風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第四章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その2

特別寄稿 『皇祖神 饒速日大神の復権』を上梓された大野七三氏より

 平成19年11月21日埼玉県狭山市のご自宅に大野先生を訪ね、ニギハヤヒ等について歓談をさせていただいた。以下は先生のご見解を簡単にまとめられた御文章であり、当ホームページ掲載の許諾を得たので、ここにご紹介させていただく次第である。

 いまや国会でも日本の歴史認識が叫ばれていますが、我が国の成立、大和朝廷の誕生について正しい認識をもたれている方は少ないと思います。
 それは、これまでの古代文献として最も信奉されてきました『古事記』『日本書紀』に史実の改竄、隠蔽、創作があるためと考えられます。
 『先代旧事本紀』によりますと、我が国の成立は、神武天皇が東遷される以前(3世紀始め)、饒速日尊という大神が北九州方面より32人の従者(神)と25部の物部(軍団)らを従えて大和に東遷され、当時大和の豪族長髄彦を服従させ、その妹三炊屋姫を妃として、畿内各所に32人の従者と25部の物部らを配置し、饒速日尊が本拠とした磯城(しき)(奈良県桜井市付近)を統治圏として我が国の基礎を形成したことに始まります。
 饒速日尊が亡くなられた後、神武天皇が日向(ひむか)(九州南部)より東遷され、饒速日尊の御子伊須気余理比売(いすけよりひめ)と結婚され、饒速日尊の御子宇摩志麻治命(うましまじのみこと)より統治権を禅譲されて大和朝廷が創建されました。
 これが我が国建国の真実の歴史と考えられます。その証に、神武天皇は橿原宮(奈良県御所市柏原か)で即位されるときに皇居の内に皇祖神として、饒速日尊の御魂と御魂の憑代(よりしろ)と考えられる布都主剣(ふつぬしのつるぎ)天璽瑞宝(あめのしるしみずのたから)十種神宝(とぐさのかんだから))を共に奉斎されました。
 初期天皇家の血筋は、男系は神武天皇ただ一人ですが、皇后は饒速日尊の御子伊須気余理比売を始め、その後の皇后は饒速日尊の神裔磯城県主(しきのあがたぬし)(後の物部氏)から出自されており、皇后から誕生された皇子のみが天皇となる慣例でした。即ち、天皇家は饒速日尊の家系であるということです。
 『古事記』『日本書紀』では神武東征として神武天皇が我が国を創建されたように考えられていますが、『先代旧事本紀』「国造(上代地方豪族で歴代天皇より土地の統治を認められた者)本紀」によりますと、神武天皇は饒速日尊の統治権(北九州の一部と瀬戸内の各所、畿内の全域)を譲られてより、多少は統治圏を拡張していますが、神武天皇の皇子神八耳命(かみやいみみのみこと)とその御子健磐龍命(たけいわたつのみこと)がヤマトの国(邪馬台国・九州全域)を大和朝廷に併合し、各地に国造を認定することによって全国が統一され、日本国家が形成されました。
 我が国の成立は実在した神代の神々である初期天皇家の成立と軌を一にするものであり、日本人として神々を崇敬し、永遠の繁栄を願うことは当然のことであります。
 『古事記』『日本書紀』によって意図的に抹消されている我が国建国の基礎を築かれた饒速日尊を皇祖神として復権させることは私たちにとってもっとも重要な成すべきことではないでしょうか。国家創建の正しい歴史認識こそ愛国心が培われる基であると思います。
 皇祖神饒速日尊の復権に皆様のご協力をお願いいたします。

平成18年10月吉日
大野 七三