松尾神社社務所 ~松尾大神とはどんな神様なのか~
松尾 神社の由緒と祭祀
私が地元松尾神社の宮総代及び責任役員を拝命して早15年の歳月が流れた。
この間社殿屋根の修理、拝殿敷き茣蓙の新調、祭典用太鼓の張替え、北参拝道の整備、神幸祭の期日変更及び小祭りの活性化さらに参道幟の新調など中西外区の歴代区長並びに役員各位さらに氏子区民各位の物心両面のご協力を得て、御社頭が護持できておりますこと何よりと、厚く感謝申し上げているところである。
松尾神社のプロフィール
- 主祭神
大山咋命 - 配神
大己貴命 、木花開耶姫命 、湍津日女命 、市杵島姫命 、田心姫命 、稲背姫命、幸魂 大神、蔵大神(闇龗神 )、猿田彦命 、清正公- 境内神社
- 奈良原神社(奈良原大神)、鷺(白鳥)神社(白鳥大神)、御先社(猿田彦神)、新田神社(新田大神)
- 神紋
- 葵
- 社格
- 村社
- 境内地
- 236坪
- 鎮座地
- 〒799-2425 松山市中西外284(風早郡正岡郷中西外村)
(注)当社は兼務宮司にて神職が常駐できる社務所建築自体がありませんので、郵便受けもありません。
従いまして小生へのお便り等はトップページ右下のメールからお願いいたします。 - 由緒
当社は明治4年(1871)官命によって松尾神社ほか5社(厳島、床浦、御幸、聖、蔵王、)を明治9年に合祀し、松尾社に改称、明治9年(1876)本県神第5号達をもって、再び当社の明細調べをし、同年6月村社に列せられた。大山咋命は山末之大主神と申し、松尾に坐す神で大津市坂本日吉大社の主神。生活全てに亘って支配する厳神として崇められた。
明治43年(1910)6月7日愛媛県告示第378号をもって、明治39年(1906)勅令第96号による神饌幣帛料供進する事を得るべき神社に指定せられ、明治43年の例祭から正岡村村長が例祭に出席し幣帛料をお供えし、お参りするようになった。
松尾神社の元宮は字小山のほとりにあった。現在は瓦焼きの祠が建てられており毎年7月に元宮祭を松尾神社夏祭り祭典とあわせて斎行している。また毎年体育の日の神幸祭には神輿がお旅所として、ここまで渡御し、中西外区内上区と下区との受け渡しが行われる。
天明9年の村の控え「風早郡中西外村堂處社号帳」の記載によると、神社の規模は次の通り。
- 本殿…間四方 茅葺 社号帳付
- 拝殿…間に2間半、茅葺
- 境内…15間、南北13間、惣畝段6畝15歩 無高地
小山の間に神田(7畝、高5斗6升)があった。
松尾元宮が現在地に遷座されたのははっきりしないが、境内にある石造物から推測すると石段横にある石柱が一番古く、明治2己巳年(1869)3月吉辰の記銘がある。従ってこの頃には松尾神社は現在地にあったと考えられる。その他鳥居や灯篭の銘文には明治11年(1978)寅9月の記銘があり、この頃に村の鎮守社として充実していったことだろう。
その後何回か改築が成されている。(左記写真は京都にある御本社・松尾大社)- 社殿改築参道新設 昭和15年…注連縄石、神名石建立 揮毫 愛媛県知事 持永義夫謹書
- 唐獅子建立 昭和31年
- 本殿境内末社改修新築 昭和43年
松尾神社の配神
- 1. 木花佐久夜姫
- 河野氏が先祖神として、伊予国の各地に勧請した大山積の娘で天孫ニニギノミコトと結ばれた。一方大山積神は酒解神とも呼ばれ、娘木花佐久夜姫も酒解子神と言われ共に酒の神である。
- 2.
