風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第三章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その1

3 伊勢神宮内宮の御祭神とその変遷

伊勢神宮とは(つと)に有名な(やしろ)であるので、今更説明を要する必要もないが、簡単に概略を記す。三重県伊勢市に鎮座する皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮(ないくう))と豊受大神宮(とようけたいじんぐう)(外宮(げくう))との総称で、伊勢大神宮、二所大神宮(にしょだいじんぐう)、単に大神宮などとも称してきた。俗には「お伊勢さま」で親しまれている。明治以降は「神宮」とのみ言えば、伊勢神宮を指すものとされる。皇室は申すにおよばず、広く一般の崇敬を受けてきた国民の総氏神たる位置にあり、また全国の神社の根源的な存在として仰がれることからも、特に本宗(ほんそう)と呼ばれる。

さて紙面の都合で今回絞って提起したいのは、皇大神宮(内宮)の方である。皇大神宮(内宮)は皇祖天照大御神(神宮では、天照坐皇大御神と称す『皇大神宮儀式帳』)を主祭神とする全国至上の神社で五十鈴川の川上、神路山の麓にある。昔は朝日宮、磯宮、あるいは宇治宮とも称した。

天照大御神との表記は『古事記』に見え、天照大神は『日本書紀』に多く使われている。さて読者の皆様は、天照大御神の性別はと、問われると何とお答えになるだろうか。おそらく大半の方が、女性と答えると思われる。事実『日本書紀』は、本文でも、二つの「一書(あるふみ)」でも、素佐之男尊(すさのおのみこと)(謚号(おくりな)神祖熊野大神櫛御気野尊(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと) 以下『スサノオ』と表記す)の「姉」と明記している。これも記紀が大いに疑わしいところ。また、天照大御神が斎服殿(いみはたどの)神衣(かむみそ)を織っていたことは『古事記』『日本書紀』(以下『記紀』と表記す)共に記すところである。倉田山にある神宮徴古館所蔵の「斎庭(ゆにわ)の稲穂」と題する絵画を見ても、天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)に稲穂を渡して、これを日本人の主食にしなさいと言われている姿は、白衣の女王姿に描かれている。ただ素人の私が以前から素朴に思うことは、太陽とは、常に光を与え続けるため性格は、“陽”であって、男性が本来であるはずなのに、太陽神が女性であることへの素朴な疑問である。また雄略天皇の時代には天照大神が、一人身で寂しいからと、丹後半島の土着の神である豊受大神を連れて来たという。神に神聖な食事を捧げることは、神道行事として理解できるが、なぜ女性の天照大神が一人身で寂しいと言う理由で、同性の豊受大神を外宮にお祀りしたのかということも腑に落ちない。そこで天照大神の性別について全国各地の実情を探ってみることにした。

奈良県長谷寺の本尊十一面観音像の右の脇士には雨宝童子立像があり、文字どおり、等身大の少年の表情をしている。そこには「天照皇太神」の扁額があるのだ。また、『源平盛衰記』に収められている説話にも、源中納言雅頼に仕える武士が見た夢に出てくる天照大御神は衣冠束帯に身を固めた貴人の男性として描かれているのである。さらに奈良県桜井市談山神社(たんざんじんじゃ)所蔵の室町時代に描かれた三十番神図に描かれた天照大御神も、烏帽子をかぶり狩衣姿で、(しゃく)を手にした姿をしている。これらのことからいえることは、長い豊かな髪をした女性としての天照大神は、実は近代に入ってから定着したとの見解もあり、それまでのイメージは実に多彩であったようだ。ついでに加筆するならば、天照大神への尊崇が神道の中心などと解説する本もあるが、それは王政復古した明治維新以後のことであって、事実は決してそうではない。全国に無数に鎮座まします神宮・大社・神社は高天原(たかまがはら)から神遂(かむやら)い(追放)されたというスサノオを族長神(神祖)とする葦原中国(あしはらのなかつくに)系の神々(八百万(やおよろず)の神々)が大半を占めるのである。

しかし律令制また明治維新による神道国教化政策の中で、支配する神が天津神であり、国津神はそれに支配される神だという図式を作って、天津神に背く神様は悪神だとする神祇政策が採られた。これにより国津神の総帥家たるスサノオ・ニギハヤヒ父子の相対的神位の低下と、日本創成期の立役者としての栄光の故事来歴がゆがめられることとなった。

『日本書紀』の神話のなかではじめ、天照大神は、大日霊女貴尊(おおひるめのむちのみこと)(謚号(おくりな)撞賢木厳御魂天疎向津比売尊(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと) 以下『(女王)アマテラス』と表記す)と言う名で登場してくる。「霊女」は「巫女」の意味であることから大日霊女貴尊は大日巫女尊と解せること(「貴」は尊称である。)、天照大神が「日巫女(ひのみこ)」ならこの神が邪馬台国の「卑弥呼」(この表記は中華思想に基づく周辺国を見下したもの)と同一ではないかと言う指摘は、今日よく知られるところである。とすると大日霊女貴尊はあくまで太陽神を祀る巫女であって、太陽神・天照大御神とは対極の存在であろう。折口信夫氏や岡田精司氏らは、伊勢の天照大神は本来男性太陽神であり、それがヒルメ=「太陽神の妻」としてそこに仕える斎宮の神格化に伴って、そのイメージを投影した女性神へと移行したとする有力な説も存在する。

