[第二章] なぜ神輿を擲 って壊すのか
8.風早宮大氏神の境内石鳥居(付録)
〈奉造頭日八幡宮華表 願主 林六兵衛尉藤原信秀
総氏子中
辛
延宝九 歳八月十八鳥 備後尾道住
酉 石屋伊兵衛〉
この石鳥居は、愛媛県下で四番目に古い鳥居である。長浜の住吉神社の鳥居は応永八年、中山町永木の三島神社のは同九年、八幡浜の八幡神社の鳥居は延宝六年(一六七八)で風早宮大氏神の鳥居は延宝九年(一六八一)に建立されている。
延宝九年はその年の九月二八日改元されて天和元年となっている。温古録によると「中古称して頭日神社という。頭日読みて加久弥となす、また頭日八幡宮と称す。‥‥享保中旧号 国津比古神社に復す」とあるから、この鳥居造立の延宝九年頃は頭日八幡と呼んでいたのである。即ちこの鳥居の銘文により温古録の記事を実証したわけである。
〈国津比古命神社は延喜式の古社であり、祭神はこの地方の古い土着の支配者であったろうと想像される。名族越智氏・河野氏そして数々の伝説と文化遺産を残す風早文化の創始者を連想する。この国津神、頭日八幡宮の真実の歴史にこそ、伊予文化の創造期を秘めておるものではあるまいか。(「愛媛県金石史」)〉
この鳥居の特徴は笠木・島木は一つの石からなり、継ぎ手が無い。額束が外されており、その額束は現在、八脚門の裏側に置かれている。「国津彦命・櫛玉姫命」と併記したもので「比古」が「彦」に「比賣」が「姫」に間違って刻まれたため、取り外したといわれている。(「風早三十一号」竹田覚氏」)