風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第一章] 浄闇の御動座祭は鎮魂祭だ!

2. 神武東征(遷)

愛媛県神社庁編の『愛媛県神社誌』に國津比古命神社の特殊神事として「(よい)明星(みょうじょう)」とある。一体どんな神事なのであろうか。風早宮大氏神編の参拝祈念詞にはこう説明する。

櫛玉比売命神社(くしたまのひめのみことじんじゃ)(櫛玉社)の神輿が戌の刻(午後八時)に掛け声をかけずに境内を出て八反地(はったんじ)の旧大庄屋まで渡御をします。
(お渡りの神事)『日本書紀』に記されている『顕斎(うつしいわい)』で、目に見えない神様に誠心誠意お仕えするという神社にとって大切な祭りの姿です。
当社の場合、女の神様が、男の神様に人々の幸福を祈るために『おしのびの渡御』をすることです」

分かりやすい表現ではあるが、正直今一つ釈然としない。そこで原文にあたる事にする。

『日本書紀』巻第三「神武天皇紀」に、以下のような記述がある。

「時に道臣命(みちのおみのみこと)に勅したまわく、今、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を以ちて、朕、親ら顕斎を()さむ。汝をもちて斎主となして、授くるに厳姫(いつひめ)(よびな)を以てせむと。」

これは東征途上(前戌午年九月)の神武天皇自らが皇祖を祀る(憑坐:よりましになる)具体的な内容を記述したものである。

この際「神武東征(東遷)」の経緯を簡単にたどってみよう。
『日本書紀』「神武即位前紀」によると九州日向(ひむか)(宮崎県か北部九州)の地にあった神武天皇(実際にはこの時点では即位していない→伊波礼彦尊(いわれひこのみこと) 別名:狭野尊(さぬのみこと)、)は、塩土老爺(しおつつのおじ)(宮城県塩釜市に陸奥一宮鹽竈(しおがま)神社あり)なる人物から東方の大和(ヤマト)には、都にするのにふさわしい土地があること、またそこには既にニギハヤヒなる人物(神)が舞い降りて治めていることを聞きつけ「東によき(くに)あり。青山四方(よも)めぐれり」と四十五歳の時、九州を発し(宮崎県日向市美々津 立磐(たていわ)神社・御祭神は軍神とされる住吉大神)、日向を発してより約一六年かけて大阪湾大和川河口の草香(くさか)(東大阪市日下町)に上陸した。ちなみに「神武の里」をキャッチフレーズに街づくりを展開しているのが、宮崎県西諸県郡高原町である。神武の生誕地とされ皇子原神社(おうじばるじんじゃ)や樹齢400年に及ぶ狭野杉が約20本も参道に並ぶ狭野神社がある。また宮崎県児湯郡都農町大字川北13294 には神武ゆかりの日向一宮の都農(つのう)神社(式内社・国幣小社)が鎮座する。

   -御 由 緒-
 都農神社は古来日向国一之宮と称え、御祭神は御神徳の高い、大巳貴命(おおなむちのみこと)(又の御名大国主命)を奉斎する古社であります。
 当社の縁起によれば、神武天皇御東遷の砌、宮崎の宮を御進発になり、途中此の地において、国土平安、海上平穏、武運長久を御祈念の為、御親ら鎮祭されたのを当社の創祀と伝えます。
 その後歴代皇室の尊崇篤く、第五十四代仁明天皇の承和四年には官社に列せられ、同十年神階の宣授があり、第五十六代清和天皇の天安二年神階従四位上を奉られ、第六十代醍醐天皇の御代、延喜式神名帳には日向国児湯郡都農神社と撰録せられ、日向国式内社の一つとして登載された日向国一之宮であります。
 当神社の旧記によれば、往古は日向国第一の大社として社殿壮大、境内広闊で第三鳥居は十五~六丁、第二鳥居は六~七丁の間に亘って建立せられた古跡が今なお認められ、天正年間大友、島津両武将の争乱に遭い、社殿兵火に罹り、累生秘蔵の宝物、古文書等鳥有に帰し、以来社殿境域次第に縮少の止むなきに至りました。
 明治天皇御践祚に際し、王政復古、●?百度維新に従って神祇を崇め、祭祀を重んずるの大典を挙げ給う。
茲においてか当社は明治四年五月十五日県内他社に先んじて国弊社に列せられたのであります。
昭和九年神武天皇御東遷二千六百年記念式典に当たり、記念事業として奉賛会を組織し境内の拡張整備を行ない、概ね現今の深厳なる御社頭の状態を仰ぐに至り、御神威愈々釈然たるを覚ゆる次第であります。
  -御 神 徳-
 御祭神大巳貴命は国土開発、殖産農耕に特に勲功高くましまし、武神としての霊徳は申すまでもなく、漁業航海守護の神、交通安全守護の神、更には医療の神、縁結びの神、子孫繁栄、福徳円満の守護神として古来地方民の信仰をあつめた御社であります 
            ●文章引用 『都農神社御由緒書』より 深謝

