風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第三章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その1

4 「勝てば官軍、負ければ賊軍」式 呪縛からの解放

私は(先の大戦)敗戦後遺症として、記紀の神話をばかばかしい作り話と簡単に決め付け排除し、反対に『魏志』倭人伝など外国文献中の蔑称「卑弥呼」「卑弥弓呼」「倭人」「倭国」をもって、自国史の開幕を告げる歴史を常道とする古代史家の立場もとらない。ここには、目に見えるものだけを信じる知性の衰弱がある。考古学時代と封印して省みなかった日本建国史について、記紀をはじめとするさまざまな文献に再び光を当てるべきである。ただしかし洋の東西を問わず、官撰の歴史書というものは、勝者の歴史観で貫かれており、したがって記紀の編纂目的(偏狭な皇国史観と皇后家としての盤石な藤原政権の確立)に沿わない事柄については、歴史改竄や改変を被った可能性が大いにある。勝者の歴史とは常に欺瞞と真相の抹殺があるから、偽書扱いをされている敗者の主張から、その意味を汲み取る必要がある。

例えば幕末の動乱から明治維新にかけて、討幕派も佐幕派もともに尊皇派であった。それが、幼帝を掌中に擁し奉った薩摩・長州が官軍となり、たまたま時勢の成り行き上で、大政奉還し辞官納地までした明治維新最大の功労者、徳川慶喜及び徳川家、さらには、東照大権現・徳川家康の異父弟松平定勝を藩祖とする伊予松山藩など親戚筋や会津・長岡・米沢・仙台など東北奥羽越列藩も禁門の変や長州征伐に加担したことをなど咎められ、賊軍の汚名を一時的に被った。直ちに朝廷より「松山藩追討令」が発せられ、参内禁止、江戸藩邸並びに大阪屋敷を接収。更に定昭は官位を剥奪された(明治二年従五位に叙任、明治十七年伯爵となり華族に列す。現当主久松定成氏は天皇家と姻戚関係にあり、折に触れて皇居に参内しておられる)。これにより松山城は明治元年、土佐藩に接収され城下は占領された。一方北条に長州藩が上陸、また隣藩は朝旨を奉じ、宇和島・大洲両藩が郡中に進駐、新谷藩は立花口と三津浜の守衛を任じられるなど「忠臣蔵の赤穂城断絶」を思わせる城下の有様だった。ことに長州藩は第二次征伐を受けて以来、松山藩に仇怨著しく、家中の出方次第で、その存亡に関わる危機に見舞われたのは、つい百三十八年前のことである。松山市民はいち早く恭順したので、城下が火の海になることもなく、長州への恨みもないが、今でも会津市民の長州に対するわだかまりは現実にあると、友人の会津人から伺ったことがある。それだけ「白虎隊の悲劇」はもとより、会津戦争で辛酸を嘗めさせられたということであろう。松山藩においては当初、恭順か開戦か反論は二分したものの、養父勝成の説得や山崎闇斎派の学者三上是庵の献策により、ついに無血開城と決した。この結果、第十四代藩主久松伊予守定昭[二代松山藩知事](大政奉還直前一月老中を務めた)は祝谷・常信寺に蟄居謹慎、養父の第十三代藩主久松隠岐守勝成[初代松山藩知事]に本領を安堵した上、軍費十五万両という莫大な賠償金を朝廷に納めさせられて、ようやく朝敵の汚名が返上されたのである。(領民の赦免嘆願もあった)同じ親藩である会津藩とは好対照の選択であった。(私個人は会津のぶれない武士道にも惹かれるが。)平成十九年十月十七日夜NHKの人気番組『その時歴史が動いた』では「会津中将・松平容保」を軸に会津戦争を特集していたが、それによると、容保は戊辰戦争に敗れ、鶴ヶ城に帰郷後、新政府に対し恭順の意を示したにもかかわらず、先方の回答は①容保の斬首②官位の返還③領地の没収という到底会津藩が飲めないものであった。あえてそうした薩長のえげつなさが透けて見える。市街戦まで突入し青壮老の男子がもとより数多の婦女子が自決戦没した代償は余りにも大きく悲劇としか言いようがないが、あの時点で唯々諾々と新政府の回答を了とはできなかったであろう(義に殉じて不義に生きず)。家訓に謳い、ひとえに徳川宗家に忠勤を尽くした会津藩を私は高く評価するし、本来一番に宗家の楯にならねばならない徳川御三家の軟弱な処世術にくらべ、勝算の無い会津藩を助けた近隣諸藩の盟約たるや賞賛に値する武士道である。容保は幸いにも新政府に降伏後、名誉回復がなされ正三位を叙せられ晩年を東京で過ごした。逝去される間際まで孝明天皇の御辰翰(感状)を肌身離さなかったという。墓地は会津若松市にあるそうだ。孝明天皇は殊の外、京都守護職の容保を重用されていた。(陣羽織も下賜)陛下が急逝されなければ、明治維新も急進派の薩長藩閥ではなく、坂本竜馬の志向した徳川家を主軸とする穏健な雄藩連合による合議政体に成っていたであろうに。

