風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第三章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その1

2 祭りを受け継ぐということ

私は先にも触れたが、平成七年から地元行政区をはじめ、氏子崇敬者各位の推挙・承認を得て宗教法人松尾神社の責任役員を仰せつかっている。浅学菲才の身で、責任役員とは恐懼(きょうく)の極みであるが、特に当時の区長から「責任役員六名の内一名は後継者養成と組織の活性化のため若手を起用したい」とたっての意向であり、義侠心から就任を決意した次第である。余談であるが、こんな物好きは全国的に居ないらしく最年少らしい。光栄では有るが、気恥ずかしさも有る。

旧北条市民であれば左程珍しくもないのだが、お祭り好きである。先述のオリンピックも「スポーツの祭典」。今年ドイツで開催されるサッカーのワールドカップも「世界の祝祭」と称される如く、一種の祭りである。ギリシャ・ローマの彫刻を見るように人類が自然界で発見した最も美しいものの姿は、人間自身なのであろう。肉体と肉体をぶつけ合う競技・格闘技のようなものの中に、勇気や感動を体感し、見る喜びを感じてきた。一定のルールの下、大勢が技を競い合うのも面白い。自分も一緒に参加体験できれば、もっと大きな楽しみとなるだろう。文学・芸能・スポーツには、都市化や高度情報化社会の進展、自己中心主義の蔓延など世知辛い世の中にあって、人間性を再生復活させる働きがある。

石原伸太郎東京都知事は平成十八年の年頭に当たっての産経新聞に寄せた所感の中で、

「この国はタガが緩んできた。かつて大方の日本人が持ちそなえていた『心意気』とか『こころざし』といった、自己抑制に発した献身とか自己犠牲という暗黙の責任履行と、それへの信頼の喪失である。代わりに跋扈しつつあるものは保身につながる『その場主義』で(中略)自分一人が馬鹿を見るよりもという選択を促す風土が刻一刻と造成されつつあるこの国の現状を克服するために(中略)われわれがかつて先祖の持ち合わせていた武士たちのような心意気を持ち直すことができるなら、この国は必ずや国家としての存在感を取り戻せるに違いない」

と内から溶解する日本の病巣と処方箋を抉り出している。

私は本節の表題に掲げた「祭りを受け継ぐということ」は、すなわち「かつて先祖の持ち合わせていた武士たちのような心意気を持ち直すこと」だと思うのだ。風早には幸い悠久の歴史と神人一体で支えてきた伝統文化が継承されてきている。その最たるものが『祭り』であろう。人間が発見した神々の意志に叶うため、自ら考案した行動体系である。それは最も服従的であるとともに敬虔であり、自力では叶わぬ願望が、間違いなく達成されると期待した行動が結集している。そのため全国津々浦々どこの祭りに行っても、ひとが輝きまちが輝く様を見て取ることが出来る。

本年(平成十八年)元日の読売新聞第七部には「季節感古都に息づく」との見出しで、澤田ふじ子氏の文章が目に留まった。要約して紹介する。

京都は正月三が日で四〇〇万、年間では四五〇〇万人の人々が訪れる。人口は一五〇万だから、三〇倍もの人々の来訪を受けていることになる。なぜこれだけの人々が京都を目指すのか。氏はそれを季節感に裏打ちされた風土が脈々と根付いているからとする。だがどこでも季節の変わり目はあるはず。失われたのは季節ではなく、それを受け止める人々の感性や、折々の食物や行事といった風物の方だと氏は言われるのである。確かに我々の日常生活を見渡すと、野菜は年中同じ品が店頭に並び、いつが旬か分からぬ有様。桜もちが七月まで売られ、秋刀魚が真冬に出回っている。日本各地で子どもが減り祭りは中止や縮小を余儀なくされ、神社へは初詣のみの世帯も多いのではないか。四季は巡っても生活がこれでは、季節の微妙な推移など感じられるはずがないというものである。けだし漠然と眺めているだけでは、季節は移ろうばかり。時候を計るもう一つの暦というべき存在が、折々の行事や食物のはずだ。「あぁ、もうマッタケが並ぶ時期なんやなあ」と店先で感じ、祭り囃子に秋の深まりを知る。本来の日本人の生活は過ぎ行く季節に合致した風物詩で彩られていたはずである。我々は髭を切られた猫のごとく、便利で快適な生活を手に入れた反面、季節のこまやかさを感知できないでいるのではないか。

