風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第三章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その1

5 輝く太陽と波静かな豊饒の海に見守られる聖地
伊予之二名洲(いよのふたなのくに)(風早物部王国(かざはやもののべおうこく))

イザナギとイザナミが夫婦となって日本の国土と山川草木を生む「国生み神話」のなかで、記紀ともに二番手でその名が記されている「伊予之二名洲」。その他、大八州(おおやしま)と呼ばれる島や地点は、そのほとんどが西日本に片寄っている。瀬戸内海の吉備児島、小豆島、大島、女(姫)島、壱岐・対馬や知訶島(五島列島)がそれである。いずれも朝鮮半島や中国大陸への交通上の要衝の地点であることに気付く。

さて先述の伊予之二名洲は風早国であり、二名のナとは風早国の郷名「那賀(なか)」「難波(なんば)」であるとの論文を発表された合田洋一氏の卓見に、私も全く異論はない。特に風早宮大氏神の鎮座する那賀地域(現・正岡校区)は、後に中西の地名が起こり、さらに近世には中西内村と中西外村に分かれ現在の大字につながっていく。しかも中西外区内では小字の類に「中之郷(なかのごう)」「中之口(なかのくち)」などがあり、子供のころから慣れ親しんだ地元の地名だけに、思い入れもひとしおの感がある。私の母方(平岡氏)の実家は中西外村中之郷西組にある。

またかつて旧北条市に招聘した古田武彦氏は「風早」の「か」は神様の「か」。「か」は神聖さをいう接頭語。「さ」は濁音になっているが地形名詞で土佐・宇佐のように接尾語。「は」は広いところの意味。植物の中で葉は一番広いところ。「や」は社を指し、総じて「神聖な土地の広い社があるところ」という意味と解釈された。私は「古田史観」はとらないが、この字句解説には賛同する。まさに風早宮大氏神の鎮座する聖地―が「風早」などである。

合田氏も指摘するがごとく、古代において風早国は海人族(あまぞく)の往来する拠点である。そのルートは朝鮮半島南部(倭人の住んでいた伽耶(かや))から壱岐・対馬・博多の那の津を経て赤間関(あかまがせき)から周防灘(すおうなだ)に入り、姫島そして広島湾の宮島(宗像三女神を祀る官幣中社・厳島神社(いつくしまじんじゃ)が鎮座)を西の玄関とする数十の島嶼部からなる芸予諸島から斎灘(いつきなだ)に導かれる。この芸予諸島の中心にあるのが大三島で後段詳述する四国唯一の国幣大社・大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)が鎮座し、宮島とともに神島、門前町のある港として栄えた。海の豪族・海民の頭領 越智氏が支配したので「越智七島」ともいう。一方斎灘には忽那七島(くつなしちとう)(旧風早郡中島町)や興居島(ごごしま)安居島(あいじま)鹿島(かしま)など大小さまざまな島々が海洋国家・風早国(伊予之二名洲)を守護するかのごとく幾重にも折り重なり、まるで天然の屏風を立てたかのようだ。景色は今でも空路松山へ帰郷したときに、青螺のごとき島々を見て取ることができる。しかも背後は高縄山系が固めている。まさに天然の要害であろう。それら眼前の島々が波風を防ぐので、風早浦・熟田津は港として絶好の地形であった。また来島海峡付近は、東は紀伊水道と西は豊後水道から勢い良く流れ込んできた潮流がぶつかりあう難所である。約六時間おきに潮流が転流する。すなわち「潮待ち・風待ち」には最も適した港だったのである。

一方九州から海人族たる物部氏の東遷以前に風早国には出雲族が先住民族として集落をなしていた。松山市の高浜沖に浮かぶ島々は忽那七島と呼ばれる忽那・河野水軍など海人族の拠点である。先年まで温泉群中島町(現在は2市1町の合併で松山市)であったが明治の一時期まで風早国の領域であったことを踏まえ、旧北条市ともども風早郡であった。その中島町の総鎮守に郷社・八幡神社がある。平安時代に八幡神が合祀されて現社名となったが、それ以前は「大浦の比賣神(姫神宮)」といって稲田姫を主祭神としていた。それというのも太古この島々に来島した人々が稲田姫や須佐之男命を信奉する他ならぬ出雲族であったからである。また同じく旧中島町の與理家(よりいえ)神社(小浜村社)がある。主祭神は須佐之男命で社記には