翌日平成十九年十月十八日の産経新聞『ふるさと歳時記』では、毎年十月二十二日に開催される「時代祭り」を報じ、季節物のベタ記事の扱いだが特記事項があった。ようやく今年から意図的にはずされていた「室町期」が約二千人に及ぶ時代行列に参加を許されるというもの。建武新政に背いた足利時代はそぐわない(「賊軍」のレッテル貼り)という理由から百十三年間も京都三大祭と冠され、日本の代表的祭礼である御行列から排除・差別されてきたのである。これには国内外の有識者からの長年にわたる是正勧告があったと聞くが、平安神宮をはじめ関係者の決断は余りに遅きに失したといわざるを得ない。今尚信仰上・祭祀の理由からお山に女人を禁制している神山が、とかくマスコミを賑わせるが、ことの軽重を見極めなければならない。こういった頑なな態度・文化こそが、私が「偏狭な皇国史観」と呼ぶゆえんである。

歴史は勝者が作る。勝てば官軍。これは、悲しいかな冷厳たる歴史的事象の鉄則である。少々古代史から横道にそれたが、そう遠くない昔日、名門久松家でさえ意に反して朝敵とならざるを得なかった過酷な時代を地元民として肝に銘じる必要ありと思い、敢えて記した次第。ついでといっては何だが、私は一応漢詩もするので、この辺り「賊軍」の名を一時的に着せられた東北諸藩(奥羽越列藩同盟)にまつわる漢詩二題を紹介しよう。

河井蒼龍窟(かわいそうりゅうくつ)
三島中洲(みしまちゅうしゅう)

王臣何敢敵王師
呼賊呼忠彼一時
惜矣東洋多事日
黄泉難起大男兒

王臣(おうしん) (なん)()へて  王師(おうし)に (てき)せん
賊と呼び 忠と呼ぶ  彼も一時(ひととき)
惜しむべし 東洋多事(とうようたじ)()
黄泉(こうせん) 起こし(おこしがた)し  大男兒(だいだんじ)

(大意)我が日本は普天(大地をあまねく覆っている広大な天)のもと率土の浜(陸地と海との接する果て。国土)、みな王土であり、王臣であって、天子に異心をさしはさむ者などありはしない。だから、賊軍といい、官軍といっても一時のめぐり合わせ方便に過ぎない。顧みれば昨今は東亜の空に暗雲みなぎり、国歩艱難である。まさに旧友継之助(越後長岡藩の上席家老。戊辰戦争・北越戦争において一藩の運命を双肩に担い、その好まざる戦争で散華した悲運の英傑。)のような大男児を必要とするが、惜しいかな彼は黄泉の人。もはや起こし登用することができない。蒼龍窟とは継之助の雅号。

看月有感
菅実秀(すげさねひで) 作

誰識艱難迫此身
朝呼乱族夕痴人
是耶非果而天矣
仰見碧空月復新

月を()て感有り
(たれ)()らん艱難(かんなん)此の身に迫らんとは
(あした)には乱族と呼ばれ(ゆうべ)には痴人
是か非か果たして天か
仰ぎ見れば碧空 月また新たなり

(大意)最もひどい荒廃の地に庄内藩の移封の朝命が下されようとは、誰が予想したであろうか。誠意を尽くして嘆願しても乱族として罵られ、患者の戯言と嘲られるだけであった。一体これが天意(叡慮)というものだろうか。(幼帝取り巻きの佞臣(ねいしん)ども讒言ではないのか)公明正大な天道に即した政治であろうか。痛憤の極みであるが、今青空にかかっている新月を仰いだとき、よく捨て身になってかかればと豁然とした境地になり、勇猛心が沸いてくるのである。

(背景)出羽国庄内藩・酒井 忠宝(さかい ただみち)の官軍に楯突いた代償は大きく、結果、国替えとなった。陸奥国磐城平(福島県いわき市)への移転は二ヶ月以内に完了せよとの新政府からの命令で庄内藩士は泣く泣く準備に取り掛かったが、まもなく移転中止、庄内復帰の命が下った。やはり嘆願は無駄ではなかった。移転の代償として七十万両を新政府に献金し、庄内藩中老の地位にあった菅実秀ら幹部はこれより本格的な復興に取り組み、荒地を起こし、産業を興すのである。

だからこそ、これに抗して真実の歴史を検証するためには考古学の成果や記紀成立以前の神社の歴史や伝承(神社伝承学)、民俗や芸能(歌謡)等を加味しながら、総合的な考察が必要なのである。

このような考えのもと、重ねて『日本書紀』が女性とする太陽神・天照大神についても、私は首をかしげるのだ。考古学的にも女性祭司や巫女王の墓は多くない。卑弥呼や台与のように女性祭司が王でもあり権力者でもあったというのは、むしろ特殊なケースであったと橿原考古学研究所の寺澤薫氏も『王権誕生』で述べている。