また「古代日本と伊勢神宮」(新人物往来社)によると、第五章・伊勢神宮創始考には次のようなことが記されている。

「扶桑略記」(鎌倉時代)にも伊勢神宮の斎女が、夜な夜な川の主である蛇身と同衾(どうきん)したことを伝えている。また荒木田宮司家の伝承説話にも「皇太神宮の神様は、つまり天照大神は蛇で、斎王はその后である。だから天照大神は毎晩、斎宮のところに通婚されるのだ。そして斎宮の御襖(みふすま)の下には、朝になるときまって口縄(くちなわ)(南伊勢地方の方言、蛇、青大将のこと)のうろこが落ちている」という伝えがあるほどである。

伊勢神宮の御神体は神鏡・八咫鏡(やたのかがみ)であることから、蛇の頭部象徴としての物核(ものざね)(目)=神鏡(呪物)=伊勢皇大神の線が見出される。これについて吉野裕子氏は「蛇」のなかで、鏡(カガミ)は「蛇の(かかのめ)」つまり「カガメ」ではないか。と指摘し、①宝物としての希少性②円形で光り輝くもの③二重の輪で縁取られていること④鏡全体が丸みを帯びていること、などの特徴から鏡は蛇の模擬物としてのこの上ない諸条件を満たしているとみなされ、信仰の対象や至高の宝物にまで高められたとの見解を発表している。同感である。

先年探訪した奈良県田原本町に鎮座する鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)(名神大社・県社)の原正朝宮司に伺ったところによると、崇神が八咫鏡を宮殿から遷し、最終的に神宮に落ち着くことになった神鏡とは別に、当地に居住していた石凝姥命(いしこりどめのみこと)の子孫の鏡作師により、皇居内待所(ないしどころ)の神鏡として新たに鋳造し納めた。その時、試鋳された神鏡を天照国照彦火明命と称えお祀りしたのが当社の始まりとのことであった。ここで蛇の頭部象徴としての物核(ものざね)(目)=神鏡(呪物)=伊勢皇大神=天照国照彦火明命と、さらに図式がつながった。蛇足ながら、ただ今この拙稿執筆時、松の内であるので「鏡餅」について記す。これも神鏡を模したものとされ、稲魂(いなだま)が宿り、家庭において新年の豊作豊漁を祈願する対象とされた。稲は麦、黍、粟、豆と並ぶ五穀であり、農事が自然に左右された昔、実りへの祈願はさぞ真摯であったろう。食べるものが夜中でもコンビニで手軽に手に入り、医学の発達で生命も永らえるようになった現代人の感覚では、祈願への力の入れようが自ずと違うのも無理はないところか。神様の宿る神聖な食べ物なので、正月以外でも祭りのときは餅つきをしたのである。力餅といって、餅を食べると普段より力がでるとされてきた。

蛇は男性神としての天照大御神であり、とりもなおさず蛇こそは三輪明神(大神神社御祭神=ニギハヤヒ)の化身として信仰を今に集め、境内には「巳の神杉」があることなどを、私も本誌第五十三号で紹介したところである。今日、蛇は一般に疎ましいもの、忌み嫌われる生物だが、古代人はその瞬きをしない目の光(蛇の目)、脱皮を繰り返しての成長や、四肢がないなど無駄を削ぎ落とし、洗練された体躯に、若返りや死からの再生・神秘と考えられており、蛇には強い生命力、知識があると信じられていた。(「蛇信仰」)その畏敬の念は蛇を大地の神、水の神などとし、自然や生命を支えるものと深く結びつけた。新居浜の太鼓台を思い出していただきたい。最上部の金糸は一対の竜であり、四方のごぶちょい房は、豊かな水の恵みを具象化したものである。それは日本神話の中にもスサノオに退治された八俣大蛇(やまたのおろち)の尾から宝刀・天叢雲刀(あめのむらくものつるぎ)が出現(神刀が蛇の尾部象徴の物核(ものざね))し、皇統百二十五代を戴く今日まで鏡と並んで皇位象徴の神器となっていることからもわかる。また豊玉姫(とよたまひめ)は蛇体となって天津日高彦波瀲武?茅葺不合尊(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を生み、この皇子はその(おば)玉依姫(たまよりひめ)との間に神倭伊波礼比古尊(かむやまといはれいひこのみこと)(神武天皇)を設けることとなる。豊玉姫が竜蛇ならばその妹の玉依姫も竜蛇である。初代天皇とされる生母が竜蛇であることは女祖先神としての蛇を考えている思想の現われであって、これまた古代日本人の蛇神聖視を示しているわけである。

さらに三輪山(桜井市)は我が国最古の神聖な山であったが、その山の主が蛇であることは、前掲二者にも勝る蛇信仰の好例である。ここでは三輪山と蛇神にまつわる伝承を二題紹介する。

A 箸墓伝説(崇神紀)

