[第二章] なぜ神輿を擲 って壊すのか
6.変わりゆく街 変わらぬ人情と祭りの至福
全国広しと雖も、これだけ悠久の歴史があり、祭祀の連続性があり、ロマンを秘めた物語性のある祭礼は数少ないのではないだろうか。先般(平成十六年九月十八日)松山市神社総代会北条分会主催による地域神社参拝が
やがてこの旧風早郡も除除に四国初の五十万都市松山のベッドタウンとして都市化されていくことであろう。目下の大プロジェクトは北条北中学校南側の市道(土手内中西外線)が数年後に立派な都市計画道路になり、JRと立体交差することであろうか。この道は古代より勅使下向の際、官道「勅使道」(「御所道」とも呼ぶ『風早三十一号・平野清隆氏』)として整備されたもので、いわば風早國の朱雀大路にあたる。勅使や伊予国司の下向に供せられた。やはり時代を超えて尚、基幹道路というのは変わらないもののようである。
【関連して現在、「
平野氏の記述に寄ればこの勅使下向は二年に一度とさらに具体的で、一向は御座船により土手の法源寺(土手内246番地)の濱にお着きになり、法源寺で休憩後長裾川に沿ってまっすぐ旧正岡村の光徳院に立ち寄り郷社から県社へと参拝後、帰りは片町の西福寺(辻133番地1)で小休止後再び土手浜より都へ帰られたと言われる。最初に立ち寄り休む法源寺を一ノ宮といい、帰りに休む西福寺を二ノ宮といったという。現在も両寺住職家はそれぞれ一宮と二ノ宮と姓を名乗る。
勅使のお出迎えには氏子一同、大変な心労と出費を要したようで、例えば勅使道には白砂を敷き、その上にコモを敷きそこを長い布を後ろに引きながらお宮へお上がりになっていたという。こうした大切な行事が二年に一度づつあり勅使の饗応に大変な費用と気苦労を要したので、氏子のなかには、いっそのことお宮が無くなればと冗談にも不適切な思いを抱くものも居たそうで、左様な中、たまたま天災で岩瀬川が氾濫し御神体が流れてしまったので、是幸いと「お宮は水害で流れて海中に沈んだ」と朝廷に奏上したので、それ以後、勅使の下向はやまったという。実際には水害の後、風早宮大氏神自体の御神託により、無事、お宮に還御されたことは2節
さて去る平成十七年十月二十三日(日)職場の旅行があり、前日から京阪神を訪れていた私は自由行動のこの日、久々に奈良公園にある春日大社(名神大社・官幣大社)を参拝した。丁度名物の「鹿の角切」行事の最終日であったが、高額な入場料を取られるこちらは覗かず(というか、地元北条鹿島の角切り・【無料】を何度も見聞しているので)、拝殿奥の社殿にて開催された
世は移ろい行こうとも、華やかで命懸けの祭事を未来永劫に遺していくことは、今を生きる風早人の責務である。伊勢神宮の北白川道久大宮司は『慈雨』と題するエッセイでこう述べておられる。
「雨や風をはじめ、その他あらゆる自然の法則と、神々の御恵みを重ね考え合わせますと、その必然に畏敬と感謝の心を抱かずにはいられません。同時に自然のなかに神を感じ、祭りを絶やすことなく続け、つねに自然と共に生きてきた日本人の英知に感動すら覚えます。」
私たちは今後『変えてはいけないこと』『変えても良いこと』を精査しながら、全国に『風早の火事祭り』を正しく発信し続けねばならないと思う。平成十九年十月七日早暁宮出しを前に行われた奉祝式典で屋台頭取会・国津会長の岡本直樹氏(正岡小学校同級生)が特に強調された一節が心に残った。