差し入れされたジュースに心躍らされもしたね。これもノルマ達成の優秀者からしか飲めなかった。10歳前後のまだ初々しい少年時代であった。もう昔の区切りで言えば「初老」の祝いをしなければならぬ歳を迎えている私である。

9月中旬からはだんじりを格納している会堂に集まって「アルボン」と呼ばれる真鍮磨き液で本体の金具を磨いていく力仕事が要求された。これも検査があり先輩の顔が真鍮に映るまで磨かされたものだ。おかげで両手が機械臭くなった。旗作りでは赤く手を染め、旗付けでは指が糊で乾いてカチカチとなった。それでも中学2年生になるとだんじりの四方にあるギボス(欄干の玉葱状の真鍮:宝珠)と呼ばれる真鍮の塊を預けられ、各人が責任を持って磨きをかけるように命じられる。当時これを拝命することは幹部候補生の証とされ名誉なことであった。さらに上級生になると半鐘をしわく(たたく)サイコン槌や太鼓のバチも毎年新調することを課せられ、さすがにこれらは両親・祖父母の恩恵に預かった。核家族で用意できない者はホームセンターで既製品を買って上納していたが、先輩からは余り評判がよくなかった。世間とはこういうものかと手作りの価値を思い知った。

10月に入ると鐘・太鼓をたたく練習が始まり、松山の宵宮(10月5日)からは子供だんじりがいよいよ区内町筋に練りだした。それでもきちんと九時までには解散するように徹底していた。子供ながらに騒音環境に配慮していたのだろう。まあ、鐘がやかましいなどと苦情を言う住民も皆無であったが‥‥。

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松尾社の御動座祭風景

10月9日は清祓い・宵祭りである。この日早暁、各組毎に一対の幟と一対の御神燈を辻に建て、各家では御神燈を掲げ、町筋では御幣の注連縄を張り巡らす。こうなると祭りムード一色だ。この日はまだ登校日なのでしぶしぶ学校へ。でも授業なんかは上の空である。祭り後に実施される中間テストは決まって成績が落ちた。翌日は体育の日で休みだが、さきほどの旗付けがあった。11日、12日は地方祭で休校であった。(3連休)

10月10日午後一時からはいよいよ大・小二体のだんじりの本格組み立てが区の役員たちで行われた。夕方近くまでかかる重労働だ。でもあの完成したときの感動は忘れられないね。何といっても夏からの鍛錬と言おうか「強制労働(笑)」の集大成だから。

その晩は中学生以上は集会所にお泊りを許される。翌午前一時頃僕たち小学低学年は鐘に棒を通したものを魚売りのように二人で担ぎ、区内を歩いて回りながら絶叫する。「オイサン起きてよおオー、宮出しでえー」これの繰り返し。恥ずかしいが、お祭りだから義侠心を出す。呼び鐘をジャンジャン鳴らし、それでもその当時は出発が遅く午前4時過ぎだったように思う。現在は2時出発だから隔世の感がある。町内を触れて回る呼び鐘の風習も廃れた。

松尾社宮出し後の風景

ともあれこれからが祭り本番の宮出しだ。この時は男の本懐ここにありという感じで高揚感に浸る。祭りに参加できる優位さを女子に対して感じたものだ。女子の方も今のように男子顔負けの奇抜な法被を着てだんじりをかき散らかすのではなく(昔は女子の祭り参加は原則解禁されていなかった)、制服を着てそっとお目当ての男子の写真を撮影するのが通例であった。微笑ましいではないか!まだこの頃までは男に大和魂、女に大和撫子といった日本人の美徳がかすかながら残っていたような気がする。

また気候も変わった。秋祭り、特に早朝の宮出しは寒かった。だから浴衣の下に毛糸を着込みパッチをはいたものだ。それが昨今の祭りはまるで夏祭りの如く残暑厳しい。装束が法被に変わったのは松山地方祭や岸和田だんじり祭りに感化されたせいもあるが、地球温暖化で纏わりつく浴衣ではどうにもこうにも暑くてやれなくなった側面もあるだろう。金木犀の香りもいささか遅くなってきたもんね。

私は月に一回程度、同級生が開院している「しのはら鍼灸院(下難波)」に通院しているのだが、よく施術中、四方山話をケンチュウ(篠原健竜君)とする。彼の話によると

「この頃の子らは僕らの頃と違ってその数が少なく、どうしても親や大人の力を借りなければ何もできないから可哀想。あれでは祭りもおもしろくないだろう。それに、もう祭りに関心の持てない子供すら出現してきているんだ」とのこと。

