風早国之事
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[第一章] 浄闇の御動座祭は鎮魂祭だ!
10. 物部氏関連神宮・神社(総廟)の御由緒
(資料として=各神社発行の御由緒・名鑑等、または公式・準HP等より)
1. 大神 神社(名神大社・官幣大社)奉拝・現地踏査済
奈良県桜井市三輪1422
- 御由緒
- 遠い神代の昔、
大己貴神 【大国主神 に同じ】が、 自らの幸魂 ・奇魂 を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿 は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられて おり、我が国最古の神社であります。
大三輪之神 として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様 として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。 - 御祭神
大物主大神
配祀
大己貴神
少彦名神
当神社に祀る神、三輪の神、大物主神について、文献で最初に記述されるのは、 我が国最古の歴史書、『古事記』の上巻にあります。
それによれば、大国主神が、自分と協力して、ともに国造りに励んできた少彦名神がなくなられ、 独りしてどうしてこの国を造ればよいか思い悩んでいた時、「海を光 して依り来る神」が あった。その神が、「我がみ前をよく治めれば協力しよう」と申し出た。これに対し、大国主神は、 「お祭り申し上げる方法はどうしたら良いのでしょうか」と問うたところ、その神は、 「自分を倭 の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と希望した。その後に、 「こは御諸 の山の上に坐す神なり」と記されています。
つまり大和の国の周囲を垣のように取り巻いている青山のその東方の山上、三輪山にお祭りした神が、 三輪の神であり、これが大神神社ということであります。続いて、同じ『古事記』中巻の 神武天皇段に至って、三輪の神は「大物主神 」であることが記されます。
また『日本書紀』には、同じ内容が書かれ、大国主神の別名である大己貴神 が、協力者の少彦名神 がなくなられたので、嘆き悲しんでいるところへ、 海を照らしてやって来た神があり、この神は、大己貴神の「幸魂 ・奇魂 (くしみたま)」であると言い、「日本国 の三諸山 に住みたい」と答える。 そして「この神が大三輪の神である」と記しています。
続いて『日本書紀』の崇神天皇8年に、大田田根子 が三輪君族の始祖であり、 三輪の神が大物主神であることが示されています。- 御神徳
- 国造りの神様として、農業、工業、商業すべての産業開発、 方除、治病、造酒、製薬、禁厭、交通、航海、縁結びなど、 世の中の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神として 尊崇されています。
そのご神威は、全国にわたり、古くは朝廷の鎮護として尊崇され、 崇神天皇の時代には、その子供の大田田根子 をして 厚く祭らせられ、長く朝廷の加護を受けました。
平安時代には、大神 祭、鎮花 祭、三枝 祭が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、 臨時の奉幣も多く、神領を寄せられ、神階は最高位の正一位となり、 延喜の制には官幣の大社として、祈年 ・新嘗 ・月次 ・相嘗 のお供物に預かり、 のちに大和国一之宮となり、二十二社の一社に列しました。
中世になると、神宮寺であった大御輪寺や平等寺を中心にして三輪流神道が広まり、 広く全国に普及、人々に強い影響を及ぼしました。
近世に入ると、朱印領を寄せられ、三輪山は格別の保護を受け、 その御神徳とともに広く尊信されました。
明治時代となり、神仏習合は廃されましたが、古来からの由緒によって、 官幣大社となりました。
終戦後は、国家の管理を離れ、国造りの神様、我々の生活をお守りくださる神様としての 信仰が強く、近畿地方を中心に全国からの参拝があり、またご祈祷も多く、 信仰厚い人々に支えられ、社頭は賑わい今日に至っています。 - 最近のエピソード
- 大阪松竹座新築開場十周年記念 藤沢周平生誕八十周年 没後十年「蝉しぐれ」成功祈願祭が大神神社で行われた。
初日を目前に控えた8月30日、 大阪松竹座9月公演『』に出演する片岡愛之助と相田翔子が
大神神社 を参拝し、公演の成功祈願を行ないました奈良県桜井市に位置する三輪山をご神体とする大神神社は、大和国一ノ宮・三輪明神と親しまれている我国最古の神社であり、大阪松竹座の守り神でございます。その大神神社を『』の公演成功祈願のため、片岡愛之助と相田翔子ほか公演関係者が訪れました。
当日は朝からあいにくの雨模様でしたが、成功祈願が始まるころには雨も上がり、すっかり夏の陽気に。国の重要文化財にも指定されている拝殿にて、厳かに成功祈願が行なわれました。その後は三輪山会館へと場所を移し、片岡・相田両名とご出席頂いた報道関係の方たちとの懇親会が開かれました。
以下は、懇親会でのコメントです。片岡愛之助―――
ここ(大神神社)に来て、どんどん元気になっているような気がします。とてもいい"気"を感じますし、パワーをもらいました。
この舞台では激しい殺陣もあったりと走り回っていますね。特に殺陣は歌舞伎と比べてスピードも速くて大変で、周りの皆に非常に助けてもらっています。
相田さんはお稽古の初日から役になりきっていて素晴らしい女優さんだなと思いました。
お稽古も順調で、皆で一丸となって取り組んでおります。あとは千穐楽まで頑張るだけですので、よろしくお願いします。
●文章・画像引用 HP『歌舞伎美人』松竹・歌舞伎公式ウェブサイトより 深謝
2. 大和 神社(名神大社・官幣大社)奉拝・現地踏査済
奈良県天理市新泉町306
- 御由緒と御祭神
