風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第四章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その2

3 ニギハヤヒの怒り
- 崇神朝の天変地異・皇族の反乱

十代崇神(すじん)天皇(ミマキイリヒコ)が四世紀初頭に即位するとさまざまな社会不安が起こった。

この天皇の御世に疫病多に起こりて、人民尽きなむとしき。
-『古事記』
五年国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。
六年百姓の流離するもの、あるいは反逆するものあり、その勢いは徳を以って治めようとしても難しかった。
-『日本書紀』

と、記紀に記す。さらに崇神紀七年に大物主大神と倭大国魂神を祭り八百万の神々を祭祀した結果、疫病がはじめて収まり、五穀がよく実って百姓は賑わったとあるから、穀物の飢饉・不作も起こっていたのである。さらに追い討ちをかけるように、父開化天皇の兄弟である武埴安彦(たけしはにやすひこ)の反乱が、十一代息子垂仁天皇の時には、皇后狭穂姫(さほひめ)とその兄狭穂彦(さほひこ)の反乱が起きた。

これら崇神朝初期の社会情勢不安は何を意味しているのだろうか。

中村淳晤氏は『古代倭国史』のなかで、このような惨禍は外部からの征服者の侵入によって、旧支配者が滅ぼされ(皇統の継続は前提として)、民衆が陵辱された状況下で起こることが多いと興味深い指摘をしている。『日本書紀』には崇神天皇即位してより今日まで、宮中に天照大神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)を奉斎していたが、同殿同床は恐れ多いとして、それぞれ皇女に託して大殿(みあらか)(桜井市・磯城水垣宮(しきみずかきみや))から追放していたとある。初期大和王権・物部王国から葛城王朝(神武から開化)に至るまでの皇室の伝統的祭祀をことごとく排除したのである。なぜならこの二神を祀ることは、前王朝の人々にとっては生存の前提条件のようなものであり、その祭祀を放棄したということは、崇神王朝に屈服したか、それを心良しとせず下野したかを意味すると氏は説く。よって開化から崇神天皇への政権移譲は正常な形態ではなかったと推理するのである。それは都を開化になって突飛に率川(さいかわ)(奈良市)にまで北上したことからもわかる。支配領域の拡大ではなく、崇神天皇に追われたためだというのだ。

ミマキイリヒコは、元来は日輪信仰ではなかったかもしれない。鳥越憲三郎氏は「神々と天皇の間」において、穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)(桜井市 名神大社・県社)が崇神の皇居から最も近い穴師邑にあるにもかかわらず、記紀において祀った部族の由来に触れていないことについて、兵主大神こそ崇神の守護神であり、記紀はその出自を隠す必要があったとしている。また当初鎮座していた巻向山上の()月ケ(づきがだけ)からは三輪山が見下ろせることから、折口信夫氏は、この神及び神人が三輪山の上高くいて、その神の暴威を牽制していたのだと説いた。御祭神は諸説あるが、宮司の中由雄氏は「新羅皇子・天日槍命(アメノヒボコ)そして鉄である」と明言している。また、澤田洋太郎氏によると崇神は筑後川河口にあった弥奴国王(みぬこくおう)水沼君(みぬまきみ)であるとし、末盧国王(まつらこくおう)の海人の宗像族と同族であるとする。だとするならば、守護神は宗像大社(名神大社・官幣大社)で祭神は宗像三女神(田心姫神(たごりひめかみ)湍津姫神(たぎつひめのかみ)市杵島姫神(いちきしまひめのかみ))となる。いずれにしても明らかにそれまでの大和朝廷の宗旨とは異型統と考えられる。そのため大和に入って「日輪信仰」の物部氏のところに婿入りして、天皇家第十代として皇統を継承即位し政治権力を得たが無理が起こり、ついには「天照」の追放という挙にでた。さらに物部氏の祖神ニギハヤヒから「天照」の尊号を剥奪し、天照大神に使用を一本化すると共に、この神を自分たちの祖神と挿げ替えた。物部氏には、石上神宮の創設を命じ、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)布留御魂大神(ふるみたまのおおかみ)として、スサノオ・ニギハヤヒを神刀名に擬して抽象化した。私はこれら一連の崇神による宗教改革に伴う祟りを恐れて、天照大神と倭大国魂神を宮中から神遂(かむやらい)(追放)したのではないかと推論するのである。

