風早物部饒速日王国

十六八重菊紋・風早宮大氏神神紋

[第三章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その1

8 真の太陽神とニギハヤヒ

では、神統譜のなかで、もともとの男性太陽神にあたる神が存在するのであろうか。誠に由々しきことだが、物部氏の始祖・饒速日尊謚号(おくりな)にも天照の二文字が冠せられているのである。ここにフルネームで掲げる。

天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこあめのほあかりくしだまにぎはやひのみこと)

大氏神の表記では、
天照国照日子天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしだまにぎはやひのみこと)
またの名を、
天火明命(あめのほあかりのみこと)天照国照彦天火明尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)饒速日尊(にぎはやひのみこと)
胆杵磯丹杵穂命(たきいそにきほのみこと)

この神様こそ我らが風早宮大氏神の主祭神なのである。天照國照彦とは、天地を照らすという意味で、ホアカリとは、ヒカリの古語または、稲穂がたわわに実ったさまを表していることから、天地を照らす天上にまします光の神、即ち太陽神格の名前に他ならない。つまり、日の照り輝くさまを表現したものと解釈されると同時に、稲の穂の饒饒(にぎにぎ)しさ、稲が熟しきって穂もたわわに実っているさまを現している。よって、ニギハヤヒは稲霊の神格化と見ることもできるのである。ちなみにこの大神は、別名大歳(おおとし)(大年)、略称として天火明命(あめのほあかりのみこと)天照國照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)とも呼ばれる。ただし、さまざまな持統朝官憲の圧力(祭神の書き換えや、主要氏族の家系図の提出など)にさらされながらもフルネームで祀られているのは、愛知県一宮市にある真清田神社(ますみだじんじゃ)(式内社・国幣中社)、物部氏の九州における本貫地・遠賀川下流域にある福岡県鞍手郡宮田町磯光二六七の県社・天照御魂神社(あまてるみたまじんじゃ)(磯光天照宮(いそみつてんしょうぐう))と兵庫県竜野市の県社・粒坐天照神社(いいぼにますあまてるじんじゃ)、郷社・井関三神社と我が風早宮大氏神など数社を数えるのみである。これら地域に共通するのは、都から遠いこと、この祭神を祖神とする物部氏の牙城であったということなど共通点がある。さらに風早宮大氏神御祭神に目を向けると、妃神として大和國の縄文系豪族長髄彦(ながすねひこ)の妹君、御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)と天道日女命を祀り、御子神として宇摩志麻治命(うましまじのみこと)を配神するという風に御一家おそろいで奉祀されているのは、全国でここ風早宮大氏神だけであり、いかに郷土旧北条市が、古代において県内はおろか四国の雄都であったかが察せられる。(小椋一葉著『消された覇王』に詳しい)

そのことは三世紀後半に大和朝廷が全国に配置した地方行政組織(國造制(くにのみやつこせい))の配置でも裏付けされている。国造とは地域の有力首長たちのことで傘下の部族長を統括させるとともに部民(べみん)(物資輸送や軍事・労働力を提供する大王家や諸豪族の直属民)や屯倉(みやけ)(大王家直轄領)の管理も任せた。国造は祭祀、行政、軍事・警察、裁判・行刑など幅広い権限を有していた。この辺りについて安本美典氏は

饒速日尊系統の人々と、天皇家系統の人々との連立政権が成立し、饒速日尊系統の人々が治める領域は次第に天皇家系統の人々に譲られていった。あるいは、基本的領有権は天皇が持つことになり、現地の管掌権は、例えば国造や県主として、物部氏系統の人が持つ、という形になるようになった。現地の管掌権を天皇家が与えるという形式をとるようになった

と国造等の領国経営の実態を述べている。

伊予国においては五氏【伊予(伊予市)、怒麻(ぬま)(乃万―旧大西町を含む)、久味(くめ)(松山市久米地域)、小市(おち)(今治市、旧東予市、旧朝倉村、旧越智郡)風速(旧北条市・中島町)―以上『先代旧事本紀』所収の「國造本紀」による】が、國造に天皇家から任命された。この五大國造の赴任地域には古墳文化も花開き、例えば今治市近見の相の谷一号前方後円墳(全長八二メートル)をはじめ、馬越鯨山、桜井国分、旧大西町妙見山、旧北条市の櫛玉・国津両前方後円墳、松山市衣山の永塚、桑原の経石山古墳、伊予市上吾川(伊予岡八幡神社)の伊予岡古墳群など十数基があり、これらの地域で弥生時代以降の生産力に著しい発展があったことが伺える。

その内、初代風速(早)國造には物部阿佐利が奉職している。風早宮大氏神の二坐(國津比古命神社、櫛玉比売命神社)は現代の県知事職に相当する地位にあった彼が、祭政一致であった当時の首長として風早國の繁栄を祈念し、一願成就なった暁にこれに感謝して創建したのが始まりとされ、小市國造が奉祀した伊予國一の宮・大山祗神社とともに御鎮座千五百年を超える県内最古社の一つである。また饒速日尊を始め物部本宗家ご一家おそろいで御祭神となっているのは全国でも当社だけである。高縄半島を二分して越智・風速両國造地域共に、中央政界のドン物部氏の拠点である。海の大動脈瀬戸内海の中央に位置し、中予、高縄半島をめぐる地味肥沃な土地だ。東西交通の要衝であり、かつ朝廷から見て各般に亘り(軍事・経済・政治・文化・宗教)枢要な、目の離せない都市国家だったと考えられる。西瀬戸芸予の押さえが風早國(熟田津)なら備讃瀬戸では物部降臨神話に見られる讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)(多度津を地盤、ここには同じくニギハヤヒ=大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祭神とする、金刀比羅宮がある)を配して瀬戸内海の海運権を独占し、東西の関門の防衛を担当した。