闇靇神 - イザナミの神がヒノカグツチの首を切られた折、その剣の柄に集まった血が手の股から漏れてできた神といわれている。古来雨を司る神竜神としての信仰があることから、農耕の護り神としてお祭りしたのだろう。
松尾神社の境内末社
- 1. 御先社
-
天の八街にいた国津神である猿田彦命を祀った社である。この神は天孫ニニギノミコトが高天原から降臨されたとき、その先導をした神として知られる。
道の神としての信仰があり、往来する人々の安全を祈願して御祭りしたのであろう。 - 2. 新田神社
-
南朝時代愛媛県と深い関係にあった忠臣新田義貞公をはじめ、その御子義顕公・義興公・義宗公、その舎弟脇屋義助公とその御子息義治公の御神徳を慕ってその御霊をお祭りしたものである。特に義助公はこの地で疾病に悩まされたが、回復され後に疾病の神として崇められた。
生前井上忠衡当社宮司は、本来の新田大神とは疫病退散神としてのスサノオノミコトと明言された。毎年9月3日を例祭日として、併せて末社全ての祭典を同時に行っている。正岡校区では他に中西内・鎮守神社でも新田祭りを休日に開催している。 - 3. その他
その他として、牛馬の神として奈良原神社、英雄神として鷺神社などを祀る。
※なお、松尾社自体が風早宮大氏神の境外末社である。
松尾大社・松尾神社についての考察
神社は日本人の住むところ、生活の営まれるところには必ず存在した。一定の地域に定住して共同して開拓し、耕作に従事した農耕社会では、その共同体ごとに共通の守り神を祀った。
村落社会が作られると古代的な氏神から地縁神への大きな転換期を迎えた。そして15世紀以降の中世郷村制の成立に呼応して、県下でも神社を中心とした村の結合が生まれた。
旧北条市に現存する神社のうち、河野氏にかかわりを持つ神社は多く、各地に分布している。河野氏関連を社伝とする神社は、三浦章夫氏によると、応永年間(14から15世紀)に各地に勧請されたものが多いという。当社も河野氏とかかわりがあった神社の一つとされ、天明9年(1789)の神社根方帳には「松尾大明神」として記載されている。
(写真楼門は、京都松尾大社)
現在の社伝でも随所の瓦紋は「折敷縮み三文字(大山祇神社神紋)」である。この中西外区内には松尾神社の他に厳島神社、床浦神社、聖神社、蔵王神社が各所に鎮祭されていた。これを明治4年に合祀したものである。
また境内末社は昭和30年代後半に愛媛県立北条高等学校建設に伴う敷地造成に大量の土砂が必要なことから、愛媛県・北条市当局からの懇願を受け、小山にあった社祠を現在地・松尾社境内に遷座したものである。
主祭神である
奥津比古神 。次に奥津比賣命 、亦 の名は大戸比賣神 。此 は諸人 の以 ち拝 く竈神 ぞ。次に大山咋命、亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国 の日枝の山に坐し、亦葛野 の松尾に坐して、鳴鏑 を用 つ神ぞ
神名にある「咋」は、占有の標識を示す杭の当て字と考えられ、字義的には偉大な山の所有者ということになろう。別名の山末之大主神も山頂(または山麓)を支配する偉大なる神という意味であるから、この神は山を支配する山神である。碑文に鎮座地として挙げられている「日枝」の山とは滋賀県に聳える比叡山のことで、太古より今日に至るまで、大山咋命は、比叡山の総鎮守として、大津市の旧官幣大社日吉大社(名神大社)に祀られている。
(神輿渡御の写真は京都・松尾大社御本社のもの)
これにより、両大社の神は同神であることが分かる。
日吉大社(西本宮)は天智天皇が大津京遷都の翌年(668)、新京においても古都大和の大国魂神の守護あらんことを祈念して、大神神社(奈良県桜井市)の御祭神大物主大神を勧請したことに始まる。『日吉祢宜口伝抄』には「天智7年3月3日鴨賀島8世孫宇志麻呂に詔されて、大和国三輪に坐す大己貴神を比叡の山口おいて祭る。大比叡宮と曰ふ」とある。これは取りも直さず日吉大社の祭神は大神神社の祭神とも同じということを意味しており、大山咋神=大物主神(大己貴神)の図式が成り立つ。
一方『群書類従』日吉社の項には、「大宮。三輪同体。號大日枝。山王與三輪一躰事」とあり、こちらの資料も、大山咋神=大物主神であることを意味している。(ちなみに「大宮」とは日吉大社(西本宮)のこと)
