風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第四章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その2

5 型・形(古制(こせい))を守って 心を次代に伝える式年遷宮(しきねんせんぐう)
-建国の精神を追体験した御木曳行事(おきひきぎょうじ)…連載を終えるにあたり

平成二十五年に第六十二回を数える伊勢式年遷宮(大神嘗祭(だいかんなめさい))に向けて、ご当地では今からお祭りや行事が地元はもとより「一日神領民(いちにちちしんりょうみん)」と称して全国の崇敬者を巻き込んで、着々と諸準備が進められている。用材奉曵本部長は森下隆生伊勢市長が務める。遷宮総費用は五百五十億円に上り、全て国民からの浄財でまかなわれる。式年遷宮とは内宮(ないくう)外宮(げくう)御正殿(ごしょうでん)と十四の別宮、さらには五十鈴川に架かる宇治橋が二十年に一度建て替えられ、大神様にお宮遷りをいただく、神宮最大の神事である。このとき、御装束や御神宝も古式のままに調進されることにより、今日に至るまで日本文化の継承が図られてきた。

一回の遷宮で使用されるヒノキはおよそ一万五千本。当初は神宮の背後に控える山(宮域林(ぐういきりん))から供給されていたが、鎌倉中期までに採り尽くし現在は長野県や岐阜県にある木曽谷御料林から供給される。加えて今回からはおよそ七百年ぶりに、御用材の一部が宮域林からも供出できるようになった。大正十二年に森林経営計画が策定されたことに伴う植樹の成果として、直径三十から五十㌢のヒノキが使用されることになったのだ。

実は(平成十八年五月二十五日から二十七日)私たちは愛媛県神社庁主催の「第一次御木曳行事参列の旅」に神社総代会北条支部から神職を含め八人で参加する機会に恵まれた。県全体では二百六十五名、バス七台の集団伊勢参宮である。あいにく期間を通じて曇天または雨に見舞われ、御神木を二㌔にわたって「エンヤ」の掛け声も勇ましく約五百人で曵行し、無事に外宮まで納めたのであるが、事前に購入した法被白装束の上から合羽(かっぱ)を羽織りながらの行軍で、正直決して快適なものではなかった。が、本来、神領民たる伊勢市民だけに許された御木曳行事が、近年広く国民に解放され今回の遷宮に関わらせていただいたことは、生涯の思い出だ。「遷宮で結ぶ人の輪 心の輪」というスローガンが身にしみた。次回は二十年後、私も還暦前の歳になっている。元気でその年を迎えたならば、また参加して奉曵車の真白いロープを共に曳きたいものだと思った。そのときも神宮は当時と変わらぬ姿かたちで鎮座し、我々を迎えてくれるだろう。

そもそも遷宮制度は持統天皇の御発意により、西暦六百九十年に内宮で最初の遷宮が行われてから千三百年の長きにわたり継承されてきた世界に例を見ないお祭りである。二十年をひとつの区切りとして常若(とこわか)(衰えることなく常に新しいエネルギーに満ち溢れている状態)を祈ると共に、この國の心と姿をそれぞれの時代のなかに問い、確信し、千代に八千代に我が国と皇室の弥栄(いやさか)を願うものであり、その根底にあるものは自然、つまり八百万(やおよろず)の神々と共にひととして生かされていることの感謝に他ならない。

では二十年というのは一体どのような意味があるのであろうか。神宮の元禰宜(ねぎ)だった矢野憲一氏は「二十年に一回、旧暦で元日と立春が重なる」と指摘し、満十九年が『満数』であり、二十年目に入ると一切が初めに戻り新しくなるという原点回帰の思想がそこにはあると指摘している。これは私がこれまでの論考で指摘してきた立春正月や一陽来復を感謝する冬至祭りの起こりとも重なり、伊勢大神が太陽神ならではのこととて興味深い。