京都には実に多くの行事がある。自然が多いだけでは無理。行事と食物が守られているからこそ、こんな季節なのかと感じられる。京都は長い歴史によって磨きあげられた非常に緻密で美しい暦を多彩に持つ町。観光客の増加は、失われつつある行事や食物の暦がここにはまだあるのかもしれない

と述べられている。風早もかくありたいものだ。

風早の祭礼文化として具体的に見てみよう。まずその土地ならではの旬の味覚を豪勢に盛ったバラ寿司、鯛めしや渡り蟹などの「祭り料理」があり、「祭り人」とでも言おうか―かっこいい晴れ着装束に身を清めた若衆や、エプロン姿で賄いをする奥さん、着飾った女性・子供たちに出会う。また、稲穂を背に祭幟(さいし)(三津の幟屋に聞いたのだが、風早地方の幟には神社名のほか、漢文の一節を入れるのが特徴という)が翩翻(へんぽん)とする様や秋風に揺れる家並みの御神燈。渡御道を飾る真新しい御幣・注連縄などに見られるのが「祭りの原風景」。そして何と言っても風早の火事祭(かざはやのひのことまつり)の異名を取るだけに、鉦鼓・鐘声の醸し出す音と縄文的リズムに体躯が自然と「祭りモード」に入っている自分に気づく。「祭り花」とも名付けたい桂花(きんもくせい)(金木犀)の芳しい香りと身の引き締まる「祭り風(金風)」で我々は自ずと祭りの到来を知るのである。また祭りが明けると、かき夫達は、夜毎祭りのビデオを肴に朋友と後祝いの酒盛りを重ね、夜中には踏み切りの警告音が寄せ鐘に聞こえ『また一年か‥』と心空しくするのである。

母校正岡小学校では「秋晴れ写生会」が催され、決まって「秋祭り」が画材であった。

このように風早は、貴重な食文化や原風景が息づく町として、京都のようにいずれ世に出るときが来るかもしれない。その要素はあるのだから。したが、どれほど周囲から注目を集めようと、誇りを内に秘めて祭りに愚直なまでに奉仕してきた風早の人々の行き方を見失ってはいけない。先年、西条祭りを加茂川に見物に行った時、ある頭取が言われた言葉が印象に残っている。

「マスコミの報道で全国に祭りが有名になり、訪れる方々も増えました。しかし昔も今も私らは、伊曽乃神社(国幣中社)に奉仕することへの軸足は変わらんのです。失礼ですが、観光客のためにやっているのではありません」これが真の祭り人の姿勢だと思った。

対してカメラマンの祭礼取材の姿勢としてはどうか。平成十九年十月十九日産経新聞「ふるさと歳時記」では鞍馬の火祭が取り上げられ、毎年火祭りを取材しているカメラマンの奥山浩史氏は

〈勇壮さが魅力だが、里の人の準備と情熱があってこその祭りということを忘れてはならない〉

と現地住民主体の祭礼であり、地域が支えてきた祭り取材への配慮をにじませる。

年に一度風早が熱くなる(とき)、それは郷土風早にアイデンティティがあることの確認であり、氏子各位が意識するとの有無にかかわらず、風早国の創始者たる物部氏末裔としての自覚と誇りを体感する祝祭でもあろう。

年に一度の大祭とはいえ、早いところは前年の祭り終了後から翌年の準備を始めるという。まして社殿や神輿、屋台(だんじり)の新築・新調ともなれば意匠や資金集めには多額の浄財と時間を要することになる。我が中西外区においても、目下、松尾大屋台の新調を目指して、区長以下関係者が英知を絞っている。(平成二十年秋完成)