倭迹迹日百襲姫(ヤマト・トト・ヒ・モモソ・ヒメ)という神がいた。彼女を卑弥呼に擬する人も多い。三輪山の神はであり、倭迹迹日百襲姫はこの神に仕える姫である。日本書紀崇神天皇条に、倭迹迹日百襲姫に纏わる次のような神婚伝承がある。
 倭迹迹日百襲姫は三輪の神、大物主の妻となったが、大物主神は夜しか訪問してこないため、姫にはその姿を見ることはできなかった。そこで、そのことを大物主に言うと大物主は、「明朝、櫛笥の中にいるが、姿を見ても驚くな」という。翌朝、姫が櫛笥を開けると、その中にいたのは、【衣紐/したひも】ほどの小さなであった。驚きの声を上げた姫に大物主は、たちまち人の姿に戻り、姫を恨んで「おまえにも恥をかかせてやる」といって、天空を踏み轟かせて三輪山へ帰ってしまった。
 姫は後悔して箸で陰部を突いて死んでしまった。そのため姫の墓は「箸墓」と呼ばれた。この墓は、昼は人が造り、夜は神が造ったという。大坂山の石を運んで造ったが、それは山から墓まで人々が立ち並び石を手から手へ渡して運んだ。

B 三輪山の蛇神の目の光(雄略紀)

日本書紀の雄略記に少子部連【栖軽/すがる】が雄略天皇に雷を捕らえて来いと命ぜられ三諸岳(三輪山)の神を捕らえて天皇に献上したが、「【雷兀虫兀虫/かみひかりひろめ】きて、【目精赫赫/まなこかがや】く」大蛇に畏れをなして、天皇は殿中に隠れてしまい、大蛇は元の山に放たれた、という話が載っている。ここでも、三輪神はでもあり雷神でもある、また大蛇と既に理解されていたことが分かる。

このお話は『日本霊異記』にも「雷を捉ふる縁」として載っている。大物主大神は見ることを試みられ、雷神としてその姿を現し、怒りをもって答えた。しかも神の来臨を待って試みられたのではなく、こちらから本拠の山へ登って捉えたというのは、崇神紀よりもさらに三輪の神が格下げされたということであり、しかも神を試みるものは、栖軽という小童神めいた蜂の名前を持つ男であり、巫女でも皇女でもなく、もはや説話Aのような婚姻をもってする対等の関係ではなく、三輪山の祭祀権が掌握されてからの話として書かれる。三輪山にまつわる神話では、『日本書紀』神代巻に「吾は日本国(やまとのくに)三諸山(みもろやま)に住まむと(おも)ふ」と書かれ、『古事記』の上巻には「吾をば(やまと)の青垣の東の山の上に伊都岐奉(いつきまつ)れ」と書かれ、三輪の神は、神の森といわれる樹木の生い茂った山に住まったことが知られる。このように三輪山の神というのは蛇の姿をしていて、同時に雷神であることが、『古事記』『日本書紀』に記述されていて、日本で最も古い形の神話を伝えた神社であることがいえる。いわば人格神以前のもの、例えば蛇とか雷とかが、人の形をして娘さんのところに現れる。ヤマトトトビモモソヒメの場合も。そういう精霊神から人格神への移り変わりの姿をよく伝えている。大神神社はそういう唯一の貴重な神社である。蛇信仰は現在も゛巳さま゛として生きており、参拝者が蛇に供えたお酒や生卵を境内のあちこちで見受けられる。

天照大神は皇祖神の性格の他に日神としての性格も持っている。それは記紀の神話からも分かるが、用明(ようめい)前紀や同年正月条にも、伊勢大神が日神と記されている。天照大御神が日神として信仰されたのは、古い起源を持つとすべきではなかろうか。また敏達(びたつ)紀六年二月条に「詔して日祀部・私部を置く」とあり、日祀部が見えるのは、皇室が日神を祀っていたことを示す。伊勢は大和から東方に当たるため、日神の霊地と考えられていたことが、伊勢の神が皇室の崇敬をえた原因と考えられる。直木孝次郎氏は皇室が東国との関係を密接化する時期を六世紀初頭以降とし、伊勢には本来地主神として、それ以前から地元漁民等(海民族)が祀る日の神(男神)があった(後述するがそれこそ外宮の幽祭神・別雷皇大神=ニギハヤヒである。)が、この地は大和においても東方に当たり日神の霊地と考えられ、一方皇祖神としての天照大神も日の神であることから、大和朝廷の東方発展に伴って伊勢の神(男神としての太陽神)と天照大神とが習合し大神の鎮まるところとなったとする。氏はその文献証拠として『皇大神宮儀式帳』には日祈内人と呼ばれるものがいることが記されていること、『延喜式』伊勢大神宮の項にも日祈内人や日祈巫女の名が見えることをあげている。祭儀というものは容易に変革されるべきものではないから、これら日祀の職は皇祖神との習合以前からの古い起源を有す、と考えられる、とするのである。

以上のことから整理すると、原初各地に異なる太陽信仰を持った氏族が列島には割拠していた。日神信仰は農耕社会たる古代日本では、最も普遍的な信仰であったに違いない。それは現代社会を生きる我々さえもが、新年の初日の出を拝み、手を合わす純朴な行為につながっていると思う。日本のまほろば大和の地では天照大御神は初め日神(男性太陽神)として信仰され、大和朝廷と密接な関係が生じたのは六世紀前半頃、更に皇室の唯一絶対神の地位に上ったのは、八世紀・記紀編纂前後とみる。『日本書紀』は都が平城京にあった西暦七二〇年に編纂された歴史書である。そしてこの時期に何らかの政治的思惑から皇祖神・天照大神を女神に()げ替える必要性があったのではないか。(持統天皇からの皇位継承)『日本書紀』が無理を承知で女性の太陽神をデッチあげてしまった可能性は強いと関裕二氏も著書『天皇家誕生の謎』に書かれているのだ。

