風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第四章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その2

1 消された「皇大神」の称号

そこで本節ではニギハヤヒこそが真の太陽神・皇祖神であることを探究していきたい。(以下分かりやすく箇条書きとする)

1. 天照御魂神(あまてらすみたまのかみ)(男神のアマテル)を奉じる氏族

ここでは、先程紹介した松前氏の指摘を考察する。物部氏の祖神ニギハヤヒの天降りなどは『旧事本紀』にみえるように、もともと神武天皇より先に天磐船(あめのいわふね)(天皇家には無い乗り物)に乗り、多くの軍神を従え、また五部造(いつのとものみやつこ)及び二十五部の天の物部を率いて、神器・十種天璽瑞宝(とくさのあまつしるしのみずのたから)を持って、河内(かわち)河上哮峯(かわかみのたけるがみね))に天降ったと記されている。ちなみにこの天孫降臨の地として、磐船(いわふね)神社(大阪府交野市私市 天野川畔)がある。このことは国史である『日本書紀』もさすがに消し去ることは出来なかったものの、皇孫の先発隊というトーンで神武紀に添え書きされている格好になっている。女王アマテラスの御子アメノオシホミミノミコトの御長子であり、従って天孫ニニギノミコトは弟神という、いわばロイヤルファミリーに位置付けられながらも、積極的に天皇家とつなごうともしない。どこから降臨したのか、『日本書紀』は口を閉ざして語ろうとはしない。以上のことから、私も、これを支持する諸賢と同様にニギハヤヒは天孫族とは別種独自の天降りであったと考えるものである。

その他、大伴氏の祖神である、アメノオシヒも、もともとその一族に日臣(ひのおみ)、味日、狭日(さひ)武日(たけひ)など「日」のつく人物がいることや、大和朝廷に付属して太陽神の祭祀部局だった日祀部・日奉部(ひまつりべ)の伴造(部長)として、佐伯日奉造(さえきのひまつりのみやつこ)などが大伴氏に属していることから、一種の太陽崇拝を持った氏族らしい事がわかっている。

また律令制以前我が国は國造(くにのみやつこ)県主制(あがたぬしせい)でもって地方を治めたと記紀に書かれているが、中でも有名なのは出雲の國造家である。出雲國造家の祖神はアメノホヒだが、この神を祀る滋賀県蒲生郡の馬見岡(まみがおか)神社の神体山を朝日山、京都府宇治郡の天穂日(あめのほひ)神社は奇日峰(くしびのみね)であり、いずれも太陽神を連想する名前となっている。松前健氏は天穂日(あめのほひ)の子のアメノヒナドリについてもタケヒデリとも呼ばれていること、ヒナドリは日の鳥の意味であることなどから、太陽の霊鳥としての太陽神格であったと述べている。風早宮大氏神の鎮座地も頭日丘(かぐやのおか)(瓢山(ひさごやま))と呼ばれ、これまた然りである。

次に天孫降臨の場面で、ニニギノミコトを導いたサルタヒコについて。サルタヒコ(あめ)八街(やちまた)(天上の分かれ道)にいて、上は高天原を照らし下は葦原の中つ国を照らし、眼は八咫鏡のように輝き赤ら顔で、鼻の異常に長い神であった。松前氏はこの神こそ天照大神(女王アマテラス)崇拝が奈良朝に国策で確立する前、伊勢で古くから崇拝された猿形の男性太陽神であったと述べている。

『出雲國風土記』に眼を転じてみると、佐太(さだ)大神(佐太神社)も典型的な日神的性格の神であったといわれている。島根県島根郡加賀埼の洞窟の伝承に、佐太大神が生まれたとき、母親のキサガヒヒメが、もし我が子がマスラ神の子であったなら、無くなった弓矢が出てくるように願をかける。初め角の弓矢が流れてきたが、生まれてきた御子はこれではないといって投げ捨てる。次に金の弓矢が流れてきたのでこれを取り上げ、暗い洞窟だなといって洞窟を射通したという。水野祐氏や加藤義成氏はこれを父のマスラ神が黄金の矢を持ち女神キサガヒヒメに近づきこれをはらませた話が前提にあったとしている。吉井巖氏はこの黄金の矢を日の出時の太陽光線の神話的表現とする。一種の日光感精説話であろう。

