風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第三章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その1

6 大山積皇大神(おおやまづみすめらおおかみ)とは誰なのか

さて私は先号で大山祇神社文書の「三島宮社記」から遠土宮(とおつちのみや)が、他ならぬ国津比古命神社であることをご紹介した。一方はからずも同じ号で、合田氏は「三島宮御鎮座本縁」を引用され「二名国分彦命(ふたなのくにわけひこみこと)」と「風早国分彦命(かざはやのくにわけひこのみこと)」が同一人物であることを指摘された。ちなみに当時使用の「分」や「別」はともにワケと読み、一般的に皇族や皇別氏出身の者が地方官として各地に下り、地名と結びついて「○●分」と称しているケースは多く、まさに好例である。

その文書の中に小千命(おちのみこと)の父である孝霊天皇の皇子彦狭男命(おうじひこさおのみこと)(彦狭島王(ひこさしまおう)・彦五十狭芹彦命(ヒコイソサセリヒコノミコト)、比古伊佐勢理毘古命、大吉備津彦命)が、遠土宮で、大山積皇大神(以下『オオヤマツミ』と表記す)を祝祭(まつ)り給ふ時に、二名国分彦命(ニギハヤヒ)に逢ったとのくだりがある。また大山祇神社文書の「三島宮社記」の序(崇神天皇時代)にも同様の記載がある。

今や叛する者ことごとく誅に伏し畿内事無し。唯海外荒俗の動き未だ止まらず。それ四道将軍等今忽ち発せよ。彦五十狭芹彦命は路を発して吉備国に到り、尽く西国の荒戎を誅す。また舟を帥して吉備の小島を発す。彦五十狭芹彦命は地形の嶮易(けんえき)を巡視して、命に逆らう者は誅し、帰順する者は褒美を加う。時に一老翁来たりてその前に詣ず。大山祇の裔、風速國別彦。天皇の御子三島の大神を祀りてこの國を治めんとす、と。臣に家には(あめ)瓊矛(たまほこ)(イザナギが、天の浮橋より天の瓊矛で潮をかき廻して日本列島を創生したと伝わる)を蔵して伝うを以てこれを進め参らせんと欲す。由って國別彦を導入として瀬戸の浦に渡り三島の大神を敬祭す。然る後に風速の浦に渡りて宮室を建て留住す。旦夕大神を敬祭し遂に國別彦の女和気姫をめとりて妃となし、小千命を生む

これを信ずるならば、原初風早宮大氏神では、オオヤマツミを奉斎していたことになる。神統譜からいっても、なんら違和感のない神だ。なぜなら小千命は神饒速日尊(にぎはやひのみこと)の六代孫の物部大小連を祖とすることが、「天孫本紀」やや「新撰姓氏録」左京神別に見えるからである。また「国造本紀」にも応神天皇の御世、高縄半島東部及び越智郡の島嶼部一帯の古代「小千国」の初代国造として物部連同祖大新河命孫子到命(おちのみこと)(小千御子(おちのみこ)・小千命)が任じられたとあるからだ。

ついでに先述の和気姫は船越和気比売(ふなこしわけひめ)神社(松山市由良町)の主祭神でこの島を興居島(ごごしま)というのは、越智御子を生んだ母御前がおわす島という意味から母子島(ぼこしま)と呼ばれていたためである。秋祭りでは船踊りが海上で奉納される。(愛媛県指定無形民俗文化財)

一方、河野家家譜「予章記」では

皇子、和気姫を娶り、三子を生み賜う。・・・棚無き小舟三艘に乗せて、海上に放ち奉る。

この和気姫とは、海童の女なり、三島大明神御天下以前に伊予の国和気郡沖ノ島へ下り給う、故に『母居島』(ぼいしま)と号す。この島にて三子生み給いて、先述の三艘の船に夫々、乗せて沖に放った。其の嫡子の御船は伊豆之国に着く・彼の所に大宅在り、ご成長有りける。即、大明神現われ、従一位諸山積大明神と申す也・ご本地は阿しゅく(梵語にて、門の中に人の三重ねの如き字体ですが、検索できず)如来伊豆歓喜国なるべし、其の孫大宅氏と云うなり。子孫多くして庵を並栖む故、この処を菴原(たくはら)と云う。

第二子の御船は中国吉備の山本に着く・備前小島(児島)也、其の所に家三つ在り養育奉り依りて其の子孫を三宅と云い児島と云う者此子孫也。

第三子の御船は伊予之国和気郡三津浦に着き給い即ち国主と奉り崇め(本家の頭)小千命御子(おちのみこ)と称す。

追記:三島大明神は天神第六代面足惶根尊(おもたるかしこぬのみこと)・・・面足尊は勢州多度御身体・・・三島は軻愚突知三段大山祗神にて天照皇太神宮ご尊父なり。

と記す。

さて、合田氏のおかげで二名国分彦命が風早国分彦命であったことを我々はすでに知っている。現実には風早国造系物部氏(風早氏)であろうが、首長霊継承儀式により、御祭神の饒速日尊(にぎはやひのみこと)と解することができる。だとするならば大山積皇大神とはいったい誰なのか。しかも風早国分彦命もまた元大山積の裔とまで言っているのである。

愛知県津島市に全国に三千余りあるという天王社の総本社、津島神社(式内社・国幣小社)がある。御祭神はスサノオで社伝によると弘仁元(八一〇)年正月、嵯峨天皇から

素尊(すさのおのみこと)は則ち皇国(こうこく)本主(ほんしゅ)なり、故に日本の総社(そうじゃ)と崇め給いしなり」と称され「日本総社」の号を奉られている。

そこで大山祇神社に戻ろう。言わずと知れたオオヤマツミを祀る全国一万一千社の総本社で社記によると

和多志大神(わたしのおおかみ)と称せられ、地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総氏神として、古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。大三島に鎮座されたのは、神武東征のみぎり、祭神の子孫が先駆者として伊予之二名洲に渡り、瀬戸内海の治安を司っていたとき、芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮座したことに始まる。」

