風早物部饒速日王国

神社探訪:旧風早郡(北条市)

鹿島神社

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  • 宮司と記念撮影
  • 交通安全祈願祭
  • 祝詞奏上
  • 勝原宮司による奉幣
  • 納車清祓え
社 格

村社

住 所

松山市北条辻1595

関連リンク

鹿島神宮/香取神宮

奉拝履歴

平成19年11月3日(日)

平成20年8月15日(金)

御祭神

武甕槌神(たけみかづちのかみ)/経津主神(ふつぬしのかみ)/事代主命(ことしろぬしのみこと)

(境内末社)

厳島神社(市杵島姫命(いちきしまひめのみこと))

(境外末社)

龍神社【鹿島沖寒戸島】/高靇神(たかおかみ)/闇靇神(くらおかみ)

御神紋

6つ矢車

特記事項
河野氏の重要な防衛線
鹿島に武神勧請
祭りには櫂練船の一大絵巻 送り火迎え火に抱かれ
 芸豫諸島と高縄半島は、古代海上交通路の重要拠点であった。
 その高縄半島・北條の沖合400㍍に浮かぶ鹿島は、早くから歴史に登場する風早地方にとっての、要塞地でもあったろう。
 663年、百済援軍のため白村江(はくすきのえ)に日本から大軍を送ったが、この時、この一帯の水夫(かこ)たちが相当数集められたと伝えられている。当時の風早地位方の支配者は百済系の軍事氏族といわれる物部(もののべ)氏の時代。
 その鹿島神社の祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)経津主神(ふつぬしのかみ)事代主(ことしろぬし)である。
 事代主は1911年に土手浜の美穂神社(北条には美穂系が多い)を合祀したもので、鹿島神社の主祭神は武甕槌と経津主の二神になる。
 この二神は、ともに日本書紀の仲の神々で、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が迦具土神(かぐつちのかみ=火の神の意)の首を切ったときにほとばしった血から生まれたものとされ、霊剣を神格したもので、武神とみなされている。
 また、この二神は出雲へ降り、大国主・事代主父子に国譲りを交渉して成功した後、東国の常陸(ひたち=そこに鹿島神宮の総社がある)まで遠征したという伝承をもつ。
 この東征伝承の主人公は、出雲意宇(おう)地域一帯の支配者・多氏(おうし)であって、彼らは各地に鹿島神社を祀っていったであろうことについては、実証されている。
 この鹿島神を氏神とする藤原氏は、中臣(なかとみ)鎌足が大化改新で蘇我氏を倒したことにより、699年に藤原の(かばね)を名乗る。
 中臣氏は新羅・加羅系の朝鮮渡来氏族であるが、日本列島内に居住する各地の百済系高句麗系をも含む大氏族であって、鎌足も百済系と考えられる。中臣氏の祖は天児屋根(あめのこやね)という。
 天児屋根、中臣、藤原は祭祀を司る家系としてつながっていく。
 武神である鹿島神が藤原氏の氏神となるのは778年頃のことだが、鎌倉時代以降、武士階級の出現により、特にこの階級の尊敬を受ける。  鹿島神については、以上なような時代的背景が考えられるが、この北条鹿島神社の創建についてのはっきりした記録がないが、鎌倉以降の河野氏によって常陸から勧請されたのではないかと思われる。
 海防の城として鹿島城が築城されるのが建武年間(1334-36年)頃のことで、河野氏側にとって鹿島がより重要な防衛線として意識されたことが、勧請へのきっかけではないだろうか。
 境内にある地震除けの岩として信じられている要石(安山岩:平成二十年八月三日斎行(さいこう))は、鹿島神社の神体で、同社の中心をなすものといわれているが、鹿島神がこの地に勧請される以前に神体として信仰の対象となっていたものであろう。1788年以前には鹿島大明神と呼ばれていた時代があり、江戸中・末期には松山藩主の崇敬を受けていた。
 現在の建物は1881年に建てられたもので、北条港右岸にあるお旅所は前宮として親しまれ、厄除けの「輪越(わご)(さい)」なども行われている。
 愛媛県無形文化財になっている鹿島神社の櫂練船(かいねりぶね)は同神社の春(4月15日当時。現在は黄金週間に行う)と秋(10月10,11,12日当時。現在は体育の日の三連休)の祭りの中心行事である。
 櫂練とは二艘のみこし船を先導する双頭船の中で、歌や踊りを奉納するさまのことをさす。この歌や踊りは河野水軍(治承年間・1177から81年頃のことと伝えられる)が、出陣に際しての戦勝祈願、あるいは凱旋時の祝勝奉納をしたことが始まりとする。
 しかし、河野氏が正史に初めて登場するのは1181年、通清が反平家の軍事行動を起こしてからのことである。
 このことから考えると、この櫂練りの由来は河野氏側との結びつきを強く求めようとする意識の表現で、どうも後世の創作ににおいがする。
 北条市役所の宮本且之氏によれば、北条の櫂練の形は、山口県、島根県の日本海側一帯に多く見られ、これらとのつながりがあるのではないかという。
 とすると、言われる地域一帯はかつて天日槍(あめのひぼこ)に代表される新羅系渡来氏族たちの通ったルートと同じことになる。
 櫂練の元のかたちは、このルート沿いの海民たちによる先祖をしのぶ競漕のあとでの歌や踊りだと考えられよう。
 このことを北條市誌では、辻浜(鹿島)、土手浜(三穂町)一帯の住民たちが、先祖の武勇をたたえるため、重陽(ちょうよう=旧9月9日)の節句の日に、漁船での競漕を試み、櫂練を演じる風習を伝えてきたのが、江戸末期になって鹿島神社の祭礼に奉賛するようになったと記す。
 漁船エンジンが出現する1930年代頃から、競漕関係がすたれ、躍り方にウエートが移るのも時代の趨勢かもしれない。
 春は経津主(ふつぬし)を中心に、秋は武甕槌(たけみかづち)を中心にとの違いはあるが、いずれも、「ホーランエー、ホーオンエー」と櫂をあやつる掛け声と、「ヨイヤサノサッサ、ヨイトセ、ヨイトマカ、ヨイトセ」の鉦鼓の囃にのって進む櫂練船は、宮入り間近になると明星川べりに集まる。
 そこで二体のみこしを高々と差し合わせて、威勢よく何回となく川に投げ込み、クライマックスを迎える。
 陸側では送り火、鹿島側では迎え火が上がると、暮色のなかを櫂練の一大絵巻を繰り広げつつ帰還し、祭りは終わる。
 一方、夏祭りの方は7月17日(当時)に行われる夜祭りで宮島さんとして親しまれている境内社の厳島神社の十七夜で、流し灯籠が夏の風物詩となっている。