『住吉大社神代記』には昔、船木連大田田命(おおたたのみこと)が日神を舟に入れて大八洲に出したこと、またその故事に基づきこの神の造った木船と石船になぞらえ、生駒山の長屋の墓に石船を、白木坂の三枝墓に木船をそれぞれ置いたと記されている。これは装飾古墳の玄室内に朱色で描かれた同心円を持つ、いわゆる太陽の船の信仰が畿内で行われていた例である。同様なものとして福岡県清戸迫の横穴式古墳、吉井町の珍敷塚(めずらしづか)古墳、日ノ岡古墳などがよく知られる。

その他太陽神を祀る氏族としては、祖神・天日神命(あめのひみたまのみこと)(ニギハヤヒと一緒に天降った神:阿麻?留(あまてる)神社を祀る対馬県直(つしまのあがたのあたい)氏や先述の尾張國造の尾張氏、丹後国造の海部氏のほか、津守氏、丹比氏、石作氏、六人部(むとべ)氏、五百木部氏などがある。

尾張氏は海の民としても知られるが、その活動範囲はかなり広範で、新潟県にある越後一の宮 弥彦神社には祖・天香具山命(あめのかぐやまのみこと)を、開拓神として祀っている。

また『延喜式神名帳』を見ると、近畿周辺各地にある、天照神社とか天照御魂神社は、天照國照彦天火明命を御祭神としている。(例:竜野市の粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)、桜井市の他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてらすみたまじんじゃ)、磯城郡田原本町の鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてらすみたまじんじゃ)、茨木市の新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてらすみたまじんじゃ)、以上『日本の神々』谷川健一著より)まyた『三代実録』の中には、天照真良建雄神(あまてるまらたけおのかみ)天照御門神(あまてるみかどのかみ)などという式外社の神に神階が授けられている。『山城國風土記』には水度(みと)神社の祭神として天照高弥牟須地命(あまてるたかみむすびのみこと)などが祀られている。

また民俗として残る太陽崇拝としては「お日待ち」がある。正月、五月、七月、九月など特定の日におこもりをして、神を祀り酒食を出し、翌朝、日の出を拝して参会するものである。私は平成十八年九月松山市高田(旧北条市・風早郡)のお日待ちを参観させていただいた。ここは何を隠そう風早宮大氏神・櫛玉比賣命神社井上宮司家が組みしてかろうじて残ったお日待ち講であった。輪番制で毎年九月の吉日に当家宅で神事を催し、さすがに現在は宵のうちに散会している。昔は各組ごとに開催されたといい、日神の性格を持つ風早宮大氏神のお膝元ならではの民俗行事である。その他古社に伝わる特殊神事や宮坐行事の中にも太陽崇拝は少なくない。その一つに那智の火祭りがある。七月十四日に太陽を表すという十二体の扇神輿を那智の瀧の前に立て、これに十二本の大松明をかざし烏帽子をかぶった神職が一種の削りかけである打ち松と呼ばれるもので打つという。これは太陽と鳥との結合を表す祭りである。もちろん、那智の火祭りほどまだまだ全国に知れ渡ってはいないが、風早火事祭りもまた日輪信仰そのものの祭祀と古俗を今に伝える祭りである。一方伊勢・志摩地方にも太陽崇拝が多いことは、直木孝次郎氏、岡田精司氏らをはじめとする多くの研究者が指摘するところである。以上この(くだり)については「太陽神話と太陽崇拝」と題する四条畷学園女子短大講師の丸山顯徳氏の論考を中心に構成させていただいたことを付記する。