- 奈良県天理市新泉町。旧官幣大社(現、別表神社)。
朝和 宮とも称し本殿三宇は境内の西方にあり、中央に大和大国魂神、向って右に八千戈神、左に御年神を祀る。当社の創祀は、『日本書紀』によれば宮中に奉斎されていた天照大神・大和大国魂神を第一〇代崇神天皇の御代、同殿共床の神威を畏み天照大神を皇女豊鍬入姫命に、勅して倭の笠縫の邑に、大和大国魂神を皇女渟名城入姫命に勅して大市の長岡岬に奉遷したのに始まる。その後神教により大倭直の祖、市磯長尾市をして神主に定めたという。第四一代持統天皇の朱鳥六年(六九二)藤原遷都にあたり伊勢・住吉・紀伊の大神とともに奉幣に預った。 『文徳実録』嘉祥三年(八五0)に従二位、『三代実録』貞観元年(八五九)に従一位の神階昇叙がみえ、社伝によると寛平九年(八九七)に正一位が授位されたという。延喜の制では「大和坐大国魂神社」とあり三座ともに名神大社に列し、祈年・月次・相嘗・新嘗の案上官幣及び祈雨の幣帛に預かる。平安中期二二社に列し、国家の重大事があることに奉幣祈願の殊遇をうけた。『新抄格勅符抄』に神封三二七戸が寄せられたことがみえる。例祭は四月一日で、俗に「ちゃんちゃん祭」と呼ばれて有名で宮座の人々が供奉する神幸がある。一月四日の御弓始祭は的を射る神事で、明治維新前は平国広矛神事と称した。他に特殊神事として節分の日の夜半の粥占祭、三月一〇日=御田植祭、五月一日=神楽祭、二百十日=風鎮祭がある。摂社の増御子神社は、猿田彦命・天鈿女命を祀る。四月一日の神幸祭には、二の鳥居の南側にある増御子神社の神輿も渡御する。社伝によれば、成願寺村横馬場より奉遷されたという、明治一〇年(一八七七)摂社となる。同じく摂社の朝日神社は、朝日豊明姫神 を祀る。『三代実録』に貞観一一年(八六九)に従五位下の授位がみえ、明治八年(一八七五)佐保圧から当社境内に奉遷され摂社となる。
3. 石上 神宮(名神大社・官幣大社)奉拝・現地踏査済
奈良県天理市布留町384
- 御由緒と御祭神
- 奈良県天理市布留町布留山。旧官幣大杜(現、別表神社)。石上振神宮・石上布都御魂神社・石上布都大神社。岩上大明神・布留大明神などと呼ばれた、主祭神の布都御魂神を
佐上布都 神ともいい、神代に建甕雷神の帯びていた霊剣、平国之剣ともいう、『記紀』に、神武天皇東征のとき天降り、邪神を破り、国々を平定したので、物部氏の遠祖宇摩志麻治命 をもって宮中に奉斎したと記し、崇神天皇七年物部伊香色雄命 が大臣のとき、詔により天社、国社を定め八百万神を祀らせ布留御魂神とともに石上高庭の地に祀ったのを創始とする。その後、物部氏の歴代奉仕するところとなり、『垂仁紀』には五十瓊敷命 が剣一〇〇〇口を作って神倉に納め、また丹波国桑田村の人甕襲 が八尺瓊勾玉を献じた、とある、延暦一三年(七九四)桓武天皇による山城遷都に際し、神宮の神宝を京に移すことがあり、造石上神宮使石川吉備人は運搬に要する人員を一五万七〇〇〇余人と返答したという。後、天羽斬剣、天日槍の神宝寄贈などを合わせて、古代の武器庫ともいうべき御神宝類を蔵していた。貞観九年(八六七)百姓たちが石上神山を焼いて開墾することを禁じている(『三代実録』)。平安末期永保元年(一〇八一)白河天皇は鎮魂祭のために、宮中の神嘉殿を拝殿として寄進し、寛治六年(一〇九二)には上皇とともに参詣した。鎌倉時代末には寺門の勢力はなはだしく、たびたび抗争し、永禄年間(一五五八-七〇)には尾張の武士乱入により社頭を破却(『布留社式目』)、天正一三年(一五八五)社禄を没収されるなど、中・近世は苦悩の道を歩んだ。いつの世か、御神体布都御魂剣等が拝殿背後に埋められ、封土を築き禁足地と称していた。祭神布都御魂神・布留御魂神・布都斯御魂神は禁足地に埋祭し、宇摩志麻治命・五十瓊敷命・白河天皇・市川臣を拝殿に配祀していたことになる。明治七年(一八七四)、時の大宮司菅政友は禁足地を発掘して多数の玉類・武具・装飾具等を出土。神戸は『続紀』に神護景雲二年(七六八)神封五〇戸、『新抄格勅符抄』に八〇戸の記事がみえ、貞観九年(八六七)神階正一位に叙せられた。延喜の制、名神大杜祈年・月次・相嘗・新嘗の祭に預かり、臨時祭の条、石上杜の門の鑰一勾、匙二口を官庫に納め、祭のときに官人・神部卜部一人づつを遣わして門を開き、掃除をして祭に備えよと規定している、社職は、物部氏(のち石川朝臣)と、市川臣(春日臣に属す)が布留宿彌になった系譜とがある。祭祀には、六月三〇日神剣渡御祭があり、本宮で神剣出御祭の後、三島町神田神社へ神剣を奉持し、同社の前で祭典を行い、田植神事をなし還御、夕刻神官参列者茅輪くぐり、その後神剣を本殿に安置する。一〇月一日榜示浚神事。もと榜示杭をたて、境の溝を浚え境界の乱れぬようにした、いま町の境に斎場を設け、榊を立てて邪神の侵入を防ぐ。例祭一〇月一五目、白河天皇の勅使参向に起源し、田町から古幣を奉った後、霊代を鳳輦に乗せ、田町の旅所に至り、還御。一〇月二二日、鎮魂祭、玉の緒祭。二月節分前後と年二回、鎮魂八神を祀る摂末社で、十種神宝をもって、呪文を唱え、玉の緒を結び生命の長寿を祈る。文化財に、拝殿、摂社出雲建雄神社拝殿、七支刀が国宝指定を受け、重文に楼門、色々威腹巻、鉄盾、禁足地出土品、県指定文化財に須恵器大甕、太刀などがある。
4.石切劔箭 神社(式内社)奉拝・現地踏査済
大阪府東大阪市東石切町1丁目1―1
- 御祭神
- 当社は、我が大和民族が皇祖と仰ぎ奉る天照大神の御孫にあたられる瓊々杵尊の御兄、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)とその御子、可美真手命(ウマシマデノミコト)の二柱をお祀りしています。