ということは、神社伝承学では大物主大神=我が氏神饒速日尊のことであるから、松尾神社の主祭神こそは祭神表記こそ違え、國津比古命神社の主祭神になるわけである。当社は、そもそも國津比古命神社の境外末社という繋がりがあるのだから、本社の御祭神の神威を称えて氏子地域内当村社主祭神に異名とはいえ、祀るのは至極当然のことである。
また当松尾神社は高縄山に向かって、神々しく清らかな旭を浴びるように東面していて、古代海中にあった磐座の上に建立されている。当社から真東に神体山「高縄」が仰げる位置にあることが重要である。高縄山を祭祀する里宮は旧風早郡中でも、当村のこの社が最適の位置だったのである。そして山神を祀った。「大山咋神(おおやまくいのかみ)」の「大山」とは、日吉大社では「比叡山」、分社たる当地でいえば「高縄山」であり、「大きな杭」とは生命躍動・五穀豊穣の象徴で、東天に屹立する雄々しい男根を意味する神名であろう。事実旧風早郡の霊鋒 高縄山頂には古来「州浜宮」という風早宮大氏神(風速国造神社)の奥宮があり、祭神は里宮たる國津比古命神社祭神の饒速日尊と櫛玉比賣命神社祭神の天道日女命が並祭されていたことから、当社は風早開拓の両祖神に対して感謝の誠をささげる「高縄日輪信仰」が行われた太古からの物部氏の聖地であると考えられる。
そうして時は流れ平成21年(2009)秋、初代国造物部阿佐利公風早開府1700年祭を記念する慶節の年に、我が松尾大屋台の完成を見たのである。まさに大山咋命=饒速日尊のご加護である。
古事記にある「
古事記後段
このことについて『秦氏本系帳』という書物には、加茂川の支流のひとつ
松尾大社の神体山の名称が「別雷山」であり、「丹塗り矢懐妊説話」を社伝に伝えるとなると、想起せざるを得ないのが松尾大社と並ぶ京都最古の大社 「上賀茂神社」である。
神が矢に姿を変えて現れる話は上加茂神社の祭神別雷(わけいかずち)大神の縁起として『山城国風土記』逸文が伝えている。
通常、上賀茂神社と呼んでいるが、正式には賀茂別雷(かもわけいかづち)神社という。祭神の賀茂別雷大神は葛城山の峰から山代国に移った賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘・玉依比賣命(たまよりひめのみこと)と山代の乙訓(おとくに)社の火雷神(ほのいかずちのかみ)との間に生まれた若き雷神であったと伝える。
そしてここにも松尾大社の縁起に似通った加茂大神誕生にまつわるエロティックな「丹塗り矢懐妊説話」が伝わっているのだ。
『山城国風土記』によれば、賀茂建角身命は初め大和の葛木山に宿り、山城國岡田の賀茂から木津川を下り、桂川を遡行して久我の国に着いた。娘の賀茂玉依日賣が瀬見の小川(賀茂川)で水遊びをしていたとき、上流から美しい丹塗の矢が流れてきた。比賣はこの矢を拾って持ち帰り、自分の床のそばに立てかけておいた。すると、その矢に感じた比賣が懐妊して、賀茂別雷神を生んだという。
しかし肝心の父親たる「丹塗り矢」の正体を案じた祖父の賀茂建角身命は宴を開き、生まれた御子(孫)に「盃を父と思う神に飲ませよ」と問うと、男子は屋根を突き破り天上へ昇ったとされる。『秦氏本系帳』によれば、松尾大社の祭神である大山咋命をその父神と見なしている。さらに『古事記』でも、この丹塗の矢に化身していたのは、実は秦氏が奉祭した松尾大社の祭神・大山咋神であると記している。
賀茂御祖神社(下鴨神社)では賀茂建角身命と賀茂玉依日賣を祀り、賀茂別雷神社ではその男子である賀茂別雷神を祀っている。
以上の事から、上賀茂神社の賀茂別雷神は母を下鴨神社の賀茂玉依日賣に、父は松尾大社と乙訓(おとくに)神社の祭神である大山咋命(火雷大神)ということになる。または学説では
別雷神は火雷神=大山咋神の分霊
というものもあり、そうなると、
松尾大神=上賀茂大神=日吉大神=日本大国魂・大物主大神=饒速日尊=國津比古命神社主祭神
となるのであって、風早宮大氏神である國津比古命神社(風速国造神社)がいかに全国区的スケール漲る大社かということがお分かりいただけようというものである。
