風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第四章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その2

4 男神の皇祖神(ニギハヤヒ)から女神の皇祖神(アマテラス)へ

しかし時代が律令国家体制に移行すると、政治的な人間の階級や制度に加えて、精神面で補強するために、神々を媒介にして統治する神祇官と官社制度が大きな役割を果たすようになる。つまり天皇・伊勢神宮の下に中央貴族と関係の深い畿内の少数の大社と、地方のごくわずかな特定の神々だけに名神大社の社格と高い神階を与える。その下の地方豪族の祀る神々は、式内の官社に組み入れる。そして神々の間にも社格の大・小や神階に差をつけて階層化する。村々の神々は更にその下にあって国家祭祀の対象にすらならない。

岡田精司氏は次のように総括する。

三輪山の大物主大神は、天皇家にとっては天照大神のような尊崇すべき宮廷の正統な神ではなかったが、山と盆地の農業用水を左右する神であり、疫病神ともなる恐ろしい祟りの威力を持った神として考えられていたことがわかる。
現在我々の見る『記紀』の神話は、継体系の王朝で七世紀に編纂されたものである。継体系王朝の最高守護神はタカミムスヒノカミや天照大神であり、この神々を中心とした高天原の天津神の世界が構成される。
継体系の王朝から見れば、もう数百年も昔の大王たちの権威の根源となった大物主大神も過去のものであるから、王朝の権威と結びつく高天原の神話体系の中には座席を与えることはなかった。しかし現実に大和盆地の人々に水の霊威として信仰されている大物主大神を無視できなかったので、出雲神話の中にチラリと名を出すにとどめ、当時もよく知られていた神婚神話などを人の代の物語の中に収めたものであろう。第一代の神武の皇后が大物主大神系の妻訪(つまど)い伝承として結び付けられている中に、七世紀の宮廷においても三輪山信仰が無視できぬ重みを持っていたことが知られる

一方、関裕二氏は『消された王権物部氏の謎』(PHP)のなかで、邪馬台国論争決着の視点として、当時日本列島には大きく二つの連合政治政体があったとし、その一つ九州には、ご存知!魏志倭人伝に出てくる女王卑弥呼(天照大神)率いる倭国(邪馬台国A)があり、一方で遥かそれ以前(縄文)の建国譚を持つ邪馬台国B(ヤマト物部ニギハヤヒ王国)が大和にあったとする。卑弥呼は中国への地理的条件を巧みに利用して、ある意味真の邪馬台国というべきBの存在を魏王朝に対しては巧みに隠蔽し、日本列島を代表する国家が他ならぬ私『倭』ですよと、使節を送り偽証させ、揚句、喉から手が出るほど欲しかった「親魏倭王」の称号を獲得することに成功するのである。しかしさしもの虎の威を駈る女狐も、奢る平家は久しからずで、大和の物部王国との拮抗状態を解消する時節を迎えるにあたり、AがBとの対等あるいは吸収合併に際して、新首都をヤマト纏向に統一すること、祭事及び皇后家また執政職を物部氏が占める代わりに、対外的政事は天皇家が神武を初代王君として君臨することでここに大和朝廷を建国したと大胆な推理をされている。私もこの節に同感であり、このAB両邪馬台国の合併統一劇こそが、他ならぬ「神武東征」神話として記紀に登載されていると考えるのである。さらに氏は

天皇家最大の祭り[大嘗祭]の主祭神を公にできない理由があったとすれば、ここに、天皇家の゛王゛としての尊厳、権威を覆しかねない問題が潜んでいるからと考えられるのである。すなわちそれは゛という国の成り立ちの根幹に関わる重大事であろう。

と辛辣に指摘されている。

私個人としては、恐れ多くも賢き辺りでは先刻このような我が国の成り立ちや、その後の隣国との関係等については日本国元首として当然御認識遊ばされていると拝察申し上げる。だからこそ過ぐる年、サッカーW杯の共同開催国、韓国に対する関心や思いを宮内庁記者クラブから問われ、今上陛下におかせられては、同国からの移住者らが文化や技術を伝えたことに触れ「私自身としては、桓武(かんむ)天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」との発言になられたと拝察申し上げるからだ。

