風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第一章] 浄闇の御動座祭は鎮魂祭だ!

6. 閑話休題 ~ 伊予国風土記と道後温泉

   ―伊予の湯は豊後国速見より流れ来た湯なり―

伊予の国風土記には、湯の郡(松山市道後温泉)について、次のように言い伝えている。

昔、オオナモチモミコトがスクナヒコナノミコトといさかいをし、スクナヒコナを殺してしまった。オオナムチはその後死骸を見て、いたく後悔をし、何とかして生き返らせたいと思った。そこで、大分の速見の湯(別府温泉)を、地下の樋でもって海底を結び湯を通した。そして死骸に浴びせかけると、しばらくして生き返り何事も無かったようなのんびりした声で「ああ、ほんのちょっとの間、寝てしまったわい」と言って起き上がり、四股に力をいれ、元気に地面を踏みしめた。その四股を踏んだ地面の足跡が今でもこの温泉の中の石の上に残されているという。この温泉の湯が、不思議な効き目があることは神代のころばかりではない。今の世でも、病気に悩むもろもろの生き物はこの温泉の湯を、病を取り除き長生きすることの最上の薬だとしている。

以上のような神話伝説を残す天下の名湯は古代から有名で、たびたび貴人の行幸があった。風土記逸文には

  1. 景行天皇と后(八坂入姫命)
  2. 仲哀天皇と神功皇后
  3. 聖徳太子
  4. 舒明天皇
  5. 斎明、天武、天智天皇等
をあげている。特に聖徳太子の刻んだ湯之岡石碑は現在も見つかっておらず、内容のみ「伊予国風土記逸文」(後世の書物『続日本紀』に引用されているもの)に記録され、現在は道後温泉市営椿の湯に石碑自体はは再建されている。この間の経過を記しておこう。

 聖徳太子の松山は道後へ高麗僧恵慈を伴っての来訪。五九六(法興6)年に温泉を称え碑文を伊佐爾波岡(いさにはのおか)に建てたと書かれています。
 内百四十七文字からなる文章は効用あらたかな温泉を神の温泉と称え、温泉の周りの環境を褒めたたえたもの。「神の湯を囲んで椿が枝を交えて繁り、緞帳をたれて、蓋を差しかざしているようだ。茂みの中では小鳥のさえずりが極楽鳥のように聞こえ、小鳥の声はなんとも心地よい。真紅の椿は濃い緑の葉を重ねて、湯壷の上を被い、温泉に影を映している」というもの。
 この碑文がどこにあるか、幻の碑石を求めている人が多くいます。半井梧庵の「愛媛面影」によると寛政年間の頃、付近の畑で不浄を忌む畑があるのを知った人が穴を掘ったところ、碑石が出てきました。しかし、そのために温泉の湯が濁りはじめたため、そのまま埋めました。松山の風流人、富田狸通さんのお父さんである富田喜平さんは、碑石を求めて私財を投じ、半生を賭けた人です。喜平さんは神のお告げを聞き、伊佐爾波神社へ登る石段の七十三段目を掘ってみました。さびた刀は出てきましたが、碑石は出てきません。伊佐爾波神社の拝殿近くや石手寺の橋、放生池も探してみました。息子さんの狸通さんも遺言とばかり碑石を探したのです。幕末に久松家の家老、水野某に藩主が碑を隠し持っていたという噂を聞き、北海道まで問い合わせもしたそうです。江戸時代に書で有名な明月和尚が義安寺の薬師如来堂の下を調べたのが一番古い発掘ですが現在に至っても発見することは出来ていません。
 こうした思いを集めて、椿湯の庭にみかげ石の碑が立ちました。碑文は郷土史家の景浦稚桃氏によるものです。愛媛県松山市の道後温泉(椿の湯)に建っています。
「伊予国風土記」によりますと、聖徳太子は596年に道後温泉を訪れ、碑文を建てたと記されています。その時の碑は、現在は残っていませんが、道後温泉に建てられている石碑に、その文章が刻まれています。番組で紹介した言葉は、以下の通りです。

「太陽や月は、天上にあって、大地をあまねく照らす。(まつりごと)をおこなう者が、太陽や月のようにあまねく国を照らすものとならなければ、幸福な国を創ることはできない。」

  ● 文章引用 HP『ライター・土井中照のモンドエヒメ』土井中照氏より 深謝

この碑文にある「照給無偏私」《()らし(あた)えて偏私(かたよ)ること()かれ》という、自然の真理にまつりごとが感応することにより理想社会は実現するという太子の訓えは、今日松山南警察署の署是として、文化勲章受賞の郷土書家村上三島(むらかみさんとう)氏に揮毫により、署員が朝な夕な自戒の糧にしているということである。

ついでに道後温泉本館の湯釜に刻まれている万葉歌 人山部赤人の歌も掲載したい。

山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)伊予(いよ)温泉()に至りて作る歌一首并せて短歌

すめろきの (かみ)(みこと)の 敷きいます 国のことごと ()はしも さはにあれども 島山の (よろ)しき国と

こごしかも 伊予(いよ)高嶺(たかね)の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌思ひ (こと)思ほしし み湯の(うへ)の 木群(こむら)を 見れば (おみ)の木も ()ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ (いでま)しところ
                                                      巻3-322

反歌

ももしきの 大宮人(おほみやひと)の 熟田津(にきたつ)に 船乗(ふなの)りしけむ 年の知らなく
                                                      巻3-323