[第二章] なぜ神輿を擲 って壊すのか
2.御神璽上昇 の地と猪木大魔
初稿ではいささか堅い話が続いたので、今回は風早宮大氏神祭礼にまつわる伝承を、本論への導入として紹介したい。
むかしむかし、立岩(
磐瀬 )川が氾濫、あろうことか御殿が倒壊、國津比古命神社の御神体が斎灘 へ流れてしまった。それからしばらくたったある晩の事、北条区北本町に住む野村氏(平野清隆著「風早第三十号」によると〈元百姓町の野村家の先祖が綿屋であった頃、家の兄弟が夢のお告げを聞いたとされる〉)の夢枕に神のお告げがあった。「わしは、国津の大神である。過日の洪水で今、大浜(栄町)沖の海底に沈んでおる。そなた明朝船を出し、網でもってわしを引き上げてくれないか。その場所には瓢 が浮かんでおり、さらに海鵜が一羽、羽を休めているよ。」と。驚いた野村氏は半信半疑で舟を漕ぎ出だすと、お告げどおり瓢に鵜が留っているではないか!
(ちなみにこの「瓢」は一説によれば、壷とともに母胎を表し、再生、豊穣のための容器と言われる。ここでも物部神道の奥義が感じられる。)
「よし」とばかり網を入れたものの、重たくて重たくてどうしても引き揚げることが出来ない。
困り果て四方を見渡すと、近くで目のらんらんと輝く、屈強な若者が漁をしていた。「おーい。ちょいと手を貸してくれんか」と頼むと、筋肉隆々の若者は快諾、助っ人を買って出ると、あら不思議!難なく一瞬の内に御神体を引き上げてしまった。二人は栄町大浜の良き所を選び、風早宮大氏神のお神主さんに連絡、すぐに還御の祭典を執り行った。すると大神が更に言われるには、「このたびのこと誠に大儀。うれしく思う。これよりこの地を大浜のお旅所に定め、毎年の神幸祭には、ここで祭典を野村家が絶えるまで子々孫々斎行いたせ。また彼の若者に対しては、そなたの住まいする猪木区の世帯が絶えるまで、神幸祭の
供奉 を申し付けるぞよ。」との神託が下ったのである。一説にはその御神像は一時野村家で祭祀していたが、後に付近の宮筥 社(現存・御神体の納まった御箱を祀るにふさわしい神社名である)に祀られ、改めて国津比古命神社に還御されたとされる。これらの由縁により今にこの地(大浜のお旅所)では毎年野村家によって祭事が行われ、宮入りまで、あのいかつい猪木大魔が、沿道の幼児を泣かせながら愛嬌たっぷりと神輿の随伴をしているのである。この地を「おのっと場」とも呼び、秋祭りにはここのみ神輿を床几に据え奉り、祭典や神楽・獅子舞をするようになったという。〔平成四年、市立北条公民館報掲載の井上忠衡宮司玉稿を筆者にて編集〕