御祭神は日本国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。尊は神武天皇の御東遷に先立ち、天照大神から十種の神宝をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船に乗り、哮ヶ峰(現在の生駒山)に天降りになりました。そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人々がおりました。尊はその一族の家長である長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚され、可美真手命がお生まれになりました。その後年月を経て神武天皇の東遷に際し、尊と神武天皇はお互いに御所持の天羽々矢を示し合い、共に天照大神の子孫であることがわかり、尊は長髄彦に帰服をお諭しになり、ここに大和建国は成功しました。神武天皇はその功績を称え「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりました。饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意義をもつ御尊名です。
また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、物部一族を率いて神武天皇の親衛を勤められ、十種の神宝によるまじないの神法で多くの人々を救いました。可美真手命とは「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です。 - 御由緒
- 当社の御鎮座につきましては、今からおよそ七百年前の足利時代の末に、社殿及び宝庫が兵火にかかり焼失したため明瞭ではありませんが、『延喜式神名帳』の中には、既に当社の社名が記載されており、また『三代実録』には貞観七年九月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されております。
また、天文五年に当社社家である木積氏の祖先藤原行春大人の記した『遺書伝来記』によると、神武天皇紀元二年、宮山に「上之社」が建てられ、崇神天皇の御代に「下之社(本社)」に可美真手命が祀られたとあります。
本社の祭祀は代々木積氏が司ってきましたが、「木積」という姓は本来「穂積」といい、饒速日尊の第七代目に当たる伊香色雄命が、この穂積姓を初めて名のられ、それ以来物部氏の一統として一氏族をつくり、大和を中心として八方に部族を増大させてゆきました。その御祖先である饒速日尊、可美真手命を御祭神と仰ぎ、ここ「石切」の地に御霊代を奉祀申し上げ、本社の御鎮座となったのであります。木積家は代々神職として朝夕、御皇室の安泰、国家の興隆、崇敬者の無事繁栄を御祈祷し、御加護をお願いして参りました。
5.木嶋坐天照御魂 神社(名神大社・郷社)奉拝・現地踏査済
京都市右京区太秦森が東町50
- 神社縁起
- 木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
この神社は、通称「木嶋神社」又は「蚕の社」と呼ばれる延喜式内社で、天御中主命・大国魂神・穂々出見命・鵜茅葺不合命を祀っている。
「続日本紀」大宝元年(701)4月3日の条に、神社名が記載されていることから、それ以前に祭祀されていたことがわかる古社である。
この嵯峨野一帯は、古墳時代に朝鮮半島から渡来し、製陶・養蚕・機織などにすぐれた技術をもっていた秦氏の勢力範囲で、当神社本殿の東側には織物の祖神を祀る蚕養神社(東本殿)があり、「蚕の社」もそれにちなんだ社名である。
この神社は、古くより祈雨の神として信仰が厚く、参詣の人も多かったことが平安時代に書かれた「日本三代実録」や「梁塵秘抄」などの文献からうかがい知ることができる。
社殿は明治以後のもので、本殿・東本殿・拝殿などがあり、社殿を取囲むように巨樹が繁茂している。本殿の西側には四季湧水する「元糺の池」という神池があり、天保2年(1831)に再興された京都三鳥居の一つとされる石製三柱鳥居が建つ。
例祭は、毎年10月10日が行われるが、夏季土用の丑の日には、この池に手足を浸すと諸病によいという庶民信仰がある。
市内でも最古に属する当神社は、境内から清泉が湧き、巨樹が繁茂して古来の姿をよくとどめており、京都発展に大きな役割を果してきた秦氏との関連を含め、大へん貴重なものとして昭和60年6月1日に京都市の史跡に指定された。
推定面積11.131㎡
天照御魂神社-木島(山城)
木島は社の森がコンモリよく茂って島のように見えるからである。天照国照天火明命が祭神である。『姓氏録』山城国天孫に水主直は火明命の後とある。「同国久世郡の式杜水主神社十座の中に天照御魂神坐す。『国造本紀』の丹波国造(中略)も火明命の神裔にて式同国天田郡天照命神社あり、大和及び摂津の天照御魂神社も其の御裔の氏人の住るより祀り来れることを悟るべし(牒)」。以上により、古来から太陽神(天照命)を祀って来た各地の豪族の子孫が、その氏神を式杜として申請し、天照御魂の神社として許可されたことが知られる。それは皇太神宮の天照大神と神名が似ているから紛れないようにと右のような式社名とし、祭神も右の如く決定された。『古事記』では火明命はホノニニギの命の兄である。『日本書紀』には尾張連の遠祖とある。したがって火明命の神裔を祀るのは、番(ホ)ノニニギの命の子孫すなわち天照皇太神の皇孫たる歴代天皇を地方にあって支持し奉るという意味からである。上代は番と穂は清濁共通。
6.鏡作坐天照御魂 神社(名神大社・県社)奉拝・現地踏査済
奈良県磯城郡田原本町八尾814
- 神社縁起
- 祭神 天照国照彦火明命・石凝姥命・天糠戸命
由緒 「倭名抄」鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。
第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居の内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑におし祀り(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった。社伝によると、「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。