★ 天皇霊の宿る神山・三輪山
―天皇家が恐れた三輪山の國津神・大物主大神―
① 初代神武天皇皇后は大物主大神の娘
   丹塗矢と交わった女

以下HP『天の浮橋(古事記中巻)』から関西風現代語訳で、その内容を引用させていただく。「神武記」

皇后

ところで、日向にいらっしゃったときに、阿多の小椅の君の妹で、名前は阿比良比売(あひらひめ)を嫁はんにしてお生みになった子は、多芸志美美(たぎしみみ)の命で、次は岐須美美(きすみみ)の命の二柱やった。せやけど、さらに皇后にする美人をお捜しになったときに、大久米(おおくめ)の命が申し上げたんや。

「乙女がおりまっせ。この乙女を神の御子ていうんですわ。その、神の御子ていうわけはですな、三嶋の湟咋(みぞくひ)の娘で名前は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)でして、それがごっつうべっぴんやったんで、三輪の大物主(おほものぬし)の神さんが心を奪われよって、その乙女が糞をするときに、赤く塗った矢になって、糞をする溝から流れてきて、乙女のそこを突いたんですわ。そしたら乙女は驚いて、飛びあがって身震いしましてん。そして、矢を持ってきて床の辺に置いたところ、たちまちに立派な男になりよったんですわ。そのまま、その乙女を嫁はんにしてお生みになった子が、名前は冨登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)の命ていうて、そのまたの名は比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)ていうんですわ。(これは、そのホトていう言葉を嫌って名前を改めたんや) で、こういう次第で神さんの生ませた御子ていうんですな」

さて、七人の乙女が高佐士野で野遊びしたとき、伊須気余理比売がその中におったんや。そこで、大久米の命はその伊須気余理比売を見 て、歌で天皇に申し上げたんやな。

倭の 高佐士野を
七行く をとめども 誰をし枕かむ

そのとき、伊須気余理比売はその乙女たちの先頭におったんや。そこで天皇は、その乙女らを見て、お心の中で伊須気余理比売の前に立っとるんをお知りになって、、歌でもってお答えになったんや。

かつがつも いや前立てる
兄をし枕かむ

そこで、大久米の命は天皇のお言葉を、その伊須気余理比売に伝えたときに、〔比売は〕大久米の命の入墨をした目を不思議やと思て 歌ったんや。

あめ つつ ちどり ましとと など黥ける利目

すると、大久米の命は答えて歌ったんや。

をとめに 直に逢はむと わが黥ける利目

そこで、その乙女は

「お仕え申し上げましょう」

て言うたんや。

ところで、その伊須気余理比売の命の家は、狭井河のほとりにあるんや。天皇は、伊須気余理比売のもとにおいでになって、一晩一緒に寝たんやな。

(その河を佐韋河ていうわけは、その河のほとりに山百合がぎょうさんあったんや。それで、その山百合の名前をとって佐韋河て名付けたんや。山百合のもとの名前は、さゐていう)

後に、その伊須気余理比売が橿原の宮中に参内したときに、天皇が歌をお詠みになったんや。

葦原の しけしき小屋に
菅畳 いやさや敷きて わが二人寝し

こうして、お生まれになった御子の名前は、日子八井(ひこやゐ)の命や。次に神八井耳(かむやゐみみ)の命。次に神沼河耳(かむぬなかはみみ)の命の三柱や。

② 大田田根子(おおたたねこ)苧環型神婚譚(おだまきがたしんこんたん)

神婚神話・神婚譚とは、神と神との結婚をさすこともあるが、一般には、神と人とが結婚し、神の子の誕生を語る話型をいう。多くの場合、登場する神は男神で、その神と結婚する女は巫女的な性格(活玉依比売(いくたまよりひめ))をもつ。つまり、神を迎える巫女と訪れる神という幻想のなかに神婚説話は語られていたらしい。そして、その間に誕生する「神の子」は一族の始祖になったと語られるのが基本型で、神婚始祖神話と呼ばれたりする。

三輪山伝説のこの場合は、男神がもちろん大物主大神でその神婚相手が陶津耳命(すえつみみのみこと)娘活玉依姫(むすめいくたまよりひめ)(タネコの母)である。

以下HP『日本神話の御殿(古事記中巻)』から現代語訳で、その内容を引用させていただく。「崇神記」

この天皇(すめらみこと)御世(みよ)疫病(えきびょう)が多く起き、人民(たみ)が死んで()きそうになった。すると天皇(すめらみこと)が悲しみ(なげ)いて神牀(かむとこ)(*8)で寝ていた夜に、大物主(オホモノヌシ)大神(**5)が夢に現れて、「これは我が御心(みこころ)である。そして、意富多多泥古(オホタタネコ)(**6)をもって我が御魂(みたま)を祭らせれば、(たた)りも起こらず、国は安らかに治まるだろう」と言った。

