風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第四章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その2

2 記紀から無視された銅鐸のうめき

和辻哲郎氏は考古学的資料から、日本建国前史において、統一の力が九州から動いたテーゼは覆されないとして、以下の見解を示す。

私も和辻氏の説を大枠において支持するものである。ただその主体について後発の筑紫勢力〔天孫族=天津神〕である神武の東征(遷)の前段に、先発の筑紫勢力〔出雲族=国津神〕のニギハヤヒを総大将とする物部氏の東遷(天降り)が大和に向けて行われ、ナガスネヒコ等縄文色を残す在地豪族とともに銅鐸を祭器・呪器とする物部ニギハヤヒ王国を建設したと推測するのである。(これが真の邪馬台国)

さらに銅鐸の制作、そしてなぜ突如として中止または破砕されたかについては、谷川氏の『白鳥伝説』の指摘が秀逸である。氏も銅鐸が物部王国のシンボルと称すべきものだったとしたうえで、巻向遺跡、池上遺跡(大阪府和泉市)や豊中市利倉の例、久田中 久富谷(兵庫県日高町)から発見された銅鐸などが故意に破砕された状態で見つかったことから「銅鐸を破砕してしまわねばならない緊急事態の出来」を推測している。また杉原荘介氏によると、銅鐸の制作年代は一〇〇年前後から二五〇年前後であり、また使用年代の下限は三〇〇年前後であるという。そして弥生後期の二五〇から三〇〇年代にかけて西日本のどこかの地方に、地域的に政治権力を持つ勢力が伸張し、その政治権力は銅鐸を祭器とする共同体組織を破壊し始めた。そこで銅鐸を隠すことで新しい社会に順応せざるを得なかったのであったという。

奥野正男氏は『邪馬台国発掘』(PHP文庫)で、要約次のような見解を示す。

唐古・鍵遺跡での銅鐸制作は、中期から後期に亘って行われ、後期後半から古墳初期の間に関係遺物が投棄され、同遺跡の集落はこの銅鐸制作の中止と共に廃絶に至ったと見られる。同じころ初瀬川の上流に纏向遺跡が突如出現する。この遺跡(太田北微高地)からは、銅鐸の破砕された耳飾片が出土している。これは纏向遺跡に新しく進出(侵略)してきた人々が、宗教的に旧来の銅鐸祭祀と断絶していたことを示すものであるという。

以上の諸説を綴り合せることで、私見は三〇〇年前後に大きな政治変動がったと推測するものである。それがいわゆる三輪王朝(崇神天皇の東征第三波)の成立ではないか。ただし私はここで、世界最古の王家である皇統が万世一系で百二十五代を数えるとされていることに、一国民として誇りと敬愛の情こそあれ、異議を申し述べるものではない。

その新王都 纒向遺跡を発掘する奈良県立橿原考古学研究所調査第一課長の寺澤薫氏は「銅鐸はなぜ埋められたか」の問いに対しこう答えている。

「穀霊を守護し、悪霊を撃退すべき使命を担って、銅鐸は(マツリの後)大地に返される。それは銅鐸自身の死と引き替えに、地霊を奮い立たせ、豊穣の生命を取り返そうとするという最後の手段ではなかったのか。」とし、

氏は銅鐸が共同体や国家全体の利益のための共同の呪器であったのに対して、特殊器台・壷は同じく全体の利益のためであっても、首長個人の霊力の増幅と強化を狙う秘儀に捧げられた呪器と解説している。

数々の古代ミステリーの著書がある関裕二氏は『古代大和朝廷の謎』(立風書房)のなかで

銅鐸の埋葬が、なぜ人里はなれたなだらかな斜面に集中し、周囲に目印のようなものがなかったのか。この不思議は、銅鐸廃棄説、侵略された土着民の隠匿説まで生んだ。しかし、捨てたにしても、あるいはどさくさにまぎれて隠したりしても全国ほぼ全域で、一定の法則にのっとって埋められていた事実は、どうしてもこれらの説を否定していたのである。かつてそこに巨木が根を張り、縄文以来続いていた聖地であったと考えることで、十分説明が可能となるのである。

巨木・農耕祭祀説で結論付ける。実際私も昨年平成十八年秋、出雲の荒神谷、加茂岩倉両遺跡を訪ねたが、そのように感じられないこともないくらい、森に囲まれた斜面だった。

そうして縄文以来続いた自然崇拝・万物の豊饒と再生復活を願う古代神道(私見では「物部神道」)により祭器として用いられてきた銅鐸が、3世紀後半畿内を中心に前方後円墳が登場する直前、日本列島から忽然と姿を消したのは、各首長や、各地域の祭祀を外来の強い王が摘み取りを図り、新規祭式(私見では後世の「中臣・藤原神道」)の統一化・中央独占化する過程で、前王権(私見ではヤマト物部ニギハヤヒ王国=真の邪馬台国)の象徴祭器たる銅鐸祭祀の根絶が目論まれたのではないかと思える。

