風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第一章] 浄闇の御動座祭は鎮魂祭だ!

9. 本巻のむすび

平成十七年(2005)元日より郷土北条市は松山市に合併されその名を統合されることになった。

この風早地域が一大転換期を迎えたわけである。前途多難であろうが、悠久の歴史を有する風早人として、自覚と誇りを胸に環境に適応していかねばならない。構想十年、取材に回った神社は数多に登り先々の神職の方々にもお世話になった。一方特に著書より示唆を得た埼玉県在住の古代史作家・関裕二氏、愛知県にお住まいの小椋一葉氏、大阪府にあっては鳥越憲三郎教授(先年逝去)には直接お目にかかる機会を得、懇切に御教示を賜った事は、拙論を上梓するうえで、大いなる助力となったことを申し添え、この場を借りて深甚なる謝意を表すものである。さらに平成十九年春から夏にかけて、松山東雲女子大学エクステーションセンター主催の「愛媛の祭り文化を読み解く」の連続講座を受講する機会にも恵まれ、本稿のご批評にも預かった同短期大学教授の森正康教授にも厚くお礼申し上げたい。講座は終了したが、ご自身も神職であられるので、ともに愛媛県神社庁に身を置く者としても、さらなるご指導とご厚誼をお願いしたところである。

これは私の古代史研究の一里塚であるとともに、ささやかな閉市記念の産物でもある。まだまだ研究課題は山積している。遠くて高い「坂の上の雲」目指して精進をいたしたい。

機関紙初稿(「風早歴史文化研究会」発行の機関紙『風早』に2年にわたって連載した論考)のこととて、その記述意に満たず、行文推敲に欠けるところ多く、汗顔の至りに堪えないが、先学後学諸賢の寛恕と叱正を願うところである。

末筆ながら風早宮大氏神、ますますの御社頭隆盛を祈念して、拙詩を捧げる。

風早宮大氏神秋季大祭

郊田十里入秋晴     郊田十里(こうでんじゅうり)秋晴(しゅうせい)()り
鉦鼓鐘声箇箇軽     鉦鼓鐘声(しょうこしょうせい)箇箇軽(ここかろ)し
幾擲神輿奪神體     幾たびか神輿(しんよ)(なげう)って神体を奪い
恭祈皇祖一郷栄     (うやうや)しく皇祖(こうそ)に祈る一郷(いちごう)(さか)ゆるを
				

     

秋社(しゅうしゃ)

家家燈火夜来昌      家家(かか)の燈火夜来(やらい)(さか)んに
新調旗翻風早郷      新調の旗 翻る風早の郷
鼓聲鳴響天方暁      鼓聲鳴り響きて天(まさ)()け
帯日神輿舞鳳凰      日を帯びて神輿の鳳凰舞う
				

(注1) 風早宮大氏神(かざはやぐうおおうじがみ)―愛媛県松山市(旧北条市)風早平野のほぼ中央にある瓢山に向かい合って鎮座する県社・國津比古命神社(八反地甲一八五)と郷社・櫛玉比賣命神社(高田甲七〇四ノ一)の通俗的総称。古代風早国後の風早郡の総鎮守である。共に延喜式内社である。

(注2) 出雲國造(いずものくにのみやつこ)霊継(ひつぎ)―火は霊であり、出雲國造は熊野大社の神火を戴くことにより、はじめて神性國造として、その職を襲うことができる。熊野大神(スサノオ)のご神威に叶うことが最高の条件である。古来、出雲國造は連綿と代替わりのときに熊野大社へ参拝し、神器のヒキリウス・ヒキリキネで神聖な火を切り出して斎食を調製し、熊野大神と相嘗することにより、新國造・神性國造となる。

(注3) 延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)―延喜式とは藤原時平・忠平が延喜年間(901から922年)に醍醐天皇の命によって編纂された律令の施行細目。神社名巻九(神祇九)には朝廷に把握されていた神社名が列挙されている(これが神名帳)。つまり10世紀当時既に著名だった神社であり、平成の現在まで確実に千年以上経ているということである。全国に2861社 (3132座) あり、愛媛県内には当社を含めて二四社あります。