その結果、大和一国のみならず日本国中の地主神である日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)(ニギハヤヒ)は皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)を斎王として大和神社(おおやまとじんじゃ)(名神大社・官幣大社 天理市)に祀られたが、その後、髪の毛が抜けたりやせ細り祭祀ができなくなったため、翌崇神七年、市磯長尾市(いちしながおおいち)に鎮め祀らせている。一方、天照大神は大和の笠縫邑(かさぬいむら)に神籬(ひもろぎ:榊のような常緑樹で囲われた神聖なお祭りの場)を立ててお祭りすることになった。そこで、天皇に代わり豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が大神をお祭りしていた。しかし垂仁天皇の御代になって元来が九州の外来神である女王アマテラスは、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が新たに大神を祭るにふさわしい地を求めて八咫鏡を持って各地を巡行することになる。倭姫命は大和の国を始め伊賀、近江、美濃の諸国を巡ったのち、伊勢の国の度会(わたらい)の地、五十鈴川のほとりへ「(やしろ)」を定め、伊勢の内宮(皇大御神)となった。崇神六年に大和笠縫村(桜井市 檜原神社)に遷されてから、伊勢にサルタヒコの手引きで落ち着くまで、実に二十三箇所六十年間も謎の巡行を続けることになる。(「倭姫世記」)

このような政変を背景に前王朝を支持する民衆の反抗が起こり、追放した二神を自分の皇女に祭らせたが髪が抜け落ちるなどして一向に情勢は改善されなかった。これは征服王たる崇神天皇の血筋単独では、祭祀の資格がないことを示す。このことも開化と崇神との父子相承の血縁関係に疑義を投げかけるものと考える。

そのうち孝霊天皇の皇女ヤマトトヒモモソヒメノミコト(崇神天皇の大叔母)に大物主が神懸りして言うには「我が子オオタタネコ(父は大物主大神、母はイクタマヨリヒメ)を以って大物主を祭り、イチシノナガオイチを以って倭大国魂神を祭らしめば、必ず天かは治まるだろう」と神託が降った。早速そのように手配(河内國茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)から招聘=大三輪氏の祖)すると、国内はようやく鎮まったと記紀に見える。旧勢力の象徴ニギハヤヒである大物主大神と倭大国魂神を一門の物部氏に祭らせるという、いわば旧勢力との妥協が図られたのだ。そのことは物部氏中興の祖 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)(妹・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)=開化帝皇后)を神班物者(かみのものあかつひと)に任命したことでもわかる。ちなみに伊香色雄命(いかがしこおのみこと)を祀る神社が今治市五十嵐(いかなし)字上の山にある。式内社伊加奈志(いかなし)神社である。伊予国府に近く「総社明神」と称された。また現在「蒼社川」と称されているが、昔は「総社川」と表記されていたという。

さてここで注目したいのは、天災や社会不安を拭い去ろうとして祭祀する神は大物主大神と倭大国魂神の二神であって、決して天照大神ではなかったということである。つまり崇神天皇の御代、祭祀権と政務・軍事権を握る実力者は物部氏とそれに臣従する大和の地主神を奉斎する氏族であって、神武東征(遷)によりもたらされた外来神(女王・アマテラス)はこの時期あくまでニニギハヤヒの次席であり、皇祖神にまでは及びもつかないありさまが伺える。この後六十年間もの間、鎮座地を求めて元伊勢・籠神社を初め、近江、美濃と各地を流転することからもわかる。

小椋一葉氏によると、これを契機に崇神天皇は勅令でニギハヤヒを全国の神社に祀らせると共に、大神神社、大和神社、石上神宮(大和三大大社)などを相次いで創建した。ニギハヤヒを初めとする崇神創始の神社は現在確認できるものだけでも一一〇社(内ニギハヤヒを祭神とするのは三〇社)に上る。以来ニギハヤヒは各国の守護神として奉祭される(風早宮大氏神もこの辺りの創始ではないか)ようになり、彼の眠る「三輪山」(又の名を「御室山」)の名は各地に付けられることになった。例えば

雷神(わけいかづちのかみ)としてニギハヤヒを祀っている山梨県春居町の山梨岡神社の記録には、「崇神天皇の時代疫病流行のため死亡する者多く、天皇は是を深く憂い、命じて御室山に奉祀し、隣郷の鎮守としたのが始まりである…」と記されている。

この大和三大大社は古来より皇室の御親拝厚かったが、伊勢神宮には記紀編纂以前にはあまり参拝された様子が無い。それがいつの御世からか皇室祭祀においては、ゆがめられた記紀の記述に関係なくきちんと祭祀を続けている。毎年一一月二二日に天皇陛下におかせられては「消された覇王」真の皇祖ニギハヤヒの鎮魂祭を宮中において、行っておられるのである。