日本で最初に銅鐸が地中に埋められたのは出雲である。出雲で埋められた銅剣が周辺の古い神社の数に近いことから銅剣や銅鐸といった祭祀に用いる青銅器が各集落に伝わっていた可能性が強く、それらの祭器を一度に埋めることができたとすれば、しかも整然と、強制的な作業を強いる政治権力の存在を仮定せざるを得ない。日本の固有信仰が「精霊崇拝」「祖霊信仰」「首長霊信仰」の三層からなると述べておられる武光誠氏は首長霊信仰の発生こそ、日本統一のきっかけだと断言されている。

王家は、大和や河内の有力豪族の祖神を王家の下位に位置づける。それとともに地方豪族の祖神も朝廷がつくる神々を組織した秩序の中に組み込まれていく。
-『真実の古代出雲王朝』武光誠著 PHP研究所)

ここにいう精霊信仰とは縄文人の万物に精霊が宿るとするアニミズムで、祖霊信仰は先祖全てが神になるという弥生中期に中国江南地方から伝わった信仰である。こう考えるとさらに、天皇中心の国家体制の確立と出雲銅鐸政権(祖神ニギハヤヒを共立し頂点に戴きつつも、ゆるやかな雄藩連合政体としての八百万(やおよろず)(くに)葦原中国(あしはらのなかつくに)」)の消滅という過程はある程度説明がつく。ここに穀霊・地霊祭祀から首長霊祭祀への変遷(宗教改革)があるとするのである。その契機が崇神天皇の東征ということは、十分考えられると思う。

平成十八年二月十日の産経新聞は中国江蘇省ブヨウ市(揚子江下流域)にある春秋戦国時代(前七七〇から二二一)に地方国家越の貴族墓から、銅鐸に似た青銅器の「鐸」が出土したと報じた。これにより朝鮮半島を通過せず、直接中国江南地方から銅鐸の原型が直接我が国に伝わった可能性もあるとした。越国はニギハヤヒを祖とする越智氏と関わりある故地だけに興味深い。

また平成十九年十月十九日産経新聞は「赤い銅鐸交流の証?弥生期成分が類似」と題して、弥生時代銅鐸鋳造の中枢施設とみられている奈良県田原本町の唐子・鍵遺跡から平成十二年出土の銅鐸片(BC一から二世紀)と加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)の銅鐸(国重文)との成分が極めて類似していることがわかり、田原本町教委が一八日発表したというもの。これにより古代大和の中心だった唐古・鍵遺跡で生産された銅鐸が、約300キロ離れた出雲にもたらされた可能性が浮上した。全国を掌握したとされる邪馬台国誕生以前に、各地のクニ同士が文化的交流をなしていた可能性を示す重要な資料となりそうだ。また一般に銅鐸は10㌫程度の(すず)を含み製作当所は銀白色をしているが、今回のものは錫が少ないため赤銅色だった。新聞社は特種ネタで一面写真入扱いだったが何も驚く記事ではない。神社伝承学に立てば出雲と大和のつながりは明白なことで、大和にも出雲族が在住したのだから当然銅鐸の成分組成も一致するのである。これから益々考古学の新発見が我々の論考を証拠付けてくれるだろう。

さて私も実物で確認したが、出雲の銅鐸や銅剣には謎の×印が刻印されていて、しかもそれは人目のつかない場所に施されていることだ。之に対しては、大和岩雄氏に次の指摘がある。(『邪馬台国の時代』黒岩重吾、大和岩雄 大和書房)

大和氏によるとこれは、秘することによってより以上の呪力を発揮させる――縄文時代からの伝統ではないかと疑われている。縄文後期の男根状石棒の亀頭部にやはり×印があって、これを桜の皮で隠していた例が存在したことを重視されてのことである。また破壊された銅鐸についても、縄文人が土偶を壊して土葬し魂の再生・復活を願ったことと共通する縄文的で土着的な風習の延長線上の行為かもしれないと指摘されており、このことからも風早宮大氏神の神輿を破壊するという行為が、現代社会にあって奇祭と称されようとも、太古にあっては、まさに万物の再生と復活を祈願する当たり前の儀式を今に伝えているとする神社当局を初め、私ども関係者の知見とも深く結びつくわけである。それは銅鐸には流水紋や袈裟襷紋、さらには鹿の絵などが好んで描かれているが、これだとて、水面の流れに万物の永遠なる継続と発展を託し、毎年生え変わる鹿の雄雄しい角を見て生命の躍動感(死と蘇り)を感じ取ってのことに違いない。平成十八年十二月二日、松山市考古館特別展記念講演で招聘された福岡市埋蔵文化財センター主幹の常松幹雄氏は「銅剣に描かれた鹿と鉤(カギ)の意味」と題して講演をされたが、やはり再生への祈りが込められているとのことであった。