風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第二章] なぜ神輿を(なげう)って壊すのか

7.(ゆた(かさをもたらす日の神の訓え

大鳥居付近に立つ尊号碑

福岡県前原市にある平原一号墓では当時として世界最大四六、五センチの連弧紋鏡など四一面が破砕されて埋納されていたし、福岡市飯氏(いいじ)遺跡の甕棺も複数の連弧紋鏡がやはり割られた状態で副葬されていた。出雲市西谷四号墓では岡山県倉敷市にある楯築墳丘墓と同じ特殊器台・壷がわざわざ吉備から運ばれ、割られて出土している。我が愛媛県でも、松山市朝日谷二号墳や大西町の妙見山古墳出土の銅鏡は、粉々でないにせよ真中あたりから二つに人為的に割られて発見されている。今治市唐古台古墳群からは、折り曲げられた鉄の短剣が見つかっている。

これらは遺物が示すところは一体何か。原初の首長霊継承儀式や首長(王)の新年再生儀礼(鎮魂祭)の秘儀斎行にあたり、前方後円墳(王権を象徴する最大のモニュメント)などを初めとする墳丘上の祭壇に並べられたと考えられる。ここには巨木・巨石により、この儀式のためだけに作られた神殿が設けられた。いわば首長霊を継承するミラクルスペースで、ここで使われた鏡、玉や特殊器台・壷などの祭器や呪器を祭典終了後、神殿と共に壊したのである。(後にこれが大嘗宮へと発展した。)首長霊を遷した後の亡き王の身はもはや現実界の王の権威を放棄した文字通りの「亡骸」であり、その魂は共同体霊(祖霊)となって新王と共同体を護り、その力の増幅を助ける神となったのである。そうしてもはや継承のための祭器・呪器を残すことは、一回限りの後戻りできない秘儀を確実に成し遂げたことにはならなくなった(=壊す、捨てる思想へ)。

夏越祭風景…当地方では「輪越し」の名で親しまれている

このように考えると、初稿で指摘した風早宮大氏神に伝わる御動座祭を初めとする一連の神事は、そもそも国津(頭日丘・かぐやのおか、別名磐船山)の丘陵で、物部阿佐利命初め歴代の國造神主により斎行されたであろう首長霊(遠祖ニギハヤヒ)継承儀式を二千年の時を経て今に伝えるものであり、これが正しく当局に発信されるならば国の重要無形文化財指定も夢ではない貴重な祭儀であると考える。おそらく、盗掘を免れるなら県下最大級の前方後円墳を擁する境内地中深くには、破砕された銅鏡や折れ曲がった鉄・銅剣類が埋納されているに違いない。その古代物部神道の聖地・風早なればこそ、神輿を壊すのである。

こうして古代日本人は天皇や國造の玉体は流転しても、たった一つしかない天皇霊・首長霊は永続されると考えたのである。

國津比古命神社拝殿前に茅の輪が設えられた。参拝客を迎えるばかり

大宝律令の神祇令によると、物部伝承の十種の神宝(とくさのしんぽう)を用いて、仲冬(旧十一月)の寅の日に宮中において鎮魂祭を行うことが定められ、それは天皇の御魂を鎮めて御代の長久を祈る行事である。それには二つの手法があり、一つは遊離した魂を再び体に引き戻す「御魂鎮め=風早宮大氏神で言うところのお渡りの神事」と、二つには沈滞した状態にある魂を奮い起こして活力を再生させる「御魂振り=風早宮大氏神で言うところの荒神輿の神事」である。

風早の先人たちはこの古神道(物部神道)の二大要素を祭礼の形で伝承してきたのである。ただただその英知に恐くの至りと感嘆せざるをえない。

前回冒頭の御祭神ニギハヤヒが天津神なのか、国津神なのかについて、結論を記す。

『日本書紀』崇神紀(崇神天皇八年十二月条)に、大神神社行幸の後、大物主(ニギハヤヒ)を祀る三輪の地から神酒が天皇に献上され、社家大田田根子(おほたたねこ)等と直会の席での御製に、

この神酒は我が神酒ならず(やまと)成す大物主の()みし神酒 幾久 幾久
(訳)この神酒は私の神酒ではない。倭の国を造成された大物主の神がお作りになった神酒である。幾世までも久しく栄えよ、栄えよ。(「日本古典文学大系」『日本書紀・上』岩波書店)

ここで問題は倭(ヤマト)成す大物主―この表現である。『出雲国造神賀詞(いずもくにのみやつこかむよごと)』や『日本書紀』によれば、大物主は出雲を造った神であり、ヤマトを造った神ではないはずだ。ところがこの歌では天皇自らが倭(ヤマト)を大物主大神こそが国土を形造ったと述懐しておられるのである。事実私も何度も大神神社を参拝しているが、地元を初め近畿はもとより全国的に伊勢神宮に劣らない厚い信仰を集めている。同世代のプロ野球選手の清原氏もここで挙式を上げた。その端的な理由は三輪の神が先にヤマトに入ってきたという伝承が二千年この方、語り継がれてきているからに他ならない。このことは『日本書紀』の神武東征神話とも合致し、天皇家よりも出雲神(国津神)の方がいち早くヤマト入りを果たし、建国の礎を築いたことを物語っている。つまりこのように、神武東征以前から物部ニギハヤヒ王国が誕生していたことが窺われるのである。

平成20年7月31日夏越祭風景

神話の世界で国津神は、天皇家の祖神・天津神と対立する者達であった。スサノオは国津神の娘を娶ることで同化して国の主になろうとしたし、その末裔大国主の神や事代主の神は国津神となっているのである。出雲の国譲りによって天津神と国津神の対立は無くなるが、征服者・天津神、被征服者・国津神の構図は『日本書紀』によって明確に示されることとなった。

しかし国津神が、かなり積極的に神武の大和入りの先導役を努め、多くの危難を救っている事は無視できない。『日本書紀』はあまりにニギハヤヒの功績が偉大過ぎるため、天津神(天孫族)に取りこんでしまったが、その根拠となる系譜を揚げることが出来なかった事実は重大である。

つまり、ニギハヤヒは『日本書紀』の証言とは裏腹に実際には倭を成した大物主大神であり、出雲神=国津神の総帥であったのである。

まさに本朝守護式内名神・國津比古命―我が国体を代表する御名にほかならない。