古代から江戸時代にかけて、このあたりは鏡作師が住み、鏡池で身をきよめ鏡作りに励んだといい、鏡の神様としては全国で最も由緒の深い神社である。
鏡作社(鏡作坐天照御魂神社)八尾村にある。
祭神 二座 鏡作麻気神〔天糠戸命 である〕
石凝姥命 〔御子である〕(現在は天照国照彦火明命を併せて三座)
天照大神が磐戸に籠った時、天香具山の銅を取って鏡を鋳て日の像を作った神を石凝姥という。
鏡池 神鏡を鋳て水を注いだ所である〔本は十市郡にあり、のちにここに移した〕。(以上二項『国花記』による
7.粒坐天照 神社(名神大社・県社)奉拝・現地踏査済
兵庫県龍野市龍野町日山463
- 御祭神
- 天照国照彦火明命 (
穂赤熟命 ) - 御由緒
- 人皇第三十二代崇峻天皇、第三十三代推古天皇の御代、播磨国現在の龍野市に
伊福部連駁田彦 という長者があり、人格者で近くの住民に篤く信頼されていた。この彦の邸の裏によく茂った杜があって、推古天皇二年正月一日にこの社の上に異様に輝くものが現われた。彦がこれを見つめていると忽然として容貌端麗な童子の姿となって曰く、『我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守り給うて既に久しい。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。』と。ここで使者の童子はまた忽にして昇天して去り、あとに種稲が残されていた。駁田彦がこの神勅を尊み奉戴することを誓うと彦の田のみならず近くに一夜にして千頂もの水田ができた。駁田彦が中心となって神社を建立奉斉し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。以後この土地はイイボ(粒、揖保、伊穂などいろいろな文字をあてている)の郡と呼ばれ播磨の穀倉地帯となった。駁田彦を始め人々は嬉び感謝し、この神社を粒坐天照神社と称して氏神と崇め今日に到っている。祭神に関する伝承・天照国照彦火明命 天照大御神の太子・正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命の御子にして瓊々杵尊の兄君におわす。篤農特に米作りの神にして穂赤熟命の字も当てる。尾張氏の祖神と言われている。
8.新屋坐天照御魂 神社(名神大社)奉拝・現地踏査済
茨木市西河原3丁目1
- 御祭神
- 天照御魂神(天照国照彦火明命-あまてるくにてるひこほあかりのみこと)
- 御由緒
- 当社は延喜式神名帳(927年成立)に記載された古社である。
当地西河原の周辺はその昔新屋郷といわれ遥か古代から天照御魂神がお鎮まりになった。名神大社の中でも相嘗祭 に朝廷から幣巾を奉られた式内社最高の社格で府下には数社あるにすぎない。天正(1573~92年)の頃までは神域広大神事も盛んに行われ、近隣7ケ村の産土神 として崇敬された。
しかし戦国争乱等により衰運に傾き、寛文9年(1669年)社殿は旧神域の西北隅にあたる今の社地にうつり、同12年現在の社殿が新しく造営された。
現在、本社には主祭神の他、天兒屋根命・建御名方命(タケミナカタノミコト)を相殿に祀り、境内社には八幡神、住吉神、磯良神を祀る東之神社、速素盞鳴尊を祀る須佐神社、宇賀御魂神 を祀る稲荷神社がある。
9.籠 神社(名神大社・官幣大社)奉拝・現地踏査済
京都府宮津市字大垣430
- 御祭神(主神)彦火明命
- 亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。又別の古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に又大汝命の御子であると云い、一に丹波道主王とも云う。
子孫長福、家内安全、諸病平癒の御神徳が聞こえる。 - 御祭神(相殿)天照大神 豊受大神
- 豊受大神は御饌津神とも申され、天照大神は、あまねく萬物を化育される天日の徳のように、天下蒼生を火の徳、高い徳を以ってお恵みに なり、生命を活動させられ、皇室や日本民族の大祖神と仰がれ、御饌津神は天照大神が崇祭された大神である。
海神 - 大元霊神の御徳を分掌せられて、航海の安全、漁業の満足等をお司どりになる。
天水分神 - 大元霊神の御徳を分掌せられて、水の徳を以って諸々の水利、水運、水道等をお司どりになる。奥宮相殿の罔象女命と共に神代以来最古の水神。
- 御由緒
- 神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を
吉佐宮 と申して一緒にお祭り致しました。
その後天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。
両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮 と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました。
10.真清田 神社(名神大社・国幣中社)奉拝・現地踏査済
愛知県一宮市真清田1丁目2番1号
- 御祭神
天火明命 (御本社)天照大御神 の孫神三明 神社(別宮)- 御由緒
- 当社の鎮座する一宮市は、古くは木曽川の流域に沿っていました。流域は常に文化の形成に大きな役割を果たします。一宮の発展にも、木曽川の恩恵があります。今でこそ、繊維の街として有名ですが、もともとこの地域は、木曽川の灌漑用水による水田地帯として、清く澄んだ水によって水田を形成していたため、
真清田 と名付けられたといわれています。
当社の鎮座は、社伝によれば神武天皇33年。古代悠遠の当国の開拓と日を同じくするものと伝わっています。文化は古来、大河の流域に発達するといいますが、尾張国一宮の文化も、木曽川の流域とその開拓によって開けたものです。
当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。
