風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第二章] なぜ神輿を(なげう)って壊すのか

3.古代の軍港・熟田津にぎたつはいずこ

風早熟田津説について松岡進氏より薫陶を受ける

伊予古代史・最大の謎の一つに熟田津の所在がある。松山市の堀江、三津浜、旧小野川河口と各所に候補地がひしめいている。私は郷土風早こそ熟田津と信じている。(松岡進著『草燃える日の伊予―謎の熟田津』に詳しい。)松岡氏には生前平成四年十月十七日に若者塾の講師として北条に招聘した経緯がある。氏によれば、大三島鎮座の大山祗神社に伝わる『三島宮社記』に

「十代崇神天皇四道将軍の件…二名洲風早浦に到り、行宮(かりのみや)を起こして以って之に居る。是を遠土宮(おんどのみや)と謂い、今以って風早浦に國津彦神社あり。」

画/野本喜三雄氏「熟田津の海」

を根拠の一つに挙げられ、これを『日本書紀』にいう石湯行宮(いわゆのかりのみや)とする。加えて私見では、速日尊の坐す(平野)の(港)から、ここであると確信している。氏が当時何度となく「この栄光の歴史を有す風早をもっともっと全国の皆さんに知らしめて欲しい。」と声を振り絞って訴えられたのを、今に思い出す。

旧周桑郡小松町にお住まいの郷土史家玉置浅行氏も大作「熟田津と邪馬台国」のなかで古典を紐解いて古代伊予国に「熟田國」があったとし、その軍港こそが「熟田津」であると論考されている。ただし氏はその所在地こそは道前地方旧周敷郡(現西条市)であるとする。この際以下、氏の資料を紹介したい。

神日本磐余彦天皇第3皇子子神は井耳命訓見國に宮造りして徳威県にまし給うて政治を司る。伊予皇子と号す。この時神饒速日命の御子天山命子宇摩志摩治命子饒田命の女弥井媛を娶り給うて伊豫の國造を継ぎ給う。是れ小千姓河野氏の祖なり。勅を奉じて皇子神地所を撰み宗廟を斎き祀るに神籬を建て給う。

「神代古考記(源寛著)」「大内裏記」

瀛州(オオノシマ)小千国徳威県古矢野神山神の神田神戸となる。

神武天皇御子神八耳命、伊豫國造の大祖神饒速日命の曾孫饒田命の女を妃とし伊豫國造家を継がせ給う。勅を受け伊豫訓見國徳威県神戸邑に下向あり、饒田命迎え奉りて家に伝わる天道鉾を奉りて命の補佐となりて天下を始め給う。この命の御孫建石龍命神野國造となり給う。

「伊予温古録」

※建石龍命(阿蘇津彦神)とは冒頭紹介した阿蘇國造の祖神である。阿蘇山の火口にはもと火山湖として水があふれていたが、この命が蹴破って草原を開き、米作りが始まったという。

神日本磐余彦天皇御宇勅命にて皇子神八井耳命を伊豫二名州に下し給うて伊豫の國造の元、天照国照火明櫛玉神饒速日尊の子天香山命の子宇摩志摩治命の子味饒田命の女御井津美弥比売を妃に娶りて國造家を嗣ぎ給う。

「二名州大鑑」

神武天皇第二皇子神八井耳命は神饒速日命の曾孫饒田命の女御井姫を妃とし、伊予の國造家を継ぎ給う。

「伊予旧蹟抄」

書:忽那玲香氏 万葉集 額田王の和歌

ここでいう伊豫の國造家とは後代第十三代成務天皇の勅命により伊予の国造に任ぜられた速後神命(速後上命…伊予郡松前町の伊豫神社祭神)とは別者であり、いわば伊豫國5大國造の本宗家としての伊豫大國造家を指すことは筆者と同感である。

しかしながら私見ではこの伊豫大國造家こそは、饒速日尊を御祭神とする風早宮大氏神を斎き祀る風早國造神主家に他ならないと考える次第である。

斉明天皇は病を押してその大船団とともに浪速津(大阪)を発ち、百済救援のため征西の途につかれるのだが、その途中わざわざ伊豫熟田津に二ヶ月に亘って滞在されたのはなぜか。また伊豫の國津(伊予国第一の港)はどこなのか。その地は地政学的に那の津(博多)と浪速津(大阪)を結ぶ瀬戸内航路の中間に位置する風待ち・潮待ちの要害の地であり、伊予水軍参集のの拠点でなければならず、真の皇祖饒速日尊を祀った大社(石湯行宮)のある地でなければならない。すなわちそれは風早宮大氏神の鎮座する饒田國(私が命名するところの風早饒速日王国)をおいて他ならないのである。

今回のホームページ開設により松岡氏の思いにいささかなりとも応えられたとするならば幸甚である。

若者塾メンバーによる境内清掃奉仕活動 若者塾御神燈奉納奉告祭典の模様(平成6年10月2日)