[第四章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その2
5 型・形(古制 )を守って 心を次代に伝える式年遷宮
-建国の精神を追体験した御木曳行事 …連載を終えるにあたり
平成二十五年に第六十二回を数える伊勢式年遷宮(
一回の遷宮で使用されるヒノキはおよそ一万五千本。当初は神宮の背後に控える山(
実は(平成十八年五月二十五日から二十七日)私たちは愛媛県神社庁主催の「第一次御木曳行事参列の旅」に神社総代会北条支部から神職を含め八人で参加する機会に恵まれた。県全体では二百六十五名、バス七台の集団伊勢参宮である。あいにく期間を通じて曇天または雨に見舞われ、御神木を二㌔にわたって「エンヤ」の掛け声も勇ましく約五百人で曵行し、無事に外宮まで納めたのであるが、事前に購入した法被白装束の上から
そもそも遷宮制度は持統天皇の御発意により、西暦六百九十年に内宮で最初の遷宮が行われてから千三百年の長きにわたり継承されてきた世界に例を見ないお祭りである。二十年をひとつの区切りとして
では二十年というのは一体どのような意味があるのであろうか。神宮の
神社伝承学における先哲の研究の成果として、本来ニギハヤヒこそが真の太陽神であり皇祖神であることをベースに、全国でただ一社、ニギハヤヒを始めご一家おそろいで御祭神として祀る風早宮大氏神について、その特異な祭礼形態に秘められた謎を、一兵卒としての少年団活動から中学校三年生での子供大将を経て三十年、宮総代としての今日に至るまで、身近に、自然体で奉仕してきた地元民の立場から探究を行ってきた。全国レベルの関係書籍は巻末に謝意をもって紹介したごとく数多出版されているが、これを地方の観点からいわば相互乗り入れを試みた次第である。四回の連載のなかでは記紀成立以前の原初の神道(物部神道)の姿が、伊勢神宮の式年遷宮をはじめとする祭事に残され、同様の視点から風早宮大氏神の特殊神事(御動座祭)や奇祭(荒神輿の神事)に伝承されてきていることを検証してきた。それはひとえに、この我が国の宗廟たる神社界の頂点にたつ神宮と、四国の
本質の論議を解かりやすく展開するために、天照大御神が男神か女神かということの議論も展開してきた。国民の精神的な拠り所であり、またはるか昔、神代のこととて写真もなく当時の尊像として拝顔することも叶わないなかで、皇祖神・太陽神である天照大御神の性別をことさら拘泥することには読者のご意見もあったと拝される。私さえも、伊勢神宮に改めて今春参拝し、いつに変わらぬ静寂と御神威を肌で感じるとき、もはやどちらでもいいではないかとの思いもなくはない。だが男でもなく女でもないとするならば、我が国の正史とされる記紀に、何故女と記述したのであろうか。情緒では流されえない疑問が残る。男ともいえるし女ともいえる存在をあえて女王アマテラスと決めてしまったところに、持統天皇(女帝)を中心とする律令国家体制の整備を目指す宰相 藤原不比等の政治的意図が垣間見られたからに他ならない。
勝者が歴史を作る-----政争に敗れた建国の立役者が傍流に追いやられた物部氏を思うとき、その無念さはいかばかりであろうか。あの勇ましくもなぜかしら哀調を帯びて聞こえる風早ダンジリの太鼓・半鐘の音が、私には大氏神ニギハヤヒからの正しい日本建国史の復元を求める訴えに聞こえてならない。久留米市の伊勢天照御祖神社などかって広大な神域、領民の敬慕を受けた全国各地のニギハヤヒを祀る神社が、多く衰微の途時にある実態も、それに拍車をかける。
建国の真の英雄スサノオやニギハヤヒは
最後に、この度の伊勢参拝にあたり真の太陽神・皇祖神ニギハヤヒに拙詩を呈して筆を置くこととしたい。長期のご愛読ありがとうございました。
濱參宮(伊勢二見興玉神祠)
白砂來踏怪巖欹 白砂来たり踏めば怪巌欹 つ 恭頓古祠滄海? 恭しく古祠に頓 く滄海の?(ほとり) 明朝奉曵祈無事明朝奉曵 の無事を祈る 清爽心窩有作時清爽心窩 作す有るの時
平起式上平声四支韻
奉祝伊勢神宮式年遷宮御木曳行事(一)
川流滾滾水?? 川流滾滾水?? 杉樹深攸拝神社 杉樹深き攸 神社を拝す 皇祖遷宮二千歳 皇祖遷宮二千歳 用材奉曵?佳辰 用材奉曵の佳辰 を迎ふ
平起式上平声十一真韻
奉祝伊勢神宮式年遷宮御木曳行事(二)
祠官総代浄心身祠官 総代心身を浄め 欲搬檜材精氣新 桧材を搬ばんと欲して精気新たにす 奇習連綿謝神徳 奇習連綿神徳を謝し 領民舉曳大車輪 領民挙って曳く大車輪
平起式上平声十一真韻