このようなわけで早馬(はやうま)四方(しほう)に走らせ、意富多多泥古(オホタタネコ)と言う人を求めると、河内之美努村(かふちのみののむら)(*9)にその人を見つけた。呼び寄せて天皇(すめらみこと)が、「おまえは誰の子であるか」と尋ねると、「()大物主(オホモノヌシ)大神陶津耳(スヱツミミ)命(**7)の娘の活玉依毘売(イクタマヨリビメ)(めと)って生んだ子の、名は櫛御方(クシミカタ)の子、飯肩巣見(イヒカタスミ)の子、建甕槌(タケミカヅチ)の子、()意富多多泥古(オホタタネコ)す」と申し上げた。そこで天皇(すめらみこと)は大いに喜んで、「天下は治まり、人民(たみ)は 栄える」と言って、意富多多泥古(オホタタネコ)神主(かんぬし)として、御諸山(みもろやま)(*10)意富美和之大神(おほみわのおほかみ)(**5)御魂(みたま)祭祀(さいし)させた。

また、伊迦賀色許男(イカガシコヲ)命(**8)に告げて多くの平たい土器を作らせ、天神地祇之社(あまつかみくにつかみのやしろ)(*11)を定めて奉納(ほうのう)させた。

また、宇陀墨坂神(うだのすみさかのかみ)に赤色の(たて)(ほこ)を祭った。

また、大坂神(おほさかのかみ)に黒色の(たて)(ほこ)を祭った。

また、坂の尾根の神や河の瀬の神にも、ことごとく()れることなく幣帛(みてぐら)奉納(ほうのう)した。

これによって疫病(えきびょう)はすっかり止み、国は安らかに治まった。

この意富多多泥古(オホタタネコ)と言う人を神の子と知った理由は――。

上に述べた活玉依毘売(イクタマヨリビメ)はその容姿が整っていた。そこに壮夫(をとこ)がいて、その容姿や威厳(いげん)比類(ひるい)なきほどで、夜半(やはん)になって突然やって来た。そこで()かれ合って結婚して一緒に住んでいる間に、まだ幾時も()っていないのにその美人(をとめ)妊娠(にんしん)した。そこで父母がその妊娠(にんしん)した事を(あや)しんで、その娘に、「おまえは(おの)ずと妊娠(にんしん)した。夫もいないのにどうして妊娠(にんしん)したのか」と尋ねると、「立派な壮夫(をとこ)がいて、その姓名も知りませんが、毎晩やって来て一緒に住んでいる間に(おの)ずと懐妊(かいにん)しました」と答えた。そこでその父母はその人を知りたいと思って、その娘に、「赤土(はに)を床の前に散らし、糸巻きに巻いた麻糸(あさいと)を針に通して、その(ころも)(すそ)に刺しなさい」と教えた。そこで、教えられた通りに翌朝に見ると、針でつけた麻糸(あさいと)は戸の鍵穴(かぎあな)を通り抜けて出て、残っていた麻糸(あさいと)はたった三勾(みわ)(*10)だけだった。そこで、鍵穴(かぎあな)から出たことを知って、糸を辿って行くと美和山(みわやま)(*10)に続いていて、神の(やしろ)に行き着いた。そこで、その神の子と知ったのである。

そして、その麻糸(あさいと)三勾(みわ)残っていたことによって、その地の名を美和(みわ)と言うのである。

この意富多多泥古(オホタタネコ)神君(みわのきみ)(*12)鴨君(かものきみ)の祖。

このように苧環が3(こう)残っていたので三輪と呼ぶようになったとの地名起源譚もあわせて紹介されている。こうして新興の三輪氏がこの神婚の出自譚をもって以後大神神社の社家となっていく。が、近くにある狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおかみあらたまじんじゃ)(式内社)や大和坐大国魂神社(やまとにますおおくにたまじんじゃ)(式内名神大社)の神職は大倭直氏なので、古くは同氏が大神神社も兼職していたかもしれぬと『三輪山の古代史』で平林章仁氏は推測している。さらに松前氏はこの麻糸は神の正体を知るためのものというよりは、祭りの夜に訪れる神とそれを迎える巫女を結ぶ赤い糸というのが、本来の神話的機能ではなかったかとしている。

この神婚の件に関連して、夜毎女性の元を訪れる男の正体が彼の衣の裾につけた麻糸をたどることによって蛇神であった神婚譚は『肥前國風土記』大伴連狭手彦(おおとものむらじさてひこ)愛妾弟日姫子(おとひひめこ)にも同様の説話がある。

大田田根子という、天皇に貢せられた人物を祭主とすることによって、旧三輪祭祀集団の氏上と氏人との関係を切断したかと思われる。崇神王家が完全に教権を掌握したことを意味する。いかに厚く祀られようとも実質的に神の階級は下がったことになる。大田田根子をもって代表される他国の人が祭主となったとき、旧三輪山神職たち下級の祝たちは、神と人の二重の奴となり、神の分身を奉じて異郷に出て行く。崇神朝のこととして書かれている百襲姫的祭祀と大田田根子的祭祀との間には、本当は三輪王朝から河内王朝へと展開する長い年月が横たわり、崇神紀には二つまとめて記しているけれども、神権と政権との葛藤は王朝が交代されるたびに繰り返された問題であろう。現実に制度化されて政権と神権が全く分離されるのは大化改新以後、天皇制が確立されてからのことになる。