このように太古我が国では、全国各地で各氏族がいわゆる女王アマテラスとは異系統の男神の太陽神アマテルをを祀っていた、まさに日の神々の坐す本つ國〔日本国〕だったのである。これは海人族との関連が深いもので、太陽神を舟に乗せて迎え祀るという信仰形態を持つものなのである。例えば天皇家の聖地・伊勢神宮でさえ、もとをただせばこの地方土着の海人族によるアマテル信仰が先にあったという説が有力になってきた。(先述のサルタヒコの例)

2. 大歳御祖皇大神(おおとしみおやのすめらおおかみ)

記紀が語るところでは皇祖といえば、女王アマテラスが定説化していることは既に述べた。ここに挙げた大歳御祖(おおとしみおや)皇大神を祭神とする神社は全国各地にあり、大分県の山国町には神名がそのまま社名となった「大歳祖神社(おおとしみおやじんじゃ)」もある。どの社も『延喜式神名帳』に載る古社ばかりだが、全て最後の皇大神が省かれている。もちろん大歳御祖皇大神とはニギハヤヒのことであり(小椋一葉著「消された覇王」に詳しい)、『日本書紀』第十巻が完成した持統天皇の西暦六九一年に朝廷は物部氏ゆかりの石上神宮(いそのかみじんぐう)(天理市 名神大社・官幣大社)と大神神社(おおみわじんじゃ)(桜井市 名神大社・官幣大社)の古文書をはじめ、物部氏と同族の穂積氏など一六家の系図を没収抹殺しているので、おそらくこの一連の行為の結果、「皇大神」称号の剥奪が畏れ多くも行われたのであろう。

ここでいよいよ伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)の登場である。私は平成十年十一月二四日に、当社の現状を知るべく、同じ若者塾生で現在は塾長の伊藤氏と共に、現地調査を行った。当然現代の一般常識からすると御祭神は女王アマテラスと思えるのだが、男王のニギハヤヒであった。これほど簡単明瞭にニギハヤヒの隠された実像を如実に物語る社号はない。伊勢内宮はすなわち皇大神宮であるから、ニギハヤヒこそが真の皇祖ということである。この神社は大石太神宮ともいわれ、御祭神の文字表現は、天照國照彦天火明尊(ニギハヤヒ=風早宮大氏神)となっており、福岡県久留米市大石町にある。当然式内社として『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』(九二七年刊行、古社二八六一座を搭載。その大半は各国造を始め先住民族の祖神が主祭神)にもその名を記す。海人(あま)族である尾張氏によって皇室とは全く別のアマテルがここでも祀られている。後述の籠神社の社家海部氏(あまべし)も尾張氏と同族で祖をニギハヤヒとする土着の日神信仰を有する氏族である(『日本書紀』「神代第九段一書第八」・国宝「海部氏系図」)。しかし、由緒ある大社にもかかわらず、訪れる人も無く、境内地も荒廃し社家も途絶えていた。現在は窮状を見かねた近所の幼稚園経営者が、神職の資格を取り奉祀されている。

至近距離に水天宮もあるのだが、こちらは折からの七五三の家族連れでにぎわっていた。あまりに対照的光景で、正直ニギハヤヒが可哀想に思えた。同時に奈良時代以降の官憲による神祇政策の証左かと複雑な心境だった。このほかにも数多ニギハヤヒを祀る大社を歩いたが、ここと同様に何故か、その栄光の来歴とは程遠い現状を呈していることは慙愧に耐えないところである。

さて大石町は、今でこそ市街地となっているが、台地と筑後川の自然堤防の上に大石神社遺跡・速水遺跡・南崎遺跡など弥生中期から後期の遺跡が広がっている。大石町の当社の御神体は本殿土間にある巨石で支石墓の上石あるいは古墳石室の蓋石かと推測されているが、江戸時代の『筑後志』や社伝にはこの石が年々肥大化すると伝えている。また石の大きさは、「方九尺」別に「方三尺」という。この巨石を祀る伝承が神社発許に引き継がれているとすれば、祭祀は古く、巨石は磐座である可能性も高い。またこの神社も社名と祭神から見て物部氏の日神祭祀に関連していたと思われる。(奥野宮司談)