現下の松尾大社の御祭神では大山咋命のほかに市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀っているが、実はそうではなく、加茂別雷(かもわけいかずち)神社の祭神別雷(わけいかずち)神ではないかとする説も昔からある。だとするならば両神は親子仲良く祭神となっていることになる。いずれにせよ京都にあっては火雷神として崇められ、近江の国では比叡神として尊ばれ、苗裔社が極めて多い神である。日吉・松尾の両大社は全国に散在する松尾神社1200社余の総本社であり、我が中西外区鎮座の松尾神社もその一社である。
また近江日吉大社最大の大祭に「山王祭」があるが、東本宮御祭神大山咋神と鴨玉依姫が結ばれ賀茂別雷神を産むという神事である。この祭礼からも、火雷神=大山咋神はほぼ確実と思われる。
以下は日吉大社公式ホームページの大祭紹介文である。
「滋賀県大津市日吉大社山王祭」
東本宮 大山咋神と妃神 鴨玉依姫神の結婚を再現する儀式。 3月上旬に奥宮に上げられた神輿に神様がお遷りになり、山麓の東本宮へお渡り頂く神事。 一説には見合いを済まされたご夫婦の神様の結婚式を再現する神事ともいわれています。 4月12日、暗闇の中、松明の火だけを頼りに急坂を下る様子は大変勇壮で、駕輿丁(かよちょう)と呼ばれる担ぎ手の命をかけて神輿を担ぐ様子は参拝の皆様を魅了します(午の神事)。 13日に行われる宵宮落とし神事と並んで山王祭を代表する神事です。
以上みてきたように、松尾大社と日吉大社、上加茂神社の三社は、深い歴史的関係にあったことが想像される。
ところで松尾大社境内にはおびただしい数の菰樽が各酒造メーカーから奉納されている。これは大山咋命の父神の大年神が穀物の神であり、また兄と姉が食物を煮炊きする竈神であることも考えられるが、後に松尾大社に合祀された大酒神社が、酒造の神として信仰されていたことによるものであろう。したがって中世以降は酒の神としても崇敬され、境内に湧き出る霊泉「亀の井」の水は、醸造の際に加えると酒が腐らないといわれて、全国の醸造業者の信仰が厚い。
本殿(国重文)は室町時代の建造で「松尾造り」と呼ばれる特殊な両流れ造りである。また平安朝の作とされる男神像2躯・女神像1躯(国重文)は我が国で最も古い神像のひとつとして貴重である。
さて松尾大神は「加茂の厳神 松尾の猛霊」と呼ばれるごとく時に神祟を起こす。仁明天皇の承和14(845)年6月、葛野郡の槻の木を切って太鼓を作ったのであるが、この樹木は我が常に遊ぶところであるとお告げがあって、風雨が激しく吹きつのって人が多く死んだり、官吏が馬から落ちて傷ついたりした。神験がはなはだ著しいのに驚いた朝廷は、その太鼓を松尾大社に奉納して祈謝するとともに、7月には神位を従三位に改めた。
その後しばらくしてこの太鼓の皮が破れたので、禰宜の秦真足や祝の秦興主らが太鼓の金輪を盗み、釘や馬鍬を作って売り払ったところ、また祟りがあった。もちろん神官たちは解任されたが、右大臣の源多が奉幣使として神社に参り、太鼓の皮のないのを見て張り改めたところ、神楽の音は以前にも増して響くようになったという。我が松尾神社も早々に敗れ太鼓を張り替えてよかったというものである。そのご神徳が平成21年完成お披露目を迎える松山市随一の規模と装飾を誇る松尾大屋台の完成を見るに至ったのではないか!(右は当社井上宮司の開式太鼓)
このように、この神の神威が厳しくしかも速やかであるので、この頃から、世間ではこの神を猛霊と称するようになった。朝廷では左右馬寮の馬を奉って天皇の病気祈願をする一方、次第に神位を進めて、清和天皇の貞観8(866)年には遂に正一位に叙するに至った。その後も同15年にも神祟があって雨雹の怪があり、馬5匹を奉って神怒を祈謝するなどのことがあった。こうして朝廷ではしばしば神馬や神服を奉っているほか、寛弘元(1004)年に一条天皇が行幸されて以来、たびたび行幸がなされた。
当社は既に延喜の制では名神大社に列し、また京都22社のうち伊勢、石清水、加茂などとともに、上7社のひとつに数えられたが、その後今まで詳述したように朝野の尊崇厚く、皇城守護の神社として現在に至っている。境内はおよそ10万9千坪の広さを持ち摂末社は31社に上る規模宏壮のまさしく大社である。(左は京都松尾大社の祭祀風景)