さて神武一行は大和へ進軍しようとしたが、孔舎衛坂(くさえのさか)で神武の大和入りに頑強に反対する鳥見長髄彦(とみのながすねひこ)(ニギハヤヒの義兄)率いる元始大和王権(ニギハヤヒ物部王国)防衛軍に阻まれ、ついに長兄五瀬命(いつせのみこと)を山城水門(現・大阪府和泉市仏並)で負傷、紀伊男水門(きいおのみなと)で薨去(官幣大社・式内社竃山(かまやま)神社)したため、退却せざるを得ず、大きく紀伊半島を迂回し、熊野から北上する作戦に切り替え、ようやく上陸したのであった。鳥見長髄彦(とみのながすねひこ)の実像や当時の国情(卑弥呼の時代ころ、我が国には天皇氏の王権と物部氏の王権があり)と、その統一併合過程について、谷川健一氏の見方が私見とほぼ合致するので、この際ご紹介申し上げる。

〈ナガスネヒコはおそらく河内や大和に蟠踞(ばんきょ)していた蝦夷であったろうと私は考える。饒速日命を奉斎する物部氏がやってきた。物部氏は天皇氏にさきがけて、降臨神話を所有し、当時内海であった河内潟の奥深く侵入し、河内の生駒山麓の草香の地を根拠地として、そこで勢力を張った。物部氏は先住していた蝦夷を手なずけた。こうして物部氏の遠祖ニギハヤヒがナガスネヒコの妹(大氏神・櫛玉比賣命神社の祭神・御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)=奈良県北葛城郡広陵町にも式内社櫛玉比賣命神社あり。他に長髄媛(ながすねびめ)鳥見屋媛(とみやびめ)の別称あり。)を(めと)るという伝承が生まれた。外来者が土着の豪族の娘を娶ることによって、その土地と融和し勢力を確固たるものにすることは、記紀の中に多く見られる現象である。

物部氏は日神崇拝を持っていたので、その本拠の草香は「()(もと)の」という枕詞を冠せられた。(中略)天皇の一族が先住者の物部一族を打倒して大和政権の長になると、物部氏は蝦夷の酋長を殺して帰順し、大和朝廷の有力な豪族としておさまった。物部氏の太陽信仰と、日神の末裔であるという伝承は、後来の天皇族に接収されることになった。

物部氏はヤマト政権に抜擢重用された。初期の天皇家は物部氏としきりに縁組をし、その娘を妃に迎えている。(別添一覧表参照)古代では生まれた子は母方で養われて、またその名も乳母からもらうという風習がみられた。そうしたとき、征服者の男性は被征服者の母方の信仰や伝統を受け継いだ。ヤマト政権の中心にある天皇氏は物部氏の持っていた太陽信仰を取り入れ、日神の(すえ)と自称した。やがて稲作を経済基盤としてヤマト政権の基礎が確立する時代になると、天皇家はアマテラスを太陽神の始祖として仰ぎ、自分たちはその子孫と称するに至った。(中略)こうしてみれば、『唐書』に記された日本はもともと小国であったという表現は鮮やかに生きてくる。日本は対外的表現であり、ヤマトは国内的表現であるが、ヒノモトノヤマトという言い方のさらに根源にはヒノモトノクサカがあった。河内の草香地方に拠る物部氏の領域はヒノモトを自称する地域であって、ヒノモトは草香の代名詞であった。それがヒノモトノヤマトという風になったのは物部氏の勢力が生駒山脈を越えて大和地方にも拡大したからである。この物部氏の王国(ここから「風早物部饒速日王国」と命名させていただいた)は小国であったために、倭国から東遷してきた天皇氏に併合されたという史実の反映を『唐書』は物語っていると思われるのである。〉  さて神武天皇と鳥見長髄彦(とみのながすねひこ)の丁々発止のやりとりを『日本書紀』からたどってみよう。

