風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第一章] 浄闇の御動座祭は鎮魂祭だ!

3. 風速(かざはや)((はや))國造(くにのみやつこ)が饒速日尊になる儀式

そもそもは熊野から進軍途中、大和平野の後輩地・宇陀(うだ)(奈良県宇陀郡榛原町)で窮地に陥ったとき、神武天皇が神に祈って寝たところ、天津神が天神地祇(てんしんちぎ)を祀るように夢で言ったことに始まる。そして、神武天皇は椎根津彦(しいねつひこ)と帰順した弟猾(おとうかし)に命じて天香具山(あめのかぐやま)(ちなみに『伊予国風土記』には松山市にある天山(あまやま)は天香具山と同時に二手に分かれて国土に現れたとし、元、天界では同一体であるという。)にある神社の(つち)を取って祭器を作り、莵田川(うだがわ)の朝原で、自ら高皇産霊尊の「顕斎(うつしいわい)」を行ったもである。「顕斎」というのは、先述のとおり目に見えない神を見えるようにして祀ることであり、つまり道臣命を斎主(神主)として厳姫と言う巫女名(現在のように祭祀補助ではなく、司祭者として神意を伝えるシャーマン)を授け、神武天皇自身が高皇産霊尊になる儀式を行って、おそらく高皇産霊尊を身に(よりかか)らせ、神託を道臣命に聞かせたたわけである。だとすれば、これは天皇が神憑(かみがか)りした最初の例だろう。神意を実際に演じて見せ、全軍に勝利を信じさせた心理効果は大きかった。

それにしてもなぜ、神武天皇は男性である道臣命に姫名を与えたのであろうか。その答えを導くために「ヒメ・ヒコ制」を考えてみる。男王はもともと聖俗双方の権力を具えていたはずだ。だから「ヒメ」が持つ役割と意義は、男王権力の継承に必要な首長霊観念が生まれ、その鼓舞と新首長への付着が重要な儀礼行為となったとき、女性の持つ生殖力や女性祭司が太陽神と交合する、という呪性が不可欠とされた点にあると寺沢知子氏は指摘する。つまり「ヒメ・ヒコ制」の原型とは男王が政治と祭祀の双方を掌握しながらも、彼を王と成す決定的なスイッチを女性祭司が握っているという関係であり、それが王権誕生時のマツリゴトの姿だったのではないかというのである。だから『日本書紀』において、神武天皇はわざわざ男性である道臣命に厳姫の名を与え表面上女性化する必要があったのであろう。

男巫に女性名をつけて神の斎主としたということは、神を祀るものは、はじめの形が女であったことを示す。よって、道臣命に女性名の女装をさせなければならなかったのである。『日本書紀』は高皇産霊尊に対して顕斎をしたとするが、これは大物主大神が本来であって、神武はニギハヤヒの神霊を見方勝利のためにわが身に移しまいらせたのである。さらに神武が大物主大神の子媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を娶ったのも旧王朝の神権を婚姻をもって摂取したということである。古態を残す天皇陛下即位時一回のみ行われる大嘗祭(だいじょうさい)において主祭神(天照大神ではない謎の神=ニギハヤヒか)に対し食事を供え、陛下は共食して天皇霊を継承される。伊勢内宮の(しん)御柱(みばしら)(本来原初は男根の象徴物=祖先神の蛇の造形=陽)に対して祭祀に携わることができるのは童女(巫女)「大物忌(おおものいみ)」にのみ許され、天照大御神に食事をささげる豊受大神もまた「童女」であったと『風土記』は伝えている。関連して吉野裕子氏は著書『大嘗祭』のなかで、
〈天照大神はこの祖先神と交わる最高巫女であったが、蛇信仰の衰退からいつしか祀る者から祀られる者となり、伊勢神宮内宮の祭神に昇格した結果、既に早い段階で心の御柱の象徴(太一=天皇大帝=北極星=陰)となっておられたものと思われる。〉  風早宮大氏神の祭典では通常男性神から先に行われるが、秋祭りに限っては女性神から行われること。これが、伊勢神宮の外宮先祀と同様のことであると、宮司はその祭祀の特異性を説明している。