江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。
尚「一宮市」の名称も当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は1市6町に及びますが市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市だけです。
11.天照玉命 神社(式内社)
京都府福知山市今安961
- 御祭神
- 祭神は天照国照天彦火明命で別名を天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊という。先代旧事本紀第五卷天孫本紀に、天照貴の子正哉吾勝々速日天押穂耳尊と、高皇産霊尊の子豊秋幡秋津師姫栲幡千々姫から生まれた兄弟が天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊と天饒石国饒石天津彦彦火瓊々杵尊であるとの系図がのっている。物部氏の始祖饒速日尊は天孫であり、勝速日と饒速日とは尊貴同格との主張である。 さらには尾張連の祖とされる火明命の名を取り込んでいる。複合的な性格の神である。勝速日と饒速日とが兄弟であるとの説から、神武東征は本家と分家の統合、婿入り等の説が出てくる。共に呉の国から逃れてき、勝速日は九州に上陸、饒速日は近畿に上陸、その子孫の合体行動が神武東征であり、快く思わない近畿の地元豪族の長随彦が抵抗したと言うのである。
尾張族の祖天火明命と同一神であるとの見方は、尾張族が物部氏と同族であると主張する事で、天孫族に組み入れられなっかた氏族がせめて天神族である饒速日命と時の権力の中枢にいた物部氏に出自を求めた苦心の作との見方がある。 - 御由緒
- 神祇資料によれば、天火明命12世の孫建稲種命のさらに4世孫大倉伎命が成務天皇の時丹波国造に任ぜられ、在任中に祖神天火明命を祀ったのが創始であるとされる。饒速日命ではなかったのであろう。海部氏の祖神とされる天火明命を祀ったのであろう。
丹後各地には古くから元伊勢の伝承が残るが、この神社も天照の名から伝承が残っている。しかし祭神が天照皇大神や豊受大神に変更されず、よくぞ天火明命の祭神名を今日まで伝えてきたものと思う。地域とその豪族出自の誇りが祖神名を守り抜いたのであろう。天火明命と饒速日命の合成神は強力な神威を示したのである。尾張地方の天照御魂社の大半は天照皇大神に置き換わっていると言われる。
由良川の支流和久川の右岸に鎮座、和久川流域は沃野で、この付近には多数の古墳や条里制の遺構が残っている。 北方300mからは弥生式土器が出土している。遠くからでも杉の社叢がこの神社の歴史を語っているように見える。
12.他田坐天照御魂 神社(名神大社)
奈良県桜井市太田字堂久保
- 御祭神
- 天照御魂神 他に天照大神荒魂、天照国照火明命とか志貴連祖天照饒速日命とする説がある。
- 御由緒
- 式内社他田坐天照御魂神社は桜井市戒重の春日神社にあてる説がある。城上郡と明確に書かれており、春日神社の位置は十市郡にあり、この説には無理があるとしている。 当社も春日神社と称していたが、『大和志』が延喜式神名帳記載の社に比定していこう、社名、祭神を変更したと云う。
この神社のある太田の地から見ると立春・立冬は三輪山山頂付近、春分・秋分は巻向山頂上付近となり、日読みの地であったと指摘されている。
他田は訳語田で、敏達天皇が他田幸玉宮に遷座、日祀部を設置している。この地が日知りに適していたからと言われている。
天照御魂神社と呼ばれる神社は、摂津の新屋坐天照御魂神社、山城の木島坐天照御魂神社などがある。
太田と云う住所名は『播磨国風土記』を思い起こす。呉の勝が紀の国の名草の太田から摂津の太田、播磨の太田へと移っていった記述である。 この太田は一方では普通名詞的であるので、云いにくい所であるが、この巻向の太田もその一連の土地ではあるまいか。紀の国の名草の太田から大和で移った呉勝がいたと考えれば、巻向遺跡の主であるかどうかはともかく、 天照御魂神を斎祀ったとは大変なことで、この神は天照大神の原型ともされる神であること、紀の国の日前宮の神との関連、秦氏の古代史上の役割はどうであるかと云うこと、もの凄い謎を秘めた山辺の道(から少し外れた)神社ではある。真南に箸墓古墳が見える。
13.物部神社(式内社・国幣小社)奉拝・現地踏査済
島根県太田市川合町川合1545
- 御祭神
- 物部神社(石見一宮) 旧国幣小社
大田市川合町川合八百山 山陰本線 石見大田駅より四粁
祭神 宇摩志麻遅命(可美真手命)饒速日尊嫡子 例祭 一〇月九日 神紋 日負鶴
本殿 春日造変態 四三拝 境内 一五、七五六坪 攝末杜 一七社
宝物 高麗狗、曲玉、時雨鉢、刀剣(文化財)、琴 琵琶鎧等教百点
氏子 五百戸 崇敬者 五万人 神事と芸能 奉射察(一月七日)、鎮火祭(七月一九日)、御田植祭(七月二〇日)、鎮魂祭(一一月二四日)、庭火祭(一二月九日) - 御由緒
- 由緒沿革 継体天皇八年勅命により神殿創建、祭神宇摩志麻遅命は物部氏の始祖なり。神武天皇大倭国に御遷都の時大功を表し給いて橿原の朝延を守護し給う。天皇其功を賞で霊神剣(石上神宮奉斎)を腸う。祭神も又天祖より拝承せる一〇種の神宝を奉り給う。斯くて辛酉年正月朔日天皇畝傍橿原宮にて天位に即かせ給う時、祭神は十種神宝を安置し神楯を竪て斎い奉る。此年二月朔日十種神宝を斎きて天皇皇后の御為に御魂を鎮め奉り寿祚を請い祈ぎ奉り給う(今宮中に於て一一月二二日夜行はせらるる鎮魂察茲に始まる)。後、物部の軍兵を率い尾張、美濃、越国等の諸豪族を平定し更に播磨、丹波を経て石見に入り八百山の麓に宮居を築き此地に薨去す、御神墓は社の背の八百山にあり。往古当社は天文年間は一萬三千石の社領なりしが天正年間に至り河合郷二千石に滅じ更に徳川年間に至り三百石の朱印地となる、明治四年国幣小社に列す。(神社本庁別表神社)
物部大明神 安濃郡(大田市川合町川合)にある。
