[第四章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その2
1 消された「皇大神」の称号
そこで本節ではニギハヤヒこそが真の太陽神・皇祖神であることを探究していきたい。(以下分かりやすく箇条書きとする)
1. 天照御魂神 (男神のアマテル)を奉じる氏族
ここでは、先程紹介した松前氏の指摘を考察する。物部氏の祖神ニギハヤヒの天降りなどは『旧事本紀』にみえるように、もともと神武天皇より先に
その他、大伴氏の祖神である、アメノオシヒも、もともとその一族に
また律令制以前我が国は「
次に天孫降臨の場面で、ニニギノミコトを導いたサルタヒコについて。サルタヒコは
『出雲國風土記』に眼を転じてみると、
『住吉大社神代記』には昔、
その他太陽神を祀る氏族としては、祖神・
尾張氏は海の民としても知られるが、その活動範囲はかなり広範で、新潟県にある越後一の宮 弥彦神社には祖・
また『延喜式神名帳』を見ると、近畿周辺各地にある、天照神社とか天照御魂神社は、天照國照彦天火明命を御祭神としている。(例:竜野市の
また民俗として残る太陽崇拝としては「お日待ち」がある。正月、五月、七月、九月など特定の日におこもりをして、神を祀り酒食を出し、翌朝、日の出を拝して参会するものである。私は平成十八年九月松山市高田(旧北条市・風早郡)のお日待ちを参観させていただいた。ここは何を隠そう風早宮大氏神・櫛玉比賣命神社井上宮司家が組みしてかろうじて残ったお日待ち講であった。輪番制で毎年九月の吉日に当家宅で神事を催し、さすがに現在は宵のうちに散会している。昔は各組ごとに開催されたといい、日神の性格を持つ風早宮大氏神のお膝元ならではの民俗行事である。その他古社に伝わる特殊神事や宮坐行事の中にも太陽崇拝は少なくない。その一つに那智の火祭りがある。七月十四日に太陽を表すという十二体の扇神輿を那智の瀧の前に立て、これに十二本の大松明をかざし烏帽子をかぶった神職が一種の削りかけである打ち松と呼ばれるもので打つという。これは太陽と鳥との結合を表す祭りである。もちろん、那智の火祭りほどまだまだ全国に知れ渡ってはいないが、風早火事祭りもまた日輪信仰そのものの祭祀と古俗を今に伝える祭りである。一方伊勢・志摩地方にも太陽崇拝が多いことは、直木孝次郎氏、岡田精司氏らをはじめとする多くの研究者が指摘するところである。以上この
このように太古我が国では、全国各地で各氏族がいわゆる女王アマテラスとは異系統の男神の太陽神アマテルをを祀っていた、まさに日の神々の坐す本つ國〔日本国〕だったのである。これは海人族との関連が深いもので、太陽神を舟に乗せて迎え祀るという信仰形態を持つものなのである。例えば天皇家の聖地・伊勢神宮でさえ、もとをただせばこの地方土着の海人族によるアマテル信仰が先にあったという説が有力になってきた。(先述のサルタヒコの例)
2. 大歳御祖皇大神
記紀が語るところでは皇祖といえば、女王アマテラスが定説化していることは既に述べた。ここに挙げた
ここでいよいよ
至近距離に水天宮もあるのだが、こちらは折からの七五三の家族連れでにぎわっていた。あまりに対照的光景で、正直ニギハヤヒが可哀想に思えた。同時に奈良時代以降の官憲による神祇政策の証左かと複雑な心境だった。このほかにも数多ニギハヤヒを祀る大社を歩いたが、ここと同様に何故か、その栄光の来歴とは程遠い現状を呈していることは慙愧に耐えないところである。
さて大石町は、今でこそ市街地となっているが、台地と筑後川の自然堤防の上に大石神社遺跡・速水遺跡・南崎遺跡など弥生中期から後期の遺跡が広がっている。大石町の当社の御神体は本殿土間にある巨石で支石墓の上石あるいは古墳石室の蓋石かと推測されているが、江戸時代の『筑後志』や社伝にはこの石が年々肥大化すると伝えている。また石の大きさは、「方九尺」別に「方三尺」という。この巨石を祀る伝承が神社発許に引き継がれているとすれば、祭祀は古く、巨石は磐座である可能性も高い。またこの神社も社名と祭神から見て物部氏の日神祭祀に関連していたと思われる。(奥野宮司談)
また鎮座する大石村の江戸時代の記録には
「当社御神体は天照太神之由申伝候。則、伊勢御前と号奉り候。周迂九尺四面余、厚さ四尺余之大石壱個、同長三尺余之、高サ三尺余之石壱個、右之二石神殿作申候テ、則、御神体と奉崇候。」
以上のように、祭神ニギハヤヒは「伊勢のアマテラス皇大神のさらに御祖皇大神」だということを物語っている。
3. 丹後國一の宮 国幣中社 籠神社
(この又は・こもりじんじゃ) 京都府宮津市大垣
延喜の制では名神大社である。この神社こそ伊勢外宮の旧地と考えられていたため、元伊勢という通称もある。ここは主祭神が彦天火明命。相殿が、天照大神・豊受大神である。つまりここでは、ニギハヤヒは伊勢の天照・豊受大神を従えて主座に鎮座しているのである。このことは、ニギハヤヒが両皇大神宮の御祖だったと解しないわけにはいかない。