山中智恵子氏は
 〈神は社無く、ついのすみかの神聖な山に対しても神は常駐ではなかったから、祭りの日の巫女もまた夜のくだちから、あかときかけての神の一夜妻であり、一夜のうちに訪れた神から、その霊力受けて聖なる種子を受けるものだった。そのことが村の豊穣を期することにもなるのだった。〉と古代農耕社会の祭りの原型を語る。

今度は模式図を参照していただきたい。いまここに不可視の神霊(A)とその意志を言葉で顕わす者(;Aダッシュをどう表現するか?)とその神託を聴衆に分かりやすく伝える介添え役=日巫女、日妻(B)という三者がいる。この構図こそが日本の祭りの基本構造である(折口信夫(おりくちのぶお)説)。天皇は神なのかというと、天津神の言葉を伝える神聖な瞬間が幾たびも訪れ、神と同格になっている点では現人神(あらひとがみ)なのだが、もともとは「御言詔持(みこともち)」であって、「影のお方」であったということになる。そして信仰上の儀礼として、天皇と神との間に仲立ちで介添え役の女人がいて、天皇が瞬時に神となるのに対し、この女人は、神の近くに生活し直接に神の意志を聴くものとされる。彼女は信仰的にはAの妻であるが、現実的には;Aの妻の形をとる。この構図を宇陀での顕斎と風早宮大氏神の御動座祭に当てはめてみよう。まずAは天神=高皇産霊尊(一説には天照大御神、さらに一説には饒速日尊)である。;Aは神武天皇であり、風早國造神主その人である。Bは厳姫の名を賜った道臣であり、風早國では櫛玉比売命の神霊であるが、現実の祭典次第ではこれも風早國造神主(こくそうかんぬし)が兼務する形をとる。首長霊(ここでは遠祖ニギハヤヒ)に対し、;Aたる國造神主は、実りの秋を迎えて今年一年の平安(収穫・疫病退散・豊饒)への感謝、物部氏末裔であるひとりひとりの氏子市民への幸せを祈念(一願成就)し、合わせてそれを統括司祭する國造神主(家)自身の弥栄(健康長寿)を祈り込める営みの中で、ニギハヤヒの神威の更新を図る祭りを行う(顕斎)。つまり御動座祭(お渡りの神事)は「新しい太陽の誕生を祝う鎮魂祭(冬至祭=太陽神ニギハヤヒの死と復活。冬期天皇の御魂が遊離するのを招き返し、その祭主の体に鎮める祭儀:宮中では旧暦十一月二十二日)」だと私は推論するのである。

他界の天皇霊・首長霊が現世の肉体に宿り、同じ生命として継続していくと古代の人たちは考えてきた。天皇の魂はこうして一代一代「信仰として」は一続きであり、かつ更新されていく。天皇が血筋の上で系統立てられるのは、正確には律令制以降のことであり、日継ぎを受ければよいのであって、万世は一系の擬似血族であればよかった。聖なるものは王その人ではなく、継続すると信ずる天皇霊であった。天皇の魂の容器である玉体に当然のことながら生死があっても、天皇霊は終始不変、常に古く、常にあらたまるものであると考えられた。政権は移ろうとも土地の魂は継続するのである。(『三輪山伝承』山中智恵子著)

あるいはまた、御動座祭を受胎儀式と考え、翌日の荒神輿の神事をニギハヤヒの生誕(國造神主の蘇り)を祝うと考えることもできるのではないか。さらにいうなら、村の始めにさかのぼれば、村人全てが祭りの日の神であり、男は大物主大神であり、女は百襲姫だった。こう考えると、冒頭のお渡りの神事を顕斎とする神社の公式見解とも合致してくるのである。したがってこの祭事に限り、國津比古命神社宮司は、祝詞奏上の中で「風早國造神主 物部朝臣忠衡」と古式にのっとり官姓名を告げるのもまた頷けるのである。関連して、先述の松前健氏はその著「日本神話と古代信仰」のなかでこう語る。