祭神一座 宇摩志間知(可美真手)命(以上『国花記』による)
饒速日尊〔天照大神の曾孫である〕は御炊屋媛(登美夜毘売)〔長髄彦(登美彦)の妹である〕を娶り遂に子を生み熟美真味命という。地神三代を経て神武天皇に仕えた。時に叔父の長髄彦は神武を廃して熟美真味を立てようとしたが、叔父の謀逆に従わず官軍に合力した。天皇はその忠を喜び(布都御霊の)神剣を授けた。命はまた先に饒速日尊から授かった天璽の瑞宝十種の神物を奉献した。常に殿内に近く宿したので足尼〔足尼は官職の名。天皇を輔けて政を修める、今の大臣の如きものである〕といった。また、内の物部を率いて矛楯を立て内裏を警固した〔今武将を物部と称するのはここに始まる〕。また、東夷を征して大功があった。それで熱美真味命と天(日方)奇日方命の二人を申食国政大夫〔今の大連大臣である〕とした。天皇が崩じてのち三年で大和金峯山に入ったというo(『日本書紀』にあり)〔当国に祭る年記は詳らかでない。〕貞観十七年(八七五)十月、神階正五位上
天奇日方命〔素盞鳴尊の曾孫、大己貴命の孫〕は事代主命の長子である。性質は叡明仁恕で神武天皇に事え、申食国政大夫となって天皇を助けた。悪神を治め夷賊を平らげた功功績は大へん大きい。熟美味命と二人は今の左右大臣のようである。
14.天照 神社(県社)奉拝・現地踏査済
福岡県鞍手郡宮田町大字磯光字儀長
- 御祭神
- 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 八幡大神 春日大神 応神天皇 天児屋根命
境内神社―鹿島神社 諏訪神社 住吉神社 疫神社
奉祀者―長屋正之 - 御由緒
- 垂仁天皇16年、饒速日尊は笠置山に降臨、長屋山筒男に神剣を授け人食い?(なまず)を殺さしめた。これにより同帝77年、この神を笠置山頂に奉仕した。允恭天皇の御代、神殿野火にかかり焼亡、宮居を千石原穂掛谷に移した。その後、淳和天皇天長5(828)年冬、宮居を明野(脇野)の里に遷す。陽成天皇元慶元(877)年12月5日、当社は従五位下を授けられた。花園天皇延慶元(1308)年、白き鶴の住む里に廟を遷すべしとの神託があり、宮居を今の地に遷した。造営者は西国探題惣政所玄朝という。霊元天皇延宝八(1680)年、敷地の里人は力をあわせて神殿を造営した。東山天皇元禄八(1695)年、直方藩主黒田伊勢守長清、篤く当社を尊信、神殿より玉垣に至るまで悉く更め造った。それより粥田荘中の尊崇暑く、明治五年郷社に定められ、昭和十一年、県社に列した。
- 例祭
- 一月一日 歳旦祭
一月三日 元始祭(仕事始めに一年の無事を祈る)
一月十三日堂寄 祭(往時のお田植祭に因み豊作祈願)
四月十、十一日 春季大祭(往時の百手祭に因み五穀豊穣を祈る祈年祭)
六月三十日 大祓祭(心身を清め、罪障を除く)
七月中 夏祓祭(御獅子様)、祇園祭
七月二十一日 夏越祭(輪越祭)
十月9、十、十一日 秋季大祭、御神幸祭(九、十日)
15.井関三神社
兵庫県龍野市揖西町中垣内799-1
- 御祭神
- 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 瀬織津姫命、建御名方命
例祭 十月九、十日
神紋 左三つ巴・五三の桐
建物 本殿流れ造り二〇坪・幣殿・拝殿・神輿殿 境内五〇〇〇坪
末社 四社
社宝 社号扁額・王宝石・神武天皇木像・三尊仏木像
氏子 1000戸
崇敬者 5000人
神事と芸能 神幸祭(例祭日) さいれん坊主八月一四日夕(嘉吉の乱で討ち死にした赤松城主の霊を葬うため雨乞い行事と称して執行したのが始まりの隠し供養) - 御由緒
- 崇神天皇二年、播磨の國亀の山に毎夜神光があり、この地に照國照彦天火明櫛玉饒速日命を祀れとの神告により、神社を建立した。以後亀山城主赤松家の崇敬が厚かった。嘉吉の乱により社殿消失。延文二年現在地に遷座。建御名方命は寛文一二年竜野城主脇坂氏が信州諏訪神社より勧請合祀した。
- 宮司
- 丸尾清彦、禰宜丸尾正彦、氏子代表 井上太一 田中勇治
- ● 資料提供 作家 小椋一葉氏より愛知県のご自宅訪問時に頂戴する 深謝
-
奥宮神社(井関三神社の旧宮跡)
祟神天皇が西暦前98年にこの亀の山に天照国照彦火明櫛玉饒速日命を祀られたのが始まりです。現在この神は龍野市揖西町中垣内字井関に遷して祀られ本社として井関三神社と称し、この亀の山には武甕追命が祀られ奥宮神社と称し現在に至っています。この奥宮神社の御神体といわれる巨岩は大昔の自然崇拝といえる信仰形態を現在に残しているものです。
●文章引用 HP『播州野歩記』兵庫県姫路市の松本英二氏より 深謝
16.子之 神社 奉拝・現地踏査済
神奈川県足柄下郡湯河原町福浦129
- 御祭神
- 主祭神―顕斎神として
大己貴命
幽斎神として素盞嗚命
天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊
右は、本来の天照大御神(太陽神)にして、鈴木宮司家の祖先神なり。
その他、日本武尊 、熊野三所大権現[家都美御子大神 、速玉之男神 、熊野夫須美大神 ]を始めとして天地坐八百萬神 を奉祀する。 - 御由緒
- 創建は大変古く、神社に伝わる古記録、古伝承等によれば、平安時代中期の天歴7(953)年[一説に寄れば天慶8(945)年]、当時新井の里と呼ばれた当地で、夜毎海が黄金色に輝くという不可思議な出来事が続きました。そこで、里の中でも長老として尊敬を集めていた村人が、意を決してその場所に近づいてみますと、海上に突き出た大岩の根(岩の基盤部)に、一艘の船が乗り上げていました。その船の中をのぞいてみますと、尊い大神がお乗りになっていましたので、その村人は大神をお迎えし、当地の鎮守としてお祀りしたのが、子之神社の創まりと伝えられ、その村人の名を鈴木善左衛門といい、当社の初代神主となりそれ以来、当社の宮司は鈴木家が継承し、幕末のころ当社の中興として鈴木藤馬宜昌が迎えられ、現宮司鈴木啓介に至るといい、その血脈法統は連綿と継承されています。また、源義家公やその家人荒井刑部實継公一党の崇敬が厚く、源頼朝公も当社を崇敬したといいます。