さて、ようやく氏子の念願かなって五年前から十月の三連休を祭礼日に変更したが、公私の日程調整をして祭りに献身的に奉仕する、伝統を継承していく姿こそは、麗しく日本人の美風であろう。ちなみに松山市との合併を機に松山地方祭として十月五日から七日へ再変更をしないのか、とごく少数の声も聞くが、当時の審議の推移を知る者として言わせていただくならば、これはしてはならないし、全くする必要が無いことである。北条市神社界始まって以来の大論争の末に決着した現行の新規祭礼日は、早晩締結されるであろう松山市との行政体の合併をも考慮に入れたうえで、慎重に審議決定されたものである。それは合併後も松山地方祭に加わらないということ、毎年体育の日を含む三連休に行うということである。もちろん平成十八、十九年度のように数年に一回はやむを得ず同時開催年があるのは致し方ない。風早国の成り立ちや変遷に想いをいたした時に、例え統治行政機構は松山市に併呑されても、祭礼文化だけは風早の独自性を発信・発揮できる最後の砦であり、そういった面からも今後ともに独自路線を堅持すべきであると考える。

伝統文化を受け継ぐにはリーダーをはじめ関係各位の強固な意志と、物心両面の氏子の協力が必要だ。祭り処の旧北条市とはいえ、価値観が多様化し、神社神道のもといを成す敬神崇祖や自然崇拝の念が希薄化してきているのもまた事実。新規に事を起こそうとすると政教分離や信教の自由など横槍が入り、挫折やくじけかかったりすることも茶飯事である。しかし神々の加護あって豊年豊漁に恵まれたと謙虚に思いをいたし、ひとたび無事に祭りを終えれば、人々は神の恵みに感謝し、再び次の祭りを盛大にしようと誓うのである。しかも祭りを支える人々の間には協力関係が結ばれ、村落共同体が活性化すれば大変な収穫である。

和歌山県出身の生物学者、民俗学者の南方熊楠(みなかたくまぐす)は、明治期国家管理のために各所に散在する神社を合併する合祀政策に反対し、新聞などでその論陣をリードした。彼は神社が合祀されると元あった神域や杜が伐採荒廃すること、キリスト教のような絶対神として道徳律に君臨する宗教を持たない、多神教の日本人の道徳(敬いや慎み)の源泉は各地に偏在する村社や路傍の小祠であるとし、《風儀の破壊》であると洞察した。何があるのかわからなくてもありがたさに涙する存在が日本の神々であろう。

これについて熊楠研究の第一人者である和歌山工業高等専門学校名誉教授の吉川寿弘氏は

小さな動植物でも無くなったらそれだけでは終わらず周囲に影響し、最終的には人間にも影響すると熊楠は考えていました。それだけではなく神社にまつわる民俗芸能やいろんな行事も神社が無くなれば消えてしまう、村落のつながりが消えてしまう、と懸念していたと思います。今はどうでしょう。例えば(水を司る)水神さんが昔は多く祭られていましたが、水道が普及して祀られなくなる。すると水を大切にしなくなって川などの水が汚くなる。あるいは山ノ神が大切にされなくなって、山が荒れる。今は自分だけが変に大事になってしまっているのでは。このままでは日本は大変なことになると、みんな思っていると思うのですが。‥

と、警鐘を鳴らす。自己中心社会、道徳崩壊の昨今、私たちが身近なところで本来の人間性を再生回復するパワースポットが、他ならぬ氏神様だと思うのである。

古代より風早に生きる先人たちは、これら営みをひたすら生真面目に繰り返してきた。今日国際化の時代を迎えている。自己にバックボーンがあってこそ真の国際人足り得るのだと思う。流暢な英語力ではない。郷土風早を語れ、日本の国柄を他に語れるだろうか。先人に学び直し、毅然・泰然と人と交わり世界に伍する姿勢を持ちたいものだ。