「(出雲國造、大三島大祝や諏訪大祝のように)諸国の國造といわれるような土豪の中には、[中略]天皇と同じような(あき)(かみ)で、伝世の呪文をレガリア(王位を象徴する神器)として持ち伝えて、王権的な祭式を行っていたらしいのです。」と。

さらに先年薨去された第八十二代出雲國造千家尊統さんは名著『出雲大社』のなかで、古伝新嘗祭(にいなめさい)(宮中では旧暦十一月二十三日)の意義について、
「國造の霊威が冬も近づき陽光も衰えるにつれて、減退するのを、神との相嘗(あいなめ)の祭りによって、新しく活発な生命力に満ちた神の霊威を身につけ、こうして新しい年のはたらきが保証され約束されるという、いわば出雲國造の霊威を復活するための祭りであり、また出雲國造が天穂日命(あめのほひのみこと)となり、さらには祭神大國主命(おおくにぬしのみこと)となるための祭りである」と述べている。まさに先の風早國造の場合も構図が同様であり、卓見である。「神火・神水の儀」によって聖化された國造の霊威(カリスマ)とその心身とを年ごとに更新するために、稲の稔りの祭りに際して、聖なる新穀をもって同様な行事を反復する、これが古伝新嘗祭なのだ、ともいう。新嘗祭とその付属儀礼としての鎮魂祭(ちんこんさい)、國造の世継ぎ(日嗣)式(天皇の踐祚大嘗祭)いずれも、天皇や國造が神と一体になるための一種の聖化儀礼と言えるだろう。皇居で行われる鎮魂祭は仲冬十一月中寅日を選んで行われた。これは天皇の魂振りの儀で、物の精気の沈む冬の御魂を揺さぶり、國津神の魂をつけよき霊魂の霊威をさらに殖やし、たちかえる春に備える生ける魂の復活儀礼である。  神話の天窟戸隠(あまのいわとかく)れは、この儀式の説明のために創作されたことは周知の説であるが、この祭りはおそらく天皇家だけではなく、そのみなもとは悠かにどこの村国でも、首長の為に行われていた冬至祭が、天皇家に吸収され典礼化して洗練されたものである。儀式としての記録は天武紀十四年十一月丙寅(六八五)の「天皇のために招魂(みたまふり)しき」が初出である。茅も邪気を祓う草であり、『日本書紀』では天窟戸隠(あまのいわとかく)れの矛は茅纒(ちまき)だった。大神神社の摂社式内社の綱越神社では、六月祓(みなづきばらい)の意義を持つ七月三十日の「おんばら祭」に、茅で作った輪くぐりをする、魂の更新行事が行われるが、風早宮大氏神でも七月三十一日に輪越し(夏越祭)として夏の風物詩が毎年実施されている共通項もまた興味深い。

☆大神神社摂社 綱越神社(おんばらさん)
 御祭神 祓戸大神(はらえどのおおかみ) 例祭 七月三十一日
 大神神社の参道入口に位置し「祓戸の大神」を祀る延喜式内社であります。
 夏越の社とも言われ、旧六月晦日の大祓、「夏越祓」が厳粛に行われる古社として広く世に知られ、社名の綱越は、夏越から転訛したといわれます。
 本社のもっとも大切な「卯の日の神事」、つまり大神祭の奉仕に先立ち、その前日に神主以下奉仕員が三輪川での「垢離取り」の後、当社において祓の儀を受けて、はじめて本社の神事にたずさわることができました。  現在は七月三十、三十一日の両日、御祓祭(おんばらまつり)が盛大に執り行われ、特設の茅輪をくぐり無病息災を祈る人々で賑わいます。

天皇の持つ宗教的権威は、天皇家の斎き祀る神々がほかの神々よりも強力であるとされたこと、および天皇家がその威力ある神々の子孫とされたことにある。これは祭祀と政治と軍事が不可分であった古代においては、実に大きな意味を持っていた。記紀神話を見る限り、天皇家は祖先神の助けなくして天下を治めることはできなかった。神話世界だけでなく現実においても、皇位を保証する三種の神器の確立は、支配者としての王権を補強するものと見られていたように、祭祀権の確立と王権の確立は同一貨幣の表裏だったのである。