またこの神社の宮司は代々海部氏がつとめているのだが、この海部氏は尾張氏と同族で、尾張氏といえば男性の太陽神・アマテルを祀る一族であり、宮司家には、一級の資料として世に名高い国宝「海部氏系図」があって、その祖は御祭神の彦天火明命である。
太陽神を祀る巫女豊受大神の本貫地・元伊勢ともいわれる籠神社の宮司を男性のアマテルの末裔が勤めている事実。豊受大神の祀る本当の皇大神宮(内宮)の太陽神とは、この彦天火明命(=ニギハヤヒ)だったのではないかとますます思えてくる。
4. 大和に眠る太陽の聖都
三輪山と
秀麗な大三輪山は麓に聳える日本最古の社とされる大神神社があり、御神体・神体山である。主祭神は大物主大神で、一般に大国主命に比定されるが、実際にはこの神こそニギハヤヒであることが、原田常治氏による神社伝承学の手法により掘り起された。その著書『古代日本正史』に詳しい。今に版を重ねている。
日本國最初の首都と目される纏向遺跡(百九十~三百四十年)では、古代より神聖視されてきた山や遺跡、神社などを地図上で結び、それらの相関関係が明らかになりつつある。具体的には、大物主大神を祀る三輪山と関係する神社を結ぶとほぼ正三角形がいくつも見つかり、しかもこれらは、三輪山から昇る春分・秋分の日の出を観測するように構成されていることがわかった。また是とは別に三輪山を頂点にしていくつかの聖点をつなぐと西に向っていくつもの正三角形を描くことができる。そしてその聖点のいくつかの箇所で実際に天照御魂神を祀っている。(小川光三著『大和の原像』大和書房)こうしたことから三輪山が古代大和の太陽信仰のメッカだったのではないかとする仮説が実証されつつある。
昭和四十七年纒向遺跡第七次調査で桜井市辻にある川沿いの祭祀穴「土壙4」から「水鳥木製品」が発見された。全長十九・四センチ、最大幅六・六センチ、高さ九・五センチ。桧の一木から刀子などを使って作り出している。ここからは他に、木製高杯、
参考までに平成十二年(二〇〇〇)十一月一日の産経新聞では奈良県柏原市の四条遺跡で六世紀前半ころの古墳の周濠内から、翼がついた状態の鳥形木製品が出土し、県立柏原考古学研究所が三十一日発表したとある。ここでも祭祀などで古墳の周りに並べていたと考えられるという。鳥たちによって魂が天空に召されるという信仰があったのか、あるいは鶏が暁を告げることからの日輪信仰なのか、いずれにしても翼付での発見はこれが初めてということだ。
天岩戸神話における「常世の長鳴き鳥」は神聖な禽獣であり日本でも古来死者再生の儀式に使われたという。各地の古墳から出土する鶏埴輪がそれを物語る。雄鶏信仰の発祥は中国で、弥生時代に稲作とともに伝わったという。その信仰形態は事実式年遷宮でも、クライマックス遷宮祭(御神体を新しい社殿に遷す神事)において鶏が重要な役目を果たすことになる。今日でも遷御の行列の先頭で鶏の鳴き声をまねる行為が行われるのだ。浄闇のなか桧扇で羽ばたきをまねて「カケコウ」(外宮は「カケロウ」)と三度叫んで遷御が開始されている。これは伊勢神宮の古記録『皇太神宮儀式帳』にすでにみえ、おそらくは奈良時代以前からの古い太陽信仰に基づく雄鶏に対する慣習であったと思われる。こう考えると伊勢神宮の祭儀が天岩戸神話を投影している可能性もまた大なりといえよう。鶏が天岩戸神話に出てくるのは、この鳥が中国では悪気邪気を払う能力があるとされ、鶏が鳴けば日の出となることから、太陽をよみがえらせるために鶏を鳴かせることによるものであろう。まさしく二十年に一度神威の陰りを社殿調度の新調によって更新する、太陽の蘇りを願う儀式であるから至極妥当である。
伊勢神宮では、遷宮に先立って行われるいくつかの祭儀で鶏やその卵が神饌として供えられる。このような伊勢神宮と鶏の結びつきも本来太陽神を祀っていた伊勢神宮にふさわしいといえるのではないだろうか。
さて三輪山に秘められた太陽信仰の痕跡はほかにもある。大神神社には神宮寺として平等寺があるが、中興の祖である
〈天皇家の太陽神・天照大神と出雲神・大国主命(大物主大神)は一体であり密教の最高佛・大日如来が化現 したもの〉とする。
このことは三輪流神道の奥義である「伊勢と三輪一体不可分」という神学にも相通ずるところだ。(『三輪流神道の研究』大神神社史編集委員会)また『三輪大明神縁起』には、天照大神は、天上では一柱のアマテラスであったが、日本に降臨して、二所となり、大和國三輪山では大神大明神(大物主大神)、伊勢國神道山では皇大神になったとしている。さらに物事の隠された深層を掘り起こしていく際の手法として以前、愛媛県立松山北高校の恩師(日本史の泰斗) 清水正史先生に伺ったことであるが、文献、考古学資料、市井の伝承に加えて「歌謡」の存在を指摘されたことがある。そのひとつに能楽がある。ここでは室町時代に成立した能楽『三輪』に注目したい。このなかで三輪の神は
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身のおんこと、今更何をいわくらや」
と台詞を述べている。