また鎮座する大石村の江戸時代の記録には

「当社御神体は天照太神之由申伝候。則、伊勢御前と号奉り候。周迂九尺四面余、厚さ四尺余之大石壱個、同長三尺余之、高サ三尺余之石壱個、右之二石神殿作申候テ、則、御神体と奉崇候。」

以上のように、祭神ニギハヤヒは「伊勢のアマテラス皇大神のさらに御祖皇大神」だということを物語っている。

3. 丹後國一の宮 国幣中社 籠神社

(この又は・こもりじんじゃ) 京都府宮津市大垣

延喜の制では名神大社である。この神社こそ伊勢外宮の旧地と考えられていたため、元伊勢という通称もある。ここは主祭神が彦天火明命。相殿が、天照大神・豊受大神である。つまりここでは、ニギハヤヒは伊勢の天照・豊受大神を従えて主座に鎮座しているのである。このことは、ニギハヤヒが両皇大神宮の御祖だったと解しないわけにはいかない。

またこの神社の宮司は代々海部氏がつとめているのだが、この海部氏は尾張氏と同族で、尾張氏といえば男性の太陽神・アマテルを祀る一族であり、宮司家には、一級の資料として世に名高い国宝「海部氏系図」があって、その祖は御祭神の彦天火明命である。

太陽神を祀る巫女豊受大神の本貫地・元伊勢ともいわれる籠神社の宮司を男性のアマテルの末裔が勤めている事実。豊受大神の祀る本当の皇大神宮(内宮)の太陽神とは、この彦天火明命(=ニギハヤヒ)だったのではないかとますます思えてくる。

4. 大和に眠る太陽の聖都

 三輪山と纒向(まきむく)遺跡 奈良県桜井市

秀麗な大三輪山は麓に聳える日本最古の社とされる大神神社があり、御神体・神体山である。主祭神は大物主大神で、一般に大国主命に比定されるが、実際にはこの神こそニギハヤヒであることが、原田常治氏による神社伝承学の手法により掘り起された。その著書『古代日本正史』に詳しい。今に版を重ねている。

日本國最初の首都と目される纏向遺跡(百九十~三百四十年)では、古代より神聖視されてきた山や遺跡、神社などを地図上で結び、それらの相関関係が明らかになりつつある。具体的には、大物主大神を祀る三輪山と関係する神社を結ぶとほぼ正三角形がいくつも見つかり、しかもこれらは、三輪山から昇る春分・秋分の日の出を観測するように構成されていることがわかった。また是とは別に三輪山を頂点にしていくつかの聖点をつなぐと西に向っていくつもの正三角形を描くことができる。そしてその聖点のいくつかの箇所で実際に天照御魂神を祀っている。(小川光三著『大和の原像』大和書房)こうしたことから三輪山が古代大和の太陽信仰のメッカだったのではないかとする仮説が実証されつつある。

昭和四十七年纒向遺跡第七次調査で桜井市辻にある川沿いの祭祀穴「土壙4」から「水鳥木製品」が発見された。全長十九・四センチ、最大幅六・六センチ、高さ九・五センチ。桧の一木から刀子などを使って作り出している。ここからは他に、木製高杯、(そう)(みの)(かご)、舟形木製品などが見つかり、他の層では黒漆塗りの弓、杵、櫛などさまざまな遺物合計三百七十点に昇り、木製品には火で焼かれた跡があった。さらに「土壙4」のそばでは同時期の建物跡が見つかっている。建物は南東向きで、その方向には神山「三輪山」がある。桜井市教委によれば、建物内で祭祀が行われたあと、祭具一式が棄てられたらしい。その祭りは、豊作に感謝し、翌年の寿秋を祈る新嘗祭のようなものと考えられる。「暴れ神輿」の原型を見る思いがする。今でも伊勢神宮では、神饌祭具をはじめとして使い捨てである。ちなみに小字は「トリイノマエ」。近くで神事が行われた場所であってもおかしくない小字名が伝えられている。