- 鈴木宮司とは過年、子之神社(当社)で懇談させていただき、親書を賜った。以下要点を記す。(平成一二年九月七日)
- 宮司当代は饒速日尊末裔七十四代である。
- 当社でお祀りしている饒速日尊の御神像(室町期)も、衣冠束帯姿の胸の部分にはきらりと日輪が描かれている。(日神)
- 貴社(風早宮大氏神)同様に荒みこし的な神事「お浜入り、お浜行事」が伝わっており共通点を感じます。神輿を海岸の祭場でお練を行い、海に入るものですかつては、氏子たちを海に投げ入れたり、他の地区の人々は怖くて見物にこられなかったほどの荒々しい祭りであった。今はかなりおとなしくなった。
- 饒速日尊は日本建国王朝の始祖である。神武天皇は王権の簒奪者であると明快に答弁。
- ただ、神武以下の皇統も饒速日尊一族の持つ十種神宝の霊力、神威だけは否定できなかったので、饒速日尊の裔孫たる我が穂積氏が、代々宮中の鎮魂行事を司ってきた。
- 歴代天皇が顕世の王ならば、饒速日尊一族は神世の王である。日と月との関係。
- 貴社のご社名「國津比古命神社」は真の皇祖饒速日尊を祀るに、誠にふさわしい神社名である。
17.唐松神社・唐松天日宮
秋田県仙北郡協和町境
- 御祭神
- 唐松神社 軻具突命、息氣長足姫命、豐宇氣姫命、高皇靈命、神皇靈命
日天宮 饒速日命、玉鉾神、愛子神 - 御由緒
- 神社発行の唐松山御縁起大略によれば、太古、鳥海山に降臨しこの地に居を構えた饒速日命が天祖三神を日殿山に祀り、十種の神宝を安置し日宮と称したのが創祀としている。 その後、饒速日命は畿内に降臨し、後裔の物部氏は神宮皇后の安産祈願と香具土神、宮毘姫命の御霊代を併せて大和国に社殿を建立したと記されている。
その後、崇仏戦争に敗れた物部守屋の一子那加世が東奥の地に分け入り数代の後、元宮である現在地唐松山頂にお祀りしたとされる。
唐松神社に秋田物部文書が伝わっており、秋田県協和町の進藤孝一氏の著作になる秋田「物部文書」伝承(無明社)に紹介されている。唐松とは韓服で神功皇后の御腹帯の意との事である。
進藤孝一氏は「緑なす森林の国」:(古史古伝の謎:新人物往来社)に上記書籍の内容をコンパクトにまとめられているので、これを参考に以下に紹介する。
鳥海山
東北第二の山、美しい姿は出羽富士と呼ばれる。古くからの山岳信仰の山で大物忌み神社が祭られている。
秋田物部氏の記録である「物部文書」には祖神である饒速日命が天の鳥船に乗り鳥海山を目指して天降りしたとある。
天降り
饒速日命は祖神の大命により天の鳥船に乗り、千樹五百樹の繁茂する日本の国を発見し、ここは伊賀志美国なりと鳥海山の潮の処を目指して天降り、国名を「繁木之本」と号した。 天降りは海上経由の移動であるが、鳥海山の麓三崎の半島に上陸したのであろう。
物部氏の出自
天降り伝承を持ち、緑なす森林を崇拝する氏族、朝鮮半島以北の緑の少ない地域の出であろう。 北方系の蒙古族が朝鮮半島を経由して天降り・神宝などの伝承を取り込み、日本列島に渡来した説もある。
秋田物部氏の王国
鳥海山から雄物川中流あたりを支配した。船で雄物川を遡り支流の逆合川を遡上して日殿山に「日の宮」を置いたと物部文書には記載されている。 神祭りの土地である。農耕文化とは疎遠であった暗示する。
秋田物部氏の神々
玉鉾神は地祇神で古代の武器である玉鉾から変じて、邪悪を祓う祭具となった。
愛子神はみやびひめであり、玉鉾の対神としての女神であろうか。
それとも愛宕神で香具土神であろうか。
お姿
秋田は森の多い国である。唐松神社付近も余り開けておらず、森林の豊かな地域である。その中でも多数の杉の大木がそびえ立っているのが唐松神社参道である。 樹齢300年と言う。宮司宅庭内に唐松山天日宮が鎮座する。唐松神社の社殿は参道を徐々に下っていき、低地に鎮座する。古来より立て替えが繰り返されてきたのであるが、古のかたちを守ってきたとのことである。 低地に神を祀っている神社としては大和の広瀬神社が有名である。広瀬神社の現在の主祭神は若宇加能売命であるが、本来は饒速日命もしくは長随彦とも言われる。参道を下る地に祀られているのは蔑まれている神を意味するとも言われる。 長随彦は大和朝廷への敵対者である。饒速日命は共に国中を治めてきた長随彦を裏切った神である。また神社縁起の様に守屋の子孫が建立した神社であれば守屋公を祀るはずであるが、公もまた朝廷側に滅ぼされた敗残者である。祖神であるから祀らねばならず、さりとて朝廷側の目を気にし、また祖神の生前の行動を認めていない証として、低地に祀ったのであろうか。
18.彌彦 神社(名神大社・国幣中社)奉拝・現地踏査済
新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898
- 弥彦神社旧国幣中社
西蒲原郡弥彦村弥彦 弥彦線 弥彦駅より西北一.五粁
祭神天香山命 (栗彦命 、高倉下命 天香語山命 )父は饒速日尊で次男、母は天道日女命
例祭 二月二日
神紋 丸大 本殿 三間社流造 八坪 境内 四九六八五坪 末社 一六社
宝物 志田大太刀、大鉄鉢(重文)、青磁香炉、巴散双鶴鏡(重美)、三家正吉大太刀(県指定文化財)
神事と芸能 弓始神事(一月七日)、燈籠神事(七月二五日)わが国二大燈籠祭りの一、神事は一五日間に亘って行われる、大燈籠二十余数百の田楽燈籠が供せられる。夜宴神事(一月一~三日)、粥占炭置神事(一月六日)、神幸神事(二月一~四日)、鎮魂祭(四月一日、一一月一日)。神歌楽、天狗舞、大々神楽、小神楽等の舞楽がある。いずれも県無形文化財に指定。