③ 出雲國造神賀詞(いずもくにのみやつこかむよごと)・三輪山の服属譚

 この賀詞はどういうものかというと、全国に國造はたくさんいたけれども、奈良・平安時代になってこの就任式が行われたのは、出雲と紀伊の二国だけであった。しかし紀伊國造は朝廷で就任式は行われたが、神賀詞のような服属の誓いはしていない。出雲國造は亡くなるとすぐに兄弟なり子供が後を継ぎ、その前段の火継式を熊野大社で就任式を松江市大庭町の神魂(かもす)神社で行う。その後一年間斎戒沐浴して、翌年参内し天皇に献上品を奉りさきの賀詞を奏上するのである。それから帰国後さらに潔斎(玉造温泉)してまた翌年参内して賀詞を読み上げる。この二回の儀式を一代ごとにするものである。『続日本紀』にも書かれており、霊亀二(七一六)年が初見だが、これは文献上のことで、実際には起源はもっとさかのぼると見られている。内容は天皇に対しあなたの寿命と治世がいつまでも続くことを祝福し、忠誠を誓うというもの。このなかには次のようなとってつけたような記述がある。

すなわち、出雲の国をつくりながら、これを天照大神に譲り渡した大穴持命(おおなもちのみこと)(大己貴神(おおなむちのかみ))は、その名を大物主クシミカタマと称え、大和の大御和(おおみわ)(かん)なび(三輪山)に移し、皇孫(天皇家)の守り神になります

というものである。この祝詞に従えば天津神に征服された國津神は、朝廷に対し忠誠を誓い、さらに荒魂(あらみたま)を出雲に残しおだやかな和魂(にぎみたま)だけを大和に移し、天皇家を護るために働こうということになる。ところが実際は崇神天皇5年国内に疫病が流行し、死者が続出するなど国土が荒廃宸襟を大いに悩ませる神祟が起こる。(風早宮大氏神の謎Ⅳ巻3節参照)

本来出雲國造の賀詞で挿入すべき事柄でない三輪山の大物主大神が顔を出している。あえて私(大物主大神)も天皇に忠節を近い皇居をお守りしますという誓いを立てる。元三重大学教授・文学博士の岡田精司氏は『神社の古代史』のなかで、もともとは別の形でオオタタネコノ末裔たる三輪氏がしていたのではないかと指摘している。それだけ天皇家が三輪山の神を恐れ、定期的に服属儀礼を出雲國造の口を借りて内外文武百官の前で演出させる必要があったということであろう。

④  大王(天皇)選定の聖なる場
―三輪山の夢占いによる皇位継承―

天皇霊の鎮まるところである三輪山は、皇位継承に関わる重要な卜占を担っていた。

崇神(すじん)天皇の後継者決定の話が『日本書紀』「崇神紀」にでてくる。(「私本『日本書紀』明日香ちゃんのひとりごと倶楽部」サイトより引用・深謝)

治世48年春1月10日、天皇は豊城命(とよきのみこと)活目尊(いくめのみこと)に勅して言った。

(作者注)

豊城命は御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)と妃の遠津年魚眼眼妙媛の間に出来た皇子、豊城入彦命。活目尊は御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)と皇后の御間城姫の間に出来た皇子、活目入彦五十狭矛尊を指す。後の活目入彦五十狭矛天皇(垂仁天皇)。

天皇> お前達2人の子は、どちらも同じように可愛い、どちらを私の跡継ぎにするか迷っている。そこで、それぞれ夢を見なさい、夢で占うことにしよう。

二人の皇子は命をうけて、浄沐(ゆかはあみゆするあみ)して身を清めてから祈り眠った。

(作者注)

浄沐とは、浄は河で水を浴びる事、沐は強飯を蒸した後の粘りのある湯で髪を洗ったりすること。ここでは(みそ)ぎの意。

次の日の朝、それぞれに見た夢を天皇に話した。

豊城命> 御諸山(みもろやま)に登って東に向かって八度槍を突きだした後、八度刀を空に向かって振りました。

活目尊> 御諸山の頂に登って、縄を四方に張って、栗を食べに来る雀を追い払いました。

これを聞いた天皇は夢占いをして二人の皇子に言った。

天皇> 豊城命はもっぱら東に向かって武器を用いたので東国を治めるのが良いだろう。弟は四方に向かって心を配って、稔りを考えているので、我が位を継ぐのが良いだろう。

そして4月19日、活目尊を立てて皇太子とした。また豊城命には東国を治めさせた。これが上毛野君(かみつけののきみ)下毛野君(しもつけののきみ)の先祖となった。

この話の舞台が三輪山だということは、三輪山がある時期、天皇位の継承と深く関わっていたのではないかと思われる。天皇と三輪山の関わる話がもうひとつ『日本書紀』にある。