べつに百二十五代の世界最古の誇るべき王室として、その皇統に、ある一時期日本列島以外の縁故地から倭人が渡来し、皇室に縁を結ぼうと、あるいはまた真の皇祖が國津神ニギハヤヒであろうと、戦前の排他的な皇国史観や大和民族純血主義が、まことしやかに喧伝された時世ならいざ知らず、現下においては国民の皇室敬慕の情や健全な愛国心や郷土愛が、これによりいささかも損なわれるものではないと確信するし、国際社会における我が国の立場も微動だにしないと思っている。したがって考古学の進展により、いずれ近い将来ベールに包まれた真の建国神話(邪馬台国の存在位置の確定を中心として)に脚光が当たらざるをえず、同時に貶められてきたスサノオやニギハヤヒなど天津神のレッテルを貼られながら実態は出雲神であった建国のキーマンやその他、各地の國津神たちの名誉回復がなされる日も早晩来るのではないかと期待を寄せる次第である。

このような古代における日本国建国に絡む東西の大連立を背景に、徐々に九州から持ち込んだ皇祖神(女王アマテラス)を唯一絶対神として奉祭する新興の伊勢神宮(当時は天皇家の守護神としての位置付け)が神社界の頂点へと踊り出、本家本元のヤマトの皇祖・大物主大神・ニギハヤヒを祀る中央・地方の大小社がその家来になり服従するという本末転倒の神祇政策を取ることにより、天皇制イデオロギー(律令国家が本格的に建設され始めた段階にいたって、王権とそれに糾合された地方の勢力は、社会底辺の神々や地域の守り神たちを、天皇の名の下に一切無視し、抑圧できるという論理)に基づく、人民統治が順調に行くように政策が採られていくことになる。記紀はそのバイブルとなり国民教化を支えた。

祭神変更(小椋一葉氏の著述に詳しい)への政治的背景としては、皇后家として権勢を振るった、さしもの名族物部氏も、蘇我・物部戦争で敗れ次第に勢力を失い、さらに大化改新の功により中臣鎌足に藤原姓の下賜があると、神社は中臣(なかとみ)、政治は藤原の二系統に分かれ、名実共にこの国の祭政が藤原一門に取って代わられることになった。このような藤原氏絶対施政下に編纂された記紀には、中臣・藤原両氏の記事に、物部氏との血縁関係には触れるはずもなく、やむなく物部氏始祖ニギハヤヒを天孫族に一応組み込みはしたものの、高天原神話の中には登場させず、孤立した状態に置いた。統治者にあっては、天津神の子孫は一つでなければならず、前王統と新王統と皇祖が二神あっては統治上支障をもたらすからである。その編纂に時の右大臣 藤原不比等の息がかかっていることを見逃してはならない。

こうして世間一般的には、表向き伊勢神宮内宮は女王アマテラスが奉斎されているとされ今日に至っている。

重ねて言うが歴史書というものは、撰録時の政治的主権者によって、自らの王権を絶対的に神聖なものとして権威付けるために、それ以前に存在した王国を歴史の上から抹殺しようとするものだ。しかし語り部を通じ、また広く人々の口を通じて伝えられてきた真実の歴史を、完全に消滅することはできない。

だからこそ風早宮大氏神御祭神と風早国の歴史は、都から遠方の地であったが故に祭神の書き換えもなく、フルネームで御神徳を伝え、しかも歴代国造神主家と不屈賢明な氏子との合作により、千五百年の時を経てなお物部神道の奥義が、「風早火事祭り」という祭礼文化の形で結集して、抹殺されることなく遺されてきたといえよう。

今に生きる私たちは、祭祀や祭礼への奉仕を通じて、逆境のなか伝承されてきていることの重みを、改めて感じる必要があるのではなかろうか。

歴史とは、数字の歴史的事項の機械的な暗記の集積ではなく、ドラマ・人間の物語である。今春(平成十八年)通算二百五十回を迎えるNHK人気番組「その時、歴史は動いた」の松平定知キャスター(松山藩主家の親戚筋:本籍地は愛媛県松山市三番町)は

「織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、切れば血の出る人間が、僕らと同じように悩み決断して死んでいっている。そう思うと、そうした一つひとつのことを紹介していかないと、もったいないでしょう」と語っている。

しかもその何千倍、何万倍の名も無き人々が知られることなく歴史の中に埋もれていったわけで、そうした資料と生き様の発掘こそが郷土史を探求する者の勤めではなかろうか。

そのときの姿勢は古代人の人々の世界観や神話伝承の重層的性格への配慮を忘れると原像や本質を見失うことになるので留意したい。