往古、須佐之男命がヤマタノオロチを退治したときの瓶が、この濱に漂着したのを島人が拾い上げて社殿を営み、瓶を納めて奉仕、また当地に住む出雲族が黒醴(くろあまざけ)を醸して上納した與理家(よりいえ)とは「寄り瓶」の意味である。

と記されており、風早王国は出雲王国と密接な関係にあったと推察される。また風早宮大氏神の御動座祭の特殊神饌に鮒鮨と白酒と黒酒の一夜酒を供えることとされており、この黒酒なるものが黒醴(くろあまざけ)に他ならず、出雲国と風早国の祭祀の共通性も垣間見える。それを裏付ける民俗行事の共通性もある。正月の予祝行事である「田打ち正月」開催日について、中四国の民俗文化的まとまりをどう捉えるかということである。田打ち正月は一般に一月二日に大正月行事の枠内で行われる地域と、一月十一日に小正月の行事として行われる地域とに大別される。我が旧北条市をはじめ芸予地域は「地祝い」「大鍬初め」などと称して後者に属するが、さらに山陽筋に入って広島県東部の備後地方から備中地方美作地方を経て山陰の出雲地方及び隠岐地方、鳥取県西部の伯耆地方へと続きながらも、かなり特徴的な分布を示すのである。高縄半島や芸予諸島以外の四国は大半が二日実施であり、風早国を含む芸予地域、さらには古代王国のあったとされる出雲では十一日に実施している。これは古代祭祀や文化的つながりがあった証左であり、祭礼の面でも十二年に一度開催される島根県松江市の船踊り「ホーランエンヤ」(12年に一度の船行列といわれ江戸初期から始まったとされるこの行事は、正しくは城山稲荷神社式年神幸祭といい、海上三里の阿太加夜神社に至るもの。中日の中日祭をはさんで、1週間後にはまた松江に帰る還幸祭がある。直近では平成九年五月に行われ、私も見物した思い出がある)に鹿島神社の「櫂練」の原型があると見るのである。このことは共に須佐之男命を王にまた稲田姫を妃に戴く出雲族の王国であり、それはとりもなおさず饒速日尊と同系列の葦原中国ネットワークだったのである。

またこのことは、現行の大正月よりも小正月に価値基準を置いた、より古層とも考えられる民俗文化がこの地域に存在してきたことを示唆しているのではないかと思うのだ。

ちなみに塙原和郎氏によれば、弥生時代の初期から古墳時代までの千年間に日本列島西部に移住した人々の数は女性も含めて百万人から百五十万人にも上るという。そのなかには、漁労・製塩に従事するとともに、水軍や海上交通の担い手ともなった海民の集団がいた。同時に鵜飼いのような漁法、絹や布の織物、縫い物、製紙、さらに製鉄や鍛冶・鋳造、土器や陶器の製造、土木や石積み、植林に長けた技術集団、漢字や医療・製薬を司る知識人、多様な芸能民などが、北九州、瀬戸内、近畿に入り、列島の各地に移住し始めた。そして交易を通じて馬具や大量の原料鉄など、さまざまな物資がもたらされた。まさに古代風早はこれら先進の文武・技術集団の往来、開拓により輝いていたのである。

しかし後に十世紀に入ると、海神の霊威にすがった自由な行動パターンを旨としてきた海民集団は、国家が規整した「法」と「秩序」への侵犯行為として捉えられるようにになった。いわゆる「海賊」意識の萌芽である。

さて縄文時代はアニミズム(精霊崇拝)の時代。古代人たちはいろいろなものの背後に霊力の存在を感じていたが、各土地や島々にも、地域ごとに精霊が潜んでいると信じた。縄文時代から弥生前半期にかけて、海人族を始めとする先住の風早人たちも例外ではなかった。ここに原初の風早宮大氏神の信仰の源がある。

やがて先述のような先端武器や稲作文化等を引っさげた物部氏が渡ってきた。ここで注意したいのは、弥生系渡来人が縄文系先住民を駆逐征服して行ったわけではなく、先住民と連帯・調和・和合するなかで自ずと融合、混血化が図られたということであろう。縄文時代以来の朝鮮半島、中国揚子江南部を発し、済州島、対馬、壱岐、北九州、瀬戸内などの地域を舞台とした海民たちの日常的な交流や文化の蓄積が、稲作を始めとする弥生先進文化の革新的拡がりを支えていたと考えるものである。当時の宗教概念や統治の円滑なる手段として、政治的指導者がその地域を完全に掌握するためには、その土地の精霊(国魂)を抑えなければならなかった。天皇が「大八州の霊」を身につけることによって日本国の統治者と為りえたのと同様に初代風速国造・物部阿佐利公は「風早国魂(かざはやのくにたま)」と同体に成ることによって、物部氏による風早の国土開発が成就されていったのである。