とあり、伊予国一の宮の由緒ある古社だ。

この社記を尊重するならば、小千命は当初は伊予之二名洲に居たことになる。ならば風早宮大氏神は伊予国一の宮よりも古い歴史を持っていることになる。

「和多志大神」は「伊予国風土記」逸文に見え、仁徳天皇の御世に顕れ、百済国から渡来して津国(つのくに)御島(みしま)にいたとある。一方「大三島記文」には天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)が日向高千穂宮にいたときの国津神で、美形の息女、木花開耶姫(このはなさくやひめ)を献じ、夫婦には彦火火出見尊(ひこほほでみみこと)ほか三皇子ができた。彦火火出見尊は豊玉姫を娶り、彦波瀲武?(ひこなぎさたけう)茅葺不合尊(がやふきあえずのみこと)を産む。尊は神武天皇の父君となるから、オオヤマツミは皇祖の外戚にあたるとする。

また神社創始の時期についても、先述のほか諸説があり、「大三島記文」には仁徳天皇の御世、乎知命(おちのみこと)が「迫戸浦遠土宮(せとうらのおちのみや)」に大山積を移祭したとあり、「大三島神社大祝家記(おおみしまじんじゃおおはうりかき)」によれば、景行天皇、大伴金持、仲哀天皇、舒明天皇、孝徳天皇、斉明天皇、中大兄皇子(天智天皇)がいずれも道後温泉への途上、当社への御親拝があったという。

さらに聖徳太子は推古天皇の摂政(五九三年)になると、全国的に寺社の造営を手がけたが、勅命により遠土宮も大造営に浴し、新たに「迫戸浦*殿宮」という。

また「伊予古蹟史」「三島宮社記」は大宝年間(七〇一~四)に宇摩郡大領越智玉純(おちたまずみ)が神託によって奏聞し、一六年の歳月をかけて霊亀二(七一六)年に現在地の大三島宮浦字榊山に社殿を完成。養老三(七一九)年四月二二日に遷宮したと伝える。

ここで二社のキーワードを対比してみたい。

「皇国の本主」とは「日本民族の総氏神」のことであり、「日本総社」とは「日本総鎮守」のことである。ここに大山積皇大神がスサノオであることを読み解くことができるのだ。扁額・日本総鎮守の由来は次のようなことがある。

太政大臣藤原実頼の孫佐理(すけまさ)は大三島付近を航行中、風波に船を(さえぎ)止められ、夢に現れた三島明神に請われるまま、翌朝、斎戒沐浴して船板に「日本総鎮守大山積大明神」と雄渾にしたためて奉納した。風は止み船は順調に運んだ。都に帰った佐理が事の次第を天皇に上奏すると、天皇からは改めて「日本総鎮守」の名号を賜り、以後佐理の書名もますます上がったという。(「大三島記」「三島宮御鎮座本縁」)後に空海らと共に三筆・三蹟の一人となる藤原佐理の扁額は今日まで原形を保って保管され、国重文に指定されている。

さらに松山市の勝岡町には秋祭りの松山市指定無形文化財「一体走り」で有名な郷社・勝岡八幡神社(社家は親友の武智国吏氏)があり御祭神は初代国造小千御子(おちのみこ)である。記録によると

「応神天皇の時代小千国造に任じられた。たまたま堀江方面から大変強い勢力のある兇賊が来襲して善良な庶民をいじめたため、小千御子は早速勝岡にあった白人(うらど)の城に拠って、強賊を平定した。また庶民に人孝を施した。この功により小千御子は朝廷より恩賞を賜り、勝ち戦にあやかりこの地を「勝岡」と改めた。後に御子を敬慕する氏子により和気郡大山寺字小山の中野山に奉斎し「白人宮(うらどのみや)」と称した。また賊を平定した八月七日を祭日に定めて祭りを始めた。だが後花園天皇の永享年間に戦火に遭ったため、霊験あらたかな白人城跡地に遷宮し、宇佐八幡も勧請して名も勝岡八幡大神となった」とある。

また初代小千国造は今治市大浜に拠点を置き、開拓支配した。ここには九代後の乎致(おち)高縄が祖神を祭る一社を建立している。大浜八幡神社である。御祭神は饒速日尊、妃の天道日女命(あめのみちひめのみこと)とともに小千御子が「乎知命(おちのみこと)」として一緒に祀られている。もちろんこの小千御子とは大山 神社を創始した「オオヤマツミの子孫の小千命」の末裔であり、ニギハヤヒの子孫でもある。

一般にニギハヤヒはアマテラスの長男天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)(以下『アメノオシホミミノミコト』と表記す)の長男で天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)の兄神とされるが、社伝承学では、スサノオとニギハヤヒは親子関係(第五子)にあったとされているから、冒頭の文書で孝霊天皇と皇后細姫(くわしひめ)の第二皇子彦狭男命(伊予皇子・彦狭島王)が、風早国分彦命とともに遠土宮(風早宮大氏神)で大山積皇大神を共に祀ったというエピソードは越智氏と物部氏が同族であり、両家が小千国造と風早国造として高縄半島を領有していたことを物語っている。

ちなみに伊予国の「伊予」とは彦狭島王(伊予皇子)に対して伊予(かれにあづくる)(与)の詔勅があったためと伝わる。