- 資料/「北條市史」、川口謙二著「神々の系図」(東京美術社刊)

交通安全・旅行安泰の神と「鹿島立ち」

中臣氏は鹿島神を氏神として尊崇したが、のち藤原氏に改めたあと、都を平城京に遷したのを機に鹿島神をはじめ有縁の神々を奈良の春日大社に勧請した。この時白鹿の上に鞍を置き、鞍の上に榊を乗せて武甕槌命を運び参らせたという。このとき本社鹿島神宮をご出発になり途中無事で奈良にご到着になった事から鹿島立ちの信仰が生まれ、後世、「鹿島立ち」といわれる武人の出立の心得として広く知られる事となる。その故事を再現する祭頭祭の神事が、現在も3月9日に行われている。 万葉集にこんな歌がある。

 霰降(あられふ)り 鹿島(かしま)(かみ)(いの)りつつ 皇御軍(すめらみいくさ)に (われ)()にしを

この歌は天平勝宝七年(755年)常陸国から派遣される防人(大陸からの侵攻に備えて、筑紫、壱岐島、対馬島を守った兵士)の那珂郡上丁大舎人部千文(なかぐんかみつよぼろおおとねりべのちふみ)の歌で、鹿島の神に武運長久と道中の平安を祈って鹿島立ちした防人の心を詠んだ歌として有名である。このため現在でも長途に発つことを「鹿島立ち」といって、前途を幸わう言葉として知られている。

私事で恐縮であるが、昭和61年製のホンダ・インテグラをこれまで愛用してきたが、22年目の今夏の猛暑、車も熱中症(オーバーヒート)と老衰でついにヘタれてしまい、ホンダオートテラス空港通りにご勤務でずっと車検・修理を担当していただいている高橋浩氏(北本町)のたってのお勧めでホンダ・ストリームを2008年8月8日に購入した。ついては納車・交通安全祈願祭を鹿島神社の勝原宮司にお願いして8月15日にお旅所・遥拝殿で斎行していただいたところである。このとき祭典祝詞にもちゃんと「鹿島立ち」の字句が盛り込まれていたことは言うまでもない。にしても、勝原宮司の祝詞奏上はいつ聞いてもすばらしい。

櫂練(昭和41年4月5日愛媛県指定無形民俗文化財)

北条鹿島の櫂練船(愛媛県無形民俗文化財)