参考までに平成十二年(二〇〇〇)十一月一日の産経新聞では奈良県柏原市の四条遺跡で六世紀前半ころの古墳の周濠内から、翼がついた状態の鳥形木製品が出土し、県立柏原考古学研究所が三十一日発表したとある。ここでも祭祀などで古墳の周りに並べていたと考えられるという。鳥たちによって魂が天空に召されるという信仰があったのか、あるいは鶏が暁を告げることからの日輪信仰なのか、いずれにしても翼付での発見はこれが初めてということだ。

天岩戸神話における「常世の長鳴き鳥」は神聖な禽獣であり日本でも古来死者再生の儀式に使われたという。各地の古墳から出土する鶏埴輪がそれを物語る。雄鶏信仰の発祥は中国で、弥生時代に稲作とともに伝わったという。その信仰形態は事実式年遷宮でも、クライマックス遷宮祭(御神体を新しい社殿に遷す神事)において鶏が重要な役目を果たすことになる。今日でも遷御の行列の先頭で鶏の鳴き声をまねる行為が行われるのだ。浄闇のなか桧扇で羽ばたきをまねて「カケコウ」(外宮は「カケロウ」)と三度叫んで遷御が開始されている。これは伊勢神宮の古記録『皇太神宮儀式帳』にすでにみえ、おそらくは奈良時代以前からの古い太陽信仰に基づく雄鶏に対する慣習であったと思われる。こう考えると伊勢神宮の祭儀が天岩戸神話を投影している可能性もまた大なりといえよう。鶏が天岩戸神話に出てくるのは、この鳥が中国では悪気邪気を払う能力があるとされ、鶏が鳴けば日の出となることから、太陽をよみがえらせるために鶏を鳴かせることによるものであろう。まさしく二十年に一度神威の陰りを社殿調度の新調によって更新する、太陽の蘇りを願う儀式であるから至極妥当である。

伊勢神宮では、遷宮に先立って行われるいくつかの祭儀で鶏やその卵が神饌として供えられる。このような伊勢神宮と鶏の結びつきも本来太陽神を祀っていた伊勢神宮にふさわしいといえるのではないだろうか。

さて三輪山に秘められた太陽信仰の痕跡はほかにもある。大神神社には神宮寺として平等寺があるが、中興の祖である慶円上人(けいえんしょうにん)(三輪上人一一四〇~一二二三)は以下のような教説を残す。

〈天皇家の太陽神・天照大神と出雲神・大国主命(大物主大神)は一体であり密教の最高佛・大日如来が化現(けげん)したもの〉とする。

このことは三輪流神道の奥義である「伊勢と三輪一体不可分」という神学にも相通ずるところだ。(『三輪流神道の研究』大神神社史編集委員会)また『三輪大明神縁起』には、天照大神は、天上では一柱のアマテラスであったが、日本に降臨して、二所となり、大和國三輪山では大神大明神(大物主大神)、伊勢國神道山では皇大神になったとしている。さらに物事の隠された深層を掘り起こしていく際の手法として以前、愛媛県立松山北高校の恩師(日本史の泰斗) 清水正史先生に伺ったことであるが、文献、考古学資料、市井の伝承に加えて「歌謡」の存在を指摘されたことがある。そのひとつに能楽がある。ここでは室町時代に成立した能楽『三輪』に注目したい。このなかで三輪の神は

「思えば伊勢と三輪の神、一体分身のおんこと、今更何をいわくらや」

と台詞を述べている。