⑤ 三輪山と天皇霊 蝦夷頭領 綾糟(あやかす)の服属儀礼

『日本書紀』巻第二十「三十代敏達天皇」十年に次のような不思議な記事が見える。

是に綾糟ら、懼然恐懼りて、すなはち泊瀬の中流に下りゐて、三諸岳に面ひて、水をすすりて盟ひて曰さく、

「臣ら蝦夷、今より以後、子子孫孫、清明心を用ちて、天闕に事へ奉らむ。臣ら、もし盟に違はば、天地の諸神と天皇の霊、臣が種を絶滅えむ」とまをす。

辺境を侵した蝦夷の首領者綾糟などを召して、泊瀬川(三輪川)の水に禊ぎをさせて、永久に反逆の心のないことを誓わせたというのだ。服従の誓いを破ったら、天皇が滅ぼすのではなく、「天皇霊」が子孫を根こそぎにするというもの。その「天皇霊」の所在する地が三輪山なのである。

なぜ三輪山に清きあかき心をもって誓わなければならないのか?そして誓約をたがえた場合は゛天皇霊゛に我等の子孫を滅ぼせといったのかということである。

すなわちこの山には大物主大神が居るだけでなく天皇霊が宿る山ということになり、三輪山と天皇家は不可分の関係に合ったということになる。神社伝承学を重視する私見では大物主大神こそは風早宮大氏神ニギハヤヒその人であり、したがってニギハヤヒこそ神武天皇大和入り前の、真の皇祖ということになろう。

大物主大神は記紀完成の天武朝に天皇統治の扶翼神として創出されたとする川副武胤氏の説もあるが、本来その祭祀は縄文時代にまでさかのぼり、アニミズム信仰としてヤマトの國魂として原住民の尊崇を集めていた。そこからシャーマニズムの時代になり大物主大神と倭大国魂神に分化して行ったのである。

その他三輪山伝説に関しては「崇神紀十年九月条(箸で死亡した女と墓)」「雄略紀七年七月丙子条(捕まった三輪山の神)」をそれぞれA、BとしてⅢ巻3節に掲載しているので参照されたい。これまでさまざまな角度から三輪山にまつわる伝説を見てきたが、特に重要なポイントはA、Bの件であり、ヤマト國魂たるニギハヤヒの祭祀が、崇神天皇のとき皇居から放逐され、さらに斎宮の原型たる皇女をもって祀らしめたが、三輪君氏の台頭でその座が天皇家から移籍換えしたこと、さらに小子部連(ちさこべのむらじ)スガルは秦氏や隼人から避雷、雷神鎮圧の呪術を習得していたので三輪山の神を捕捉できたとする向きもあるが、つまりかつては王家の巫女的皇女により祀られていたヤマトの最高神の相対的地位の低下を意味すると思う。王家の直接支配から一氏族である三輪君氏に移行したのであって、これはとりもなおさず、崇神による古代祭祀の構造改革である。一方で同じころ皇祖神として女王アマテラスが天照大神という最高の神格を得て、安住の地伊勢を得て祀られることになったことと関連があるであろう。伊勢斎王の前身をなす女性の史実性が高まるのもこの時期であり、雄略紀元年三月是月条には、栲幡姫(たくはたひめ)皇女という養蚕に関わる、またの名を稚足姫(わかたらしひめ)皇女が伊勢の神祠に奉仕したとある。自今王家出身の皇女が天照大神に奉仕することはあっても、もはや三輪山の神妻になる必要はなくなったのである。

⑥ 神功皇后の新羅討伐
―軍神としての大物主大神―

筑前の國の風土記に曰はく、氣長足姫尊、新羅を伐たむと欲して、軍士(いくさ)整理(ととの)へて發行(いでた)たしし(ほど)に、道中(みちなか)()()せき。其の由を(うら)()ぐに、即ち、祟る神あり、名を大三輪の神と曰ふ。所以(ゆゑ)に此の神の社を()てて、遂に新羅を(ことむ)けたまひき。 (『筑前風土記』逸文釈日本紀)

神功皇后は柏日浦(かしひのうら)で髪占いを行い(北条鹿島にも髪洗磯(かみあらいのいそ)の伝承地がある。その昔、神功皇后が三韓征伐の軍を進められたとき、満ちてくる潮で身を清め、髪を洗われて神々に戦勝の祈願をされたと伝えられている。鹿島山頂の「御野立(おのだて)(いわ)」(三韓征伐時、立ち寄られた神功皇后が鹿島神社・風早宮大氏神で戦勝を祈願されてから頂上の平たい大きな岩に御立ちになった故事による)とともに古くから鹿島の名所の一つに数えられている。)男装してのち国々に命じて船を集め、兵甲を調練しようとしたが、軍卒が集まらなかった。そこで「必ず神の心なむ」として大三輪の社を建て、刀矛を供えると軍衆が自ずと集まったというもの。式内社夜須郡に大己貴(おおなむち)神社(県社)がそれである。(現在福岡県朝倉郡筑前町弥永六九七―三)

大己貴神社 夜須郡弥永村(朝倉郡三輪町弥永)にある。

祭神一座 大己貴神〔即ち三輪大明神〕相殿〔東は天照太神、西は春日明神〕

神功皇后元年九月に新羅を征した時に、諸国に船舶を集め、甲兵を練ばしめたが、軍卒が集まらなかった。皇后は、必ず神の心である、と言って大三輪社を立て、刀矛を奉らしめた。すると軍衆は自ら聚まった。

-『和漢三才図会』-

大己貴神社 筑前国続風土記によれば、「大神大明神は弥永村にあり、<延喜式神名帳>に「夜須郡於保奈牟智神社小一座とあるはこれなり。祭るところの神は大己貴命なり。今は大神大明神と称す。御社は南に向かえり。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合わせ祭る。宮所神さびて、境地ことに勝れたり」