鹿島の祭神は武甕槌命、経津主命で武勇の神、海の守護神である。この社の大祭は春秋二回あり櫂練り行事が行われて絢爛たる海上絵巻が繰り広がられる。
 二度神輿の渡御が行われるのは、鹿島神社が鹿島神宮と香取神宮からそれぞれ勧請しているからであると、勝原政朝宮司から伺った事がある。
 往時河野水軍の出陣再現にも似て囃しの鐘、太鼓の響も勇ましく櫂練船を先頭に、傳馬船(てんません)に乗り移った二隻の神輿が続き、神主、神社総代船、お供船が大漁旗笹旗をなびかせて続き、北条港に向かう。
 この櫂練は遠く河野水軍が出陣に際し、鹿島の神前に集結して戦勝を祈願したり凱旋の祝勝行事として行われてきたものである。のちに、毎秋重陽の節句に漁船の競漕や櫂練を演じる風習となり、鹿島、美穂町住民により伝承されてきたものである。これが江戸末期になって、鹿島神社祭礼に奉納するようになり更に神輿の供奉警衛の形をとるようになった。しかし今も櫂練船の艤装、奉仕者の扮装、舸子(かこ)の漕法、樽上で櫂を操り舞う動作、ホーランエーの掛け声、鉦鼓の囃子などすべて地元青年が奉仕する慣例となっている。
 この宮入りの状況もまたさらに印象的である。海上暮色の中に一行の船が現れると、鹿島の鳥居前、汀より積み上げられた松葉の山に迎え火が点じられる。この火に海一面が染め出されるや、陸岸のあちらこちらからも送り火が赤赤と暮れかけた空と海を彩る。そのなかを鼓鐘の響を先頭に還御の船団は勇ましくもまた深く郷愁を誘うのである。

野生の鹿(愛媛県指定昭和23年10月28日)

毎年秋に行われる「鹿の角きり」角は鹿島神社に奉納される

鹿島には古くから九州屋久島鹿に属する野生の鹿が生存し、島内で二群に分かれて生息している。島の段から北斜面杉檜植林地帯から西方一帯を占める一群が主力となり、他の一群は島の東斜面「皇后の局」から南方「梅が谷」の岩がら道を渡って南西斜面を根拠地としており、小型精悍で人になれにくく角が三叉を超えて分かれない。

鹿島

北条市街地沖に浮かぶ鹿島

北条港外400メートルの海上に浮かぶ国立公園鹿島は風光明媚、誠に歴史の島であり、文学の島、清遊の島である。周囲1,5キロ、島の高さ115メートルの小島ながら全島400種の植物が茂り、クスノキを主としてヤマモモ、カゴノキ、タブ、カカツガユ、など暖帯植物林のこの付近における代表植林をなしている。

鹿島城

鹿島沖にある景勝「伊予の二見」.

斉明天皇の663年、百済救援に向かった大和朝廷軍は白村江で唐・新羅連合軍に大敗し、さらに我が国へ向かっての反撃侵攻を恐れ、対馬・筑紫・瀬戸内海の海防城を築いた。その瀬戸内海の砦は大三島尼崎の上門島、大島中途の中門島、風早鹿渡島(鹿島)の三大海防城である。
 こうして現在の松山市鹿島は古代の三大海防城のひとつとして世に出たのである。この鹿渡島(下門島)すなわち鹿島は後世の河野水軍根拠地の一つとなり建武年間(1334-1336)になって風早郡那賀郷(なかごう)地頭、今岡四郎通任(いまおかしろうみちとう)によって、現在残る階段式連郭構造の鹿島城が実現したのであった。しかし天正13年(1585)小早川隆景軍によって河野氏滅亡の後は、来島通総(くるしまみちふさ)が風早1万4千石を領し、城代二神豊前守が、この鹿島城を預かっていたが、のちには3千石と恵良城(えりょうじょう)(上難波)を与えられていた通総の兄、得居半右衛門尉通之(とくいはんえもんのじょうみちゆき)が、この城を持ったと二名集(ふたなしゅう)などに書かれている。しかし通之は文禄の役(1592)に戦死し、通総も慶長の役(1597)に戦死して後、通総の子の康親が慶長5年(1600)の関が原の戦いで初め豊臣方に味方していたため、戦後豊後(大分県)森に転封されて、海の勇者もその手足を封じられたのであった。現在城郭遺跡としては、島の東北二の段郭と高さ2-3メートル長さ約50メートルの石垣のみである。
 しかしこの島には神功皇后行宮(じんぐうこうごうかりのみや)伝説を初め、その出征の物語を残す、髪洗磯(かみあらいいそ)、山頂御野立(おのだ)ての(いわ)、また河野通有の元寇への進発、壇ノ浦へ馳せ向かう河野通信の語り草など、この島には幾多の歴史物語が刻まれている。

当社は神功皇后が三韓征討の途次、風早の浦鹿島に投錨し、武甕槌神・経津主神を勧請奉斎した神社で、戦勝と道中の安全を祈願して出陣したと伝えられる。
 武家の深く尊崇するところで、安政5年2月16日松山藩主松平隠岐守が参拝以来、例年初穂米を献上されていた。明治9年9月30日村社に列し、同44年に事代主命を合祀した。

- 愛媛県神社誌より
鹿島神社と要石
古里見聞:鹿島神社と要石