事なかれ主義や安全面の配慮を優先するあまり、大人社会の管理が行き過ぎて主体的な立案と実践ができないのでモチベーションを維持するのが難しいということだろう。伝統あるバンカラ少年団も少子化や男女同権思想の蔓延により女子への祭り解禁や先輩後輩の上下関係に基づく徒弟制度云々が封建的なんだとか忌避され、お友達内閣ならぬ横並びのお祭り同好会と化した。果たしてこれで良かったんかね?子供らは楽しいんかな?どうもそうではないというのが、ただ今の同級生・ケンチュウからの現場報告だ。

にしてもこの発言にはいささかショックを受けた。北条に生を受けたら九割方の男は、お祭り好きの遺伝子を刷り込まれて生まれてきていると信じていたから。これも時代の趨勢なのか。お祭り好きの遺伝子が環境の変化で弱まっている。

宮出しのとき、先輩から特に低学年に注意されたことはだんじりを押す者(低学年はかき棒に背が届かないので押し方とされた)は決して進行方向に入らず後方から本体を押すこと(安全運行の厳守)、手振り提灯を持つ者(これも低学年の役とされた)には、他町からこれを奪われないよう命を賭けて守り通せという厳命を受けた。だから八反地の馬場に近づくと武者震いしたもんだね。何か特攻隊にでも出撃する気分になった。なんせ戦支度よろしく鐘と太鼓に日の丸の固まり背にしょってんだから‥‥。でも幸い一度も提灯を取られたり破かれたりしたことは無かった。恐らく戦後直後は、はばしい(荒々しい)若者が戦地から大挙帰国し、だんじり同士の喧嘩が絶えなかったというから、その名残を先輩たちが気合を入れさす意味で伝えてきたものであったのだろう。

小祭では各家で獅子がつかわれる。

こうして大氏神馬場では火事祭りの異名を持つ各町屋台の参道での練り合いが行われ、午前6時神輿の宮出しの後、松尾屋台が無事に午前7時前、中西外区集会所に帰還すると今度は練りで落ちた笹飾りにまた日の丸を補充する作業が待っている。夕方宮入りの練りのためである。現在ではこうした手の込んだことはやらない。そして昼間中西内区より受けた神輿の渡御がなされ、郷境・森田製材置き場で鳥居元・八反地区に引き渡すと、夕刻宮入のため再度だんじりを神社に向けて運行させる。馬場には夕陽を背にして正岡・難波校区各町の屋台がひしめき合い、祭り終焉の名残を惜しむことになる。

以上、少年時代のお祭りの思い出を回想してきた。総じて苦しいことも多かったが、やりがいや学校生活では味わえない封建的上下関係が織り成す人間の絆や友情、地域社会の連帯の輪が体感できていたと思う。しかしながらこれらよき美風は、年々廃れていっており信頼と尊敬に支えられた地域共同体の再生をいかにすればいいかが、喫緊の課題であろう。時代は移り少子高齢化時代で、伝統文化の継承は危機に瀕している。一連の準備作業をうまく効率化することも必要だし、だからといって祭りの本質を忘れてはならない。公私のバランスや祭礼とイベントの識別感覚が求められるなど、かつてない大いなる渦中に我々は生きている。

忠衡宮司の玉稿により竣工した松尾社御祭神由緒碑

そんな中、わたしたち松尾神社総代会では先年(平成十二年八月竣工)、祭神と神社縁起を記した碑を境内地に建立することが出来た。それはダンジリをかいても、神輿をかいても自分たちの神社に誰がどのようないわれで祀られているのか知らない子供達が大半だったからである。更に平成十五年度秋季大祭より、愛護班を管理担当として、男女を問わず幼児から中学生まで大人同様の意匠による公認法被のレンタル制度をスタートさせた。さらに同年から例大祭祭典終了後、子供神輿の渡御途中にあたるためわずかな時間しかとれない制約があるが、井上宮司より神社・祭礼について分かりやすくご講話をいただき、保護者からも好評である。(拍手の打ち方の実技指導や四季の祭りの意味など)私は神社の歴史を知ることは、地域の先祖の歴史を探究することであり、国土(郷土)開拓の苦難に思いを馳せてこそ、心身ともに健全な人間に育っていくものと確信している。小さくとも村社は地域コミュニティの心のよりどころであり、老若男女のいやしの源泉である。今後とも氏子各位の英知を集約しながら、大氏神はもとより産土神(うぶすなのかみ)松尾神社の護持・発展に微力ながら努力したいと考えている。