さらに風早國は縄文時代後期から弥生時代全期に亘っての遺跡が見られる。鳥居元である八反地(はったんじ)遺跡を初めとする弥生時代前期の遺跡からは、遠賀川式土器が検出されて、北部九州から早い時期に弥生人〔物部氏〕が渡来し、米作りを伝えたと考えられる。今に風早平野は米所、豊饒の地として知られ、高縄連峰は清らかで潤沢な水をたたえて渇水には無縁の土地だ。一方、潮の早い斎灘(いつきなだ)(なぜこの名か?ニギハヤヒを祀る大社に波寄す海だからではなかろうか。)は絶好の漁場でもあり、後に三韓征伐の途時、戦勝祈願を行うため立ち寄られた神功皇后(じんぐうこうごう)ゆかりの名物「鯛めし」は風早の鯛ならではの味覚を今に誇る。生の魚介類を塩をひいたホウロク鍋で蒸し焼きする宝来焼(ほうらいやき)も海人族の拠点ならではの、郷土料理である。

加えて神前に供え、後に神人一体・お下がりをいただくとすることを縁起とする直会(なおらえ)に欠かすことのできない酒造業が盛んなのもうなずけるというものだ。後述の竜野市にも有名な醤油の会社がある。

関連するので、前号で簡単に紹介した「風早熟田津説」について付記しておく。饒速日尊の鎮座する田(平野)のある港からくる説や「三島宮社記」の記述とあわせて、武智雅一氏は「熟田津乃歌私考」のなかで海港を臨む神々に渡海安穏を祈ることを「和幣奉」(ニキタツ)というのだと仙覚が述べていることを紹介している。したがって、饒速日尊は伊予二名洲(風早物部王国)国津(港湾)を守護する比古命(国津比古命)であるから、当然ニキタツの神ということになるのである。この地なればこそ、百済救援の斉明女帝始め中大兄皇子(天智天皇)率いる日本軍は、この熟田津に六六一年正月六日より約三ヶ月もの間、船舶徴用や水軍編成のため滞在したのである。その時の有名な額田王の和歌

熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

万葉集

このように伊予国最大の軍港・商港を有した風早国は最盛期には、和気郡や温泉郡の一部も領していたとし、県内最古の前方後円墳・朝日谷二号墳(松山市大峰ヶ台)は一九八九年七月に発掘調査され、後漢の二禽二獣鏡、斜縁二神二獣鏡、鉄刀、銅鏃、鉄鏃やガラス玉など夥しい副葬品が出土したが、これも風早國造家一門の墳墓と大阪教育大学名誉教授である鳥越憲三郎氏は推論している。

要衝に譜代の臣を配すなどして、一早く他の部族に先駆けて、大和へと東遷し在地勢力と融合しながら初期王権を確立した物部氏だが、国を()べる王として君臨すると、日神を祖神として祀るようになる。それは世界のあらゆる民族に共通して見られる事で、王は宇宙の最高神である日の神の直系の子孫、すなわち日子思想によって人民を絶対的権威のもと統治しようとした。物部氏も例外ではない。

しかしながら氏神さまとして大変残念なことだが、一般にこの長い神名がほとんど無視されてきたのは、『日本書紀』が朝廷の公式見解として天皇家の天照大神(女神・大日霊女貴尊)を日本の太陽神と定めているのだから、いくら物部氏の祖神〃天照〃で呼ばれていたとしても、これを太陽神であったとみなすことはできないとする判断があるからであろう。しかしこれは偏狭な皇國史観とも言うべき大きな誤解である。

八世紀の朝廷によって作成された記紀は、皇祖の女王アマテラスだけを日の神と位置付け、他の部族が祖神とする日神は全て否定され、日の神の属性を持たない並の神として下位に位置付けられた。日の神が他にもあっては天皇権が侵害されるからである。ある面ニギハヤヒもそうした運命を負わされた悲運の神と言えよう。現実には大和建国前いくつもの国に分かれていたのだから、国ごとに独自の信仰形態が有ったわけで、天皇家の天照大神が九州における太陽神で、物部氏の“天照”が大和の太陽神であっても、何の不思議もないことだ。奈良大学教授の松前健(まつまえたけし)氏もその著『日本の神話と古代信仰』のなかで「大和朝廷に服属する前に古い豪族(ほとんどの式内社の祖神が、これら古代部族の祖神を祀る)の家々に、固有で素朴な祖神の天降りや、邪霊退治や神婚などの伝承が在ったのではないか。」と述べている。それが後に朝廷に採択されて、宮廷神話の体系に組み込められ、現在記紀で見る形の、唯一別格・絶対神としての皇祖アマテラスそして皇孫のニニギノミコトに随従する伴神(ともがみ)の物語になったのではないか。さらに氏は「アマテラス大神信仰の原型的なものは、この天照御魂(あまてらすみたま)ないし天火明(あめのほあかり)という神だったのではないか」と、核心を突く指摘もしている。