風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第三章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その1

7 別雷皇太神(わけいかづちすめらおおかみ)とは誰なのか

小椋一葉氏の知見によれば雷神(いかづちのかみ)とは須佐之男命であり、別雷神(わけいかづちのかみ)とは饒速日尊であるという。(親子関係)その決定的証拠とは静岡市七間町の別雷神社の記録である。

応神天皇四年の創建。古くは大歳御祖皇大神を祀ったという。その後大宝三年この地に発祥した安部の市の守護神となった。明治十七年郷社に列し、同三十九年別雷神社と改称した。

との内容であり、これにより別雷神は古くは大歳御祖皇大神と称されていたと言うのである。「大歳」とはニギハヤヒの別称であり、別雷の本社京都市北区上加茂本山町の賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)(官幣大社・名神大社)の御祭神はやはり饒速日尊だったのだ。

大野七三氏は「皇祖神饒速日大神の復権」の中で、

賀茂上・下社は賀茂氏によって創建された神社であるが鴨(甘茂、賀茂)氏の「カモ」は「神」の意とされる。『先代旧事本紀』「地神本紀」に[此大三輪大神なり。其の神の子、即ち甘茂君、大三輪君等是なり。]とあり賀茂氏と大三輪氏は同族であって、大三輪大神の神裔氏族であるという。古代神社の祭神は斎祀氏族が祖神を奉斎しているのが通例である。上賀茂神社の祭神賀茂別雷神とは賀茂氏の祖神でもある大神神社の祭神大物主大神、即ち皇祖神饒速日尊であると考えられるそのため崇神天皇の御代にご降臨鎮座と伝えられ、欽明天皇の御代より皇室の御尊崇厚く、桓武天皇も平安京鎮護の神と崇められ、朝野の尊崇が篤かったのであろう。

と述べられている。

さらに話は展開する。何気に「愛媛県神社詞」を紐解いていると松山市中島町吉木に鎮座する五十鈴神社の社記に大変興味深い記述を発見した。

当社は神亀元年10月12日の創祀で、伊勢の内外両宮を勧請し奉斎する。承保3年藤原親朝が神殿を改築し、以来忽那氏、河野氏の崇敬篤く、寿永2年和気姫命を勧請し、春日神を合祀したので、ここに忽那、河野、藤原、和気等の諸氏の信仰厚く、文永・弘安の両役後に河野通村、通綱が神領を寄進、延元4年興国3年には征西将軍が願文を奉った。明徳3年6月には河野通能神領を奉献する。中古にては社号を天照両皇太神宮と称したが、明治3年五十鈴神社と改めた。同4年11月に村社に列格、同41年7月神饌幣帛料供進の指定を受ける。

この神社の主祭神として、伊勢神宮内外宮を勧請したとする神名が天照皇太神、別雷皇太神と標記されていたのである。これすなわち伊勢神宮外宮の御祭神は豊受皇大神とされているが、本来は別雷皇大神=饒速日尊だということをはっきりとさせた社記であり、奈良時代に伊勢神宮が創建される前に地主神として太陽神が祀られており、それは外宮の複数の謎の祭神の中にあるとされてきたが、まさしく伊勢神宮内宮に本来祭祀されるべき主祭神こそは饒速日尊であり、今日内宮の皇祖神・太陽神・女王天照皇大神と外宮の幽神として祀られる男王・別雷皇大神(饒速日尊)という風に、主客転倒の現状にあるのがはっきりした。