 時に長髄彦(ながすねひこ)、乃ち行人(つかひ)(まだ)して、天皇(すめらみこと)(まう)して(まう)さく、「(むかし)天神(あまつかみ)子有(みこま)しまして、天磐船(あまのいはふね)に乗りて、(あめ)より(くだ)()でませり。(なづ)けて櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)(まう)す。
 (これ)吾が妹三炊屋媛(いろもみかしきやひめ)、亦の名は長髄媛(ながすねひめ)、亦の名は鳥見屋媛(とみやひめ)、を()りて、遂に児息(みこ)有り。
 名をば可美真手命(うましまでのみこと)(まう)す。
 (かれ)(やつがれ)、饒速日命を()て、君として奉へまつる。()れ天神の子、豈両種有(あにふたはしらま)さむや。奈何(いかに)ぞ更に天神の子と(なの)りて、人の(くに)を奪はむ。
 (やつがれ)心に(おしはかりみ)るに、未必為信(いつはり)ならむ」とまうす。
 天皇の(のたま)はく、「天神の子亦多(またさは)にあり。(いまし)が君とする(ところ)是実(これまこと)に天神の子ならば、必ず表物(しるしもの)有らむ。相示(あひみ)せよ」とのたまふ。
 長髄彦、即ち饒速日命の天羽羽矢一隻(あまのははやひとは)及び歩靫(かちゆき)を取りて、天皇に()せ奉る。  天皇、(みそなは)して(のたま)はく、「事不虚(まこと)なりけり」とのたまひて、(かへ)りて所御(みはかし)の天羽羽矢一隻及び歩靫を以て、長髄彦に賜示(みせたま)ふ。
 長髄彦、其の天表(あまつしるし)を見て、益??(ますますおそれかしこま)ることを(うだ)く。
 (しか)れども凶器已(つはものすで)(かま)へて、其の(いきほひ)(なかぞら)()むこと()ず。
 (しかう)して猶迷(なほまど)へる(はかりこと)を守りて、復改(またひるが)へる(こころ)無し。
 饒速日命、(もと)より天神慇懃(ねむごろに)したまはくは、唯天孫(あまつかみのみこ)のみかといふことを知れり。
 且夫(またか)の長髄彦の稟性愎?(ひととなりいすかしまにもと)りて、(をし)ふるに天人(きみたみ)(あひだ)()てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。
 其の(もろびと)(ひき)ゐて帰順(まつろ)ふ。
 天皇、(もと)より饒速日命は、(これ)天より(くだ)れりといふことを(きこ)しめせり。
 而して今果して忠効(ただしきまこと)を立つ。
 則ち()めて(めぐ)みたまふ。此物部氏(これもののべのうぢ)遠祖(とほつおや)なり。
※:歩靫(かちゆき)…(矢を入れて携帯する容器)
        ●HP『万葉集を携えて』(田中久光氏)より引用 深謝

次にこの件の現代語訳を掲載させていただく。

 12月4日、磐余彦尊(いわれひこ)の軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を討つことになった。しかし戦いを重ねたが、なかなか勝利をものに出来なかった。そのとき急に空が暗くなって雹が降り出した。
 そこへ金色の不思議な(とび)が飛んできて、磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝いて、その姿はまるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。
 長髄というのは元々は邑の名であったが、これを人名に用いたものだった。そこで磐余彦尊の軍が鵄の力を借りて戦ったことから、人々は鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはなまったものである。(奈良市西部富雄あたり・金鵄伝説)

 以前、孔舎衛(くさえ)の戦いにおいて、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たって戦死したが、磐余彦尊はこれを忘れず常に仇を討とうと考えていた。その機会をここに見つけた磐余彦尊は歌を詠んだ。
 「みつみつし 来目の子等が 垣本に 粟生には 韮一本 其根が本 其ね芽繋ぎて 討ちてし止まず」
(天皇(磐余彦尊)の御稜威(みいつ)を背負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、栗が生え、その中に(にら)が一本混じっているその韮の根本から芽まで繋いで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう。)
 また次のように歌った。
 「みつみつし 来目の子等が 垣本に 植ゑし山椒 口疼く 我は忘れず 打ちてし止まず」
(天皇(磐余彦尊)の御稜威(みいつ)を背負った来目部の軍勢のその家の垣の本にに植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない今度こそ必ず撃ち破ろう。)
 また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を来目歌という。これは歌った人を指したものである。長髄彦は磐余彦尊に使いを送って言った。
 長髄彦> その昔、天神の御子が天磐舟に乗って天降られた。御名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)といわれる。それで我々は饒速日命を主として仕えている。天神の子は二人おられるのか。どうして天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのか。私が思うにあなたは偽物でしょう。
 磐余彦尊> 天神の子は数多くいる。お前が主とあがめる人が本当に天神の子ならば必ずその(しるし)があるはずだ。それをしめせ。
 磐余彦尊が使いの者に返答すると長髄彦は、饒速日命の持つ天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を磐余彦尊に示した。
(作者注)歩靫は、徒歩で弓を射るときに使うやなくい。
磐余彦尊> これはまちがえない。
 長髄彦が示した羽羽矢と歩靫を見た磐余彦尊は言って、自分の持つ羽羽矢と歩靫を長髄彦に示し自分もまた天神の子であることを示した。長髄彦はそれを見て、ますます恐れ畏まった。しかし戦闘は、いままさに始まろうとしており、回避することは難しかった。そして長髄彦の軍は、間違った考えを捨てず改心の気持ちがなかった。
 饒速日命は天神が気にかけているのは、天孫である瓊瓊杵尊の子孫だけだということを知っていた。また長髄彦は性質がすねたところがあり、天神と人とは全く異なるところがあるのだということを説いても無駄だと思い殺害した。そして饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順した。
 磐余彦尊は饒速日命が天から降りてきた事が事実だと知り、いま忠誠を示したのでこれをほめて臣下に加えて寵愛した。この饒速日命が物部氏の先祖である。
          ●HP「明日香ちゃんのひとりごと倶楽部」より 深謝