<日本書紀>に「仲哀天皇九年秋九月・庚午朔己卯(の日)、(神功皇后)諸国に令して船舶を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し、皇后曰く必ず神の心ならんとて、大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、軍衆自ずと聚る」とあり、九月二十三日(旧暦ゆえ、現在の十月)祭礼ありて、この日神輿御幸あり。御旅所は村の西・十町ばかりの処にさやのもとというところあり、これなり。その他、年中の祭礼たびたび有りしとか。いまはかかる儀式も絶えはてぬ。然れども夜須郡の惣社なれば、その敷地広く、産子(氏子のこと)殊に多くして、人の尊敬浅からず」との記載がみられる。

太宰管内志(国学者・伊藤常足編)によれば「<筑前神社志>に、(神功)皇后より後に嵯峨天皇弘仁二年(八一一)勅願ありてご建立あり。その後、六百六十一年を経て御土御門院文明三年(一四七二)、勅願としてご建立あり。その間、数度造り替えありといえども詳らかならず、伝われる縁起・記録類は天正十五年(一五八七)より九十六年の間、仮殿に居ましける。寛文十二年(一六七二)石鳥居建立。祭礼神幸の儀式は同十三年に再興す。本社、貞享四年(一六八七)改造す。拝殿は元禄五年(一六九二)建立。同六年社領少々、黒田甲斐守寄付し給えり。神職松木氏(本姓大神)先祖より宝永二年(一七〇五)まで六十二代相続せり」とある。

さらに、筑前国続風土記附録にも次の記録がみられる。「神殿一間半・二間半、拝殿二間半・四間、(中略)この村(弥永)及び甘木・隈江・楢原・甘水・持丸・菩提寺・千代丸・牛水・馬田・野町・高田・依井・大塚すべて十四村の産土神にして、夜須郡の惣社なり。頓宮地は本社の西南、八町ばかりにあり。東南十間余り、周りに松杉植わり、中に礎石あり。神幸の時は、ここに仮殿をも葺く。また町の中に浮殿の地あり。切り石ありて里人は神輿林と云う。社内に祇園社・黒殿社・八幡宮・現人社・水神・神池あり」

-境内案内板-

●文章引用 HP『玄松子』より 深謝

⑦ 大物主大神の性格

大物主大神の「もの」とは鬼神交換の表記で、『万葉集』には「鬼神(もの)」とあて、『日本書紀』では「鬼神(かみ)」ともあてている。大物主大神とは一言で言えば、大いなる霊魂、多くの〈たま〉〈もの〉の所有者であり、霊異さかんな土地に棲み付く〈主神〉であり、水の支配者、豊穣の神であるとする。(『三輪山伝承』山中智恵子著)本居宣長は『古事記伝』のなかで、「尋常(よのつね)ならずすぐれた徳のありて可畏(かしこ)き物」と表現した。古代三輪山も風早の地も山河に精霊宿る霊妙なる聖地だったわけである。記紀成立以前の、はるか仏教渡来以前、記紀に出雲びととか、出石びととか示される半島系・大陸系の渡来人も、実はもう分けて区別できないほど、杏く、早く混血してしまい、その人々の血肉と共にさまざまな神が交霊していたと思われる。全ては輪郭を持たぬまま、朝霧夕霧に神はかしこきものだった。とりわけ先住の人々の信仰する神は、最もかしこきものとして鎮め斎かねばならなかった。その霊威を借りなければ、草木も土地も人も自由にならず、国づくりは不可能だった。神あるところ必ず人が居て、その祭祀集団の結束は固かったのである。舒明紀には「幽顕(かみもひとも)」と記すが、大物主大神とは人々の心に住まう人間本来の性であり理であり情であろう。富士谷御杖氏は『古事記燈』のなかで、神とは欲望であり、理を司るものは人であって「かみ・もの」とは「幽顕(かみもひとも)」明暗ふたつながら併せたひたぶる心、絶え間なく飛翔し、地より湧出する、非合理の情念ではなかろうか。

風早宮大氏神の祭祀も神社側の見解のごとく、社殿建造より千五百年以上、物部氏来臨以前から土着の風早氏などによって風早國魂の信 仰(磐坐祭祀)があったものと考えられる。海神を祀る鹿島沖の伊予の二見(玉理(ぎょくり)寒戸島(かんどしま)」と呼ばれる岩があり昔、高縄城主・河野通信(こうのみちのぶ)が海上安全・五穀豊穣の守護神として、玉理・寒戸島に龍神様を祀ったとの伝説がある。今はこの島に長さ40m、直径30cmの大注連縄を張り「伊予の二見」として知られている。この注連縄に願い文を包み込み、奉納すると縁談・学問・商売・交通安全など、よろずの願い事が叶えられるといわれている。この願い文は鹿島神社本殿と無料休憩所に設置している「願い文入れ」に投函しておけばよい。大注連縄が張り替えは、毎年五月四日に地元消防団の奉仕により行われる。前日は鹿島神社の春の大祭)を詠んだ吉井勇の短歌が残る。

「岩ありて天つ日ありて海ありて伊予の二見はかしこかりけり」
                昭和47年5月、鹿島老人クラブが建立