神社伝承学における先哲の研究の成果として、本来ニギハヤヒこそが真の太陽神であり皇祖神であることをベースに、全国でただ一社、ニギハヤヒを始めご一家おそろいで御祭神として祀る風早宮大氏神について、その特異な祭礼形態に秘められた謎を、一兵卒としての少年団活動から中学校三年生での子供大将を経て三十年、宮総代としての今日に至るまで、身近に、自然体で奉仕してきた地元民の立場から探究を行ってきた。全国レベルの関係書籍は巻末に謝意をもって紹介したごとく数多出版されているが、これを地方の観点からいわば相互乗り入れを試みた次第である。四回の連載のなかでは記紀成立以前の原初の神道(物部神道)の姿が、伊勢神宮の式年遷宮をはじめとする祭事に残され、同様の視点から風早宮大氏神の特殊神事(御動座祭)や奇祭(荒神輿の神事)に伝承されてきていることを検証してきた。それはひとえに、この我が国の宗廟たる神社界の頂点にたつ神宮と、四国の(ひな)に鎮座する風早宮大氏神が共通項で結ばれていることの不可思議さを、読者諸賢に訴えたかったからに他ならない。そのキーマンが太陽神ニギハヤヒであり、キーワードは原初回帰・再生復活の思想である。

本質の論議を解かりやすく展開するために、天照大御神が男神か女神かということの議論も展開してきた。国民の精神的な拠り所であり、またはるか昔、神代のこととて写真もなく当時の尊像として拝顔することも叶わないなかで、皇祖神・太陽神である天照大御神の性別をことさら拘泥することには読者のご意見もあったと拝される。私さえも、伊勢神宮に改めて今春参拝し、いつに変わらぬ静寂と御神威を肌で感じるとき、もはやどちらでもいいではないかとの思いもなくはない。だが男でもなく女でもないとするならば、我が国の正史とされる記紀に、何故女と記述したのであろうか。情緒では流されえない疑問が残る。男ともいえるし女ともいえる存在をあえて女王アマテラスと決めてしまったところに、持統天皇(女帝)を中心とする律令国家体制の整備を目指す宰相 藤原不比等の政治的意図が垣間見られたからに他ならない。

勝者が歴史を作る-----政争に敗れた建国の立役者が傍流に追いやられた物部氏を思うとき、その無念さはいかばかりであろうか。あの勇ましくもなぜかしら哀調を帯びて聞こえる風早ダンジリの太鼓・半鐘の音が、私には大氏神ニギハヤヒからの正しい日本建国史の復元を求める訴えに聞こえてならない。久留米市の伊勢天照御祖神社などかって広大な神域、領民の敬慕を受けた全国各地のニギハヤヒを祀る神社が、多く衰微の途時にある実態も、それに拍車をかける。

建国の真の英雄スサノオやニギハヤヒは幽神(かくりかみ)へと追いやられ、皇祖神・太陽神としての天照大御神には女王アマテラスが顕神(あきつかみ)として桧舞台に躍り出ることになった。外来宗教である仏教の公認に絡む蘇我・物部戦争でニギハヤヒの末裔物部本宗家が敗北したことも大きなターニングポイントとなった。

最後に、この度の伊勢参拝にあたり真の太陽神・皇祖神ニギハヤヒに拙詩を呈して筆を置くこととしたい。長期のご愛読ありがとうございました。

濱參宮(伊勢二見興玉神祠)

白砂來踏怪巖欹         白砂来たり踏めば怪巌欹(そばだ)つ
恭頓古祠滄海?         恭しく古祠に(ぬかず)く滄海の?(ほとり)
明朝奉曵祈無事         明朝奉曵(ほうえい)の無事を祈る
清爽心窩有作時         清爽心窩(しんか)作す有るの時
平起式上平声四支韻

奉祝伊勢神宮式年遷宮御木曳行事(一)

川流滾滾水??         川流滾滾水??
杉樹深攸拝神社         杉樹深き(ところ) 神社を拝す
皇祖遷宮二千歳         皇祖遷宮二千歳
用材奉曵?佳辰         用材奉曵の佳辰(かしん)を迎ふ
平起式上平声十一真韻

奉祝伊勢神宮式年遷宮御木曳行事(二)

祠官総代浄心身         祠官(しかん)総代心身を浄め
欲搬檜材精氣新          桧材を搬ばんと欲して精気新たにす
奇習連綿謝神徳         奇習連綿神徳を謝し
領民舉曳大車輪         領民挙って曳く大車輪
平起式上平声十一真韻