ここで『風早三十四号』「前方後円墳の成立過程と国造阿佐利の治水事業」(篠原徹旨氏)を引用しながら物部阿佐利公の風早国開拓の足跡をたどってみたい。現在立岩川(岩瀬川)は難波校区・庄区の山襞(やまひだ)に突き当たり南方に斜行し、正岡校区・高田区の鎌投げから直角に西行し、国津比古命神社の北側を走り北条海岸に流路をとっている。この鎌投げに立って地形的に自然な流路を考えるとき、元、立岩川は高田区・光徳院の西側の低地を通り辻池と宗昌寺の間を通り抜け八竹山の北側を通り中西外区(内砂川・外砂川)を通過、北条校区・新開区そして河野校区・府中区(西の下)へと流路をとっていたと考えられる。このため台風や長雨など自然災害の度に風早平野中心部の肥沃地が冠水し、農作物や人家への浸水など甚大な被害を出していたと考えられる。

このような中、応神天皇の御代(4世紀初頭)先述の物部阿佐利公が国造として勅令を奉じ当国へ入府した。初代国造の祭政一致時代における政策課題は①大先祖・饒速日尊を祭祀する社殿の建設と②立岩川の治水事業であった。まずは②流路の変更である。本線を神社北側に取り最短距離で斎灘に流す大土木事業が施工された。現在の自治会である高田区の名称は立岩川の流路の変更によりできた農耕地を嘉称して郷名とした名残であり、また自治会・神田(かんだ)区は神田(しんでん)として神社に寄進された名残である。さらに条里制復元図「宗昌寺坪付文書」にある「頭日里」「社田里」「苗代里」は立岩川の流路変更による治水事業が、国造によって実施されたことを象徴するものである。

なお①斎場の建設も関連性を帯びてくる。元は二つの小山であった国津ヶ丘を②の事業で出た残土をうまく活用し小谷を生めて、瘤状の二山頂を均し、前方後円墳の基壇を成す斎場にしたとの伝承が残る。この聖地で初代国造は、双方の事業がめでたく竣工したことを饒速日尊に祝詞奏上する大祭典(風早火事祭りの初元)を挙行した。このとき治水事業を手がけた各郷・里の氏人たちが挙って、屋台に棒を付け中心に産土神の御神体を据え、周囲を神聖高貴な赤色の御絹で囲って、斎場付近まで押しかけ、嬉しさの余り大いなる練を行った。もちろん鐘・太鼓を打ち鳴らし、天井には日輪信仰の象徴たる日の丸の小笹を四方に配して饒速日尊の降臨とその恵みを祈念したのである。(これが当地方のだんじりの起こりである。先代井上宮司は生前、神輿より屋台の方が歴史が古く先であるとご指導いただいたが、国造時代にまで遡るのであるから日本最古のだんじりなのである。)

さてこの新装成った斎場で、毎年風早国造は太陽の力が衰える冬至に、収穫の実りと国内統治に感謝する(「一願成就」の御神徳)祭典を執行し、祖神・饒速日尊の霊威を身に付けることにより、それを太陽神の復活にもなぞらえる大掛かりな儀式を斎行したのである。これが現在他に類例を見ない「お渡りの神事・御動座斎(宵の明星)」という特殊神事で千七百年以上継承されてきているわけである。もちろん初代国造薨去の後は公の亡骸をこの斎場に葬り、これが伊予国における最初で最大の前方後円墳となった。

そこで、昨年(平成十七年)の秋季大祭[宮出し]における松山市立正岡小学校グラウンドでの「吉例!神迎え屋台統一練り」において、私は風早火事祭(かざはやひのことまつり)実行委員会からの命を受け、先のくだりを、私は次のように実況放送した。

今から1500年の昔、風早の先人たちはこの里に国の魂を感じ素朴にお祭をしていました。

やがて日本の国をひとつの国にまとめるときがやってきました。

(井上忠史宮司 監修)

たくさんの氏子崇敬者が集うときに、真実の風早の歴史を伝えていくことは肝要であり、大松山市の中で埋没しないアイデンティティを確立させる必要がある。