さてこの辺りになると記紀ともに熊野への迂回作戦に到る過程の話は一切載せていない。そこには日本の建国前史の模様を窺い知る上で、とりわけ重要なことが隠されていたのではないかと、八木荘司氏は疑義を呈している。戦前の皇国史観では、東征当時は挟野命(さののみこと)と呼ばれていた初代神武天皇が一から原野茅屋(げんやぼうおく)同然の未開の地・大和を、我が国最初の都城に整備したとする面が強調されてきたきらいがあるが、大和平野には既に多くの民が住み、諸国との交易が始まり、ニギハヤヒを大王(おうきみ)に戴く、兵を備えた秩序正しき我が国初の政権政体が存在していたわけである。

この件を『古事記(記)』ではニギハヤヒは皇孫ニニギ(天饒石國饒石天津日高日子火瓊瓊杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひだかひこほににぎのみこと)=鹿児島県霧島市に官幣大社霧島神宮あり)の天降り〔天孫降臨〕(候補地に宮崎県西臼杵郡高千穂町・〔日向三代を祀る国史見在社の高千穂神社あり〕、と宮崎県西諸県郡高原(たかはる)町の高千穂峰一五七四米がある)を知った後から追い降り、神武天皇に天津瑞(あまつしるし)を奉献して帰順した、と記す。『日本書紀(紀)』では神武天皇(御祭神を神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)とする官幣大社宮崎神宮あり)より早くニギハヤヒが大和に入ったことを記すものの、その存在や系譜に敢えて深入りすることを避け、どこか竿を曲げている印象は否めない。

このニニギの妻が、地元大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)(愛媛県今治市大三島町)の御祭神大山津見神の娘で、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。絶世の美女として名高く、反対に姉の石長比賣(いわながひめ)は父の元に送り返され、ゆえにこの後、天皇の寿命は永遠でないことになったとの逸話がある。宮崎県西都市には木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る都萬(つま)神社(県社)があり、コノハナサクヤヒメは、甘酒を作ってお乳替わりに飲ませた(燃え盛る炎の中で火照命(ほでりのみこと)火須勢理命(ほすせりのみこと)火遠理命(ほおりのみこと)を生んだ)ともいわれ、「日本酒発祥の碑」も境内に立っている。また境内には、樹齢1200年という大クス(根回り16.4メートル、高さ40メートル)があり、「妻のクス」として国指定の天然記念物になっている。

考古学資料においても、我が国初の王権の存在が、大和にあったことを如実に物語っている。すなわち三輪山麓の唐古(からこ)(かぎ)遺跡(奈良県田原本町)では、いわゆる邪馬台国時代より以前の弥生中期(紀元前一世紀から紀元一世紀)頃に、既に青銅器を生産する小国が誕生していた。そして三世紀中葉に纒向(まきむく)遺跡(桜井市)へと移り発展し、最古の前方後円墳・石塚古墳を築き更に(つと)に有名な箸墓古墳(はしはかこふん)で全盛期を迎える。(四世紀を通じて栄えた=三輪王朝(みわおうちょう))

さらに平成十六年十一月十日の朝刊各紙は、池上(いけがみ)曽根(そね)遺跡(大阪府和泉市・泉大津市)で弥生中期後半(紀元前一世紀)の方位を合わせた整然とした建物群が四棟発見されたと大きく報じている。「首長居館」や「政庁」と見られており、平成七年に見つかった「神殿」と共に、古代中国の都造りの手法である「都城制」の影響を受けた弥生時代のイメージを覆す前代未聞の発見となった。  これら三輪山(みわやま)(古くは三諸山(みもろやま)ともいう。奈良県桜井市)を中心とする畿内各地の遺跡の意味するところは、紀元前後の段階で小国「クニ」の王が誕生していたことにある。広瀬和雄国立歴史民俗博物館教授(考古学)は「この時期の集落の中心に政治・経済・宗教の施設を集約した王国が成立していた意義は大きい。」とコメントを発表した。

私見では池上・曽根遺跡も北九州から神武に先駆けて東遷したニギハヤヒ率いる物部一族(物部氏の天降り伝承)の幹部クラスの居館跡と考える。