由緒沿革 淳和天皇の天長一〇年名神祭に預った古社で、古来越後の一ノ宮と称せられた。祭神天香山命は又の御名を高倉下命と申し、神武天皇御東征の時、紀伊国にて?霊の神劔を奉り皇軍の士気を振起して大功を立て給い、後勅を奉じて遠く越後国に下り、今の三島郡野積浜に上陸して国内を鎮撫し、漁塩耕種の法を授け大いに生民の幸福を増進し弥彦山東麓に宮居して徳を布き、統を垂れ給うた。和銅四年詔に依り神域を拡張し、社殿及び摂末社を造営。仁明天皇の承和九年始めて従五位下を授けられ、延喜の制には名神大社に列し、神階は貞観三年従四位下に陞叙せられた。源頼朝三千貫の社領を定め、又後醍醐天皇は建武二年勅額を奉納し給う。元弘三年には三六歌仙の額を御奉納あり。上杉氏越後の守護となるに及び新たに神田奉納し願文を奉って神祐を祈る等崇敬すこぶる篤く、徳川時代に入り松平忠輝は五百石を朱印地として寄進、明治四年国幣中社に列し、同一一年明治天皇北陸御巡幸の際親しく御参拝遊ばされた。(神社本庁別表神仕) - ●以下文章引用 HP『観光と信仰の里 弥彦』西澤哲司(元村議)氏より 深謝
- 越後平野の中央に国の鎮めと聳えたつ弥彦山の麓に鎮座ましますのが越後一の宮彌彦神社です。
御祭神は天香山名(アメノカゴヤマノミコト)。
天照大神の御曽孫で、天孫降臨に供奉して降り、神武天皇御東遷の時大功を立てられた。
天皇即位4年、勅を奉じて越後の国土開発のためご来臨。弥彦山の東麓に宮居して当地方を鎮撫し、住民に漁業、製塩、農耕、酒造等の術を授けて、当地方の産業文化の基礎を築かれた。
命は実に越後文化産業の始祖神である。
境内内には妃神を始め6代の神々も祀られている。 - 御由緒
- 彌彦神社の創建年代は詳でないが、社記によると和銅4年(711年)、詔により神域を拡げ社殿を造営し、続日本後紀天長十年の条に「名神に預かる」とあり、延喜の制では名神大社に列し、村上天皇の天暦元年(947年)に正一位に進まれた。古来朝廷の御崇敬篤く、明治天皇はご一新にあたり明治11年、北陸御巡幸に際し御親拝相成り、昭和47年には昭和天皇・皇后両陛下御揃いで御親拝の光栄に浴し、更に昭和56年には皇太子、同妃であられた天皇・皇后両陛下のご参拝を仰いだ。
このように皇室を始め戦国の武将、徳川家の将軍等の崇敬頗る篤かったが、それにも増して顕著なのは当地方民衆の崇敬である。「お弥彦まいり」の講参は年々盛んで、また全国からの崇敬者の参拝も年間を通じてきわめて多い。
御社殿と御神木
一の鳥居を潜って左折し手水舎前に来ると、右手に石柵を囲らした浄域があり、椎の大木がある。社伝によると御祭神が携えてこられた椎の杖を地中に挿し、「もしこの地が自分の住むべき土地ならば繁茂せよ」仰せられたところ、芽を出し根を生じて大木となったと語り伝えられている尊い御神木である。
二の鳥居から前方を見ると、秀麗な弥彦山を背景に、髄神門が左右にその翼をひろげ、一歩随神門を入ると眼前に鮮やかな御社殿の全貌が現れる。
拝殿、本殿、祝詞舎、神饌所、回廊とそれぞれに均衡を保ちながら総合して醸し出す美しさは、周囲の緑林と相映じていよいよ一段と荘厳である。
19.金刀比羅宮 (式内社・国幣中社)奉拝・現地踏査済
香川県仲多度郡琴平町892-1
- 御祭神と御由緒
- 始め 大物主大神を祀り、往古は琴平神社と称されました。中古仏教の興隆に伴い、本地垂迹説の影響を被って、金毘羅大権現と改称せられ、永万元年に至って、ご相談殿に崇徳天皇を合わせ祀りました。明治初年になって神仏混淆を廃せられ、元の神社に復り、明治元年七月特に宮号仰出されまして金刀比羅宮と改称され現在に至っております。
御正殿に鎮ります大物主大神は天照皇大神の御弟建速盞鳴命の御子に坐して、御母は刺国若姫命と申されます。大神は父命の御意志を承けて、夙に大八州の国土経営に御心をそそがれました。即ち農業殖産に、漁業航海に、医薬技芸に頗る御苦心遊ばされ、又人民の夭折することを憫れみ、医薬、禁厭、温泉の術を始め給うなど、深く御心を傾けさせ給うて、百般の事業大いに発達するに至りました。後世大神の御余徳を被らぬものは一物もない次第であります。
大神はお若い頃は葦原醜男と申されました。英武絶倫に坐して、国土大いに治まりました為にその御功績を称えて奉って国作大神、天下作らしし大神、大名貴大神、八千矛神、顕国玉神、大国玉神、大名持神、大国主神などたくさんの御名があります。大物主神と申される御名は国土経営全く成って国民を愛撫せられ国土克く治まった時の御名であります。国土経営全く成ったので、国を挙げて之を天孫に譲り奉られました。今日猶神威赫々たるも亦素より其処であります。抑も当宮は、大神が国土御経営の砌、暫し行宮を営まれた御旧蹟と申し伝えられ、神代の昔より御鎮座あらせらるる御縁由いとも深い旧社であります。
又御相殿に鎮ります崇徳天皇は御名を顕仁と申され第七十五代の天皇に坐しましが、御生來御不幸の御身に渡らせられました。宝算五才の御時御即位、永冶元年御譲位まで十九年間御即位になられました。保元の戦乱に際して当国に遷られましてから、深く当金毘羅大権現を御尊信あらせられまして、長寛元年には大身みずから宸翰を御奉納、又本宮の傍ら於て御参籠遊ばされるなどの事がありました。今もその御旧蹟である御所の尾と称される地が残っています。天皇には、終に長寛二年を以って、仮の宮居に崩御遊ばされました事は畏しとも畏き極みでありまして、衆庶深く悼み申し上げぬはなかったとの事であります。
以上のように深い御縁由ある所から、崩御の翌年永万元年七月ひそかに御相殿に齊き奉りました。今から八百年前の事であります。かくあってからは、神威ますます著しく桃園天皇御宇宝暦三年十二月勅願所仰出され、同十年五月、日本一社勅願所たるべき旨綸旨を賜り、爾來明治初年に至るまで、毎年春秋の二季に、禁中より御撫物を当宮別当に下して、宝祚悠久を祈らしめられたのであります。其の他、桃園天皇、後桜町上皇、後桃園天皇を始め奉り歴朝皇室の御尊崇頗る篤く御代拝を差遣わされたり、或いは金品の御寄付あらせられるなどの事があり、尋で光格上皇には天保十年臨時御祈祷仰出され、孝明天皇には安政五年、文久三年の両度臨時祈祷仰出されました。
又明治天皇には明治十六年御思召を以って御短刀一口御寄付仰出され、同二十一年には当宮保存会設立の趣を聞食されて金員を御下賜遊ばされました。近くは、大正天皇、昭和天皇、今上陛下の御参拝あらせられる等皇室の御崇敬の篤かった外、武門武将より一般庶民に至るまで、広く信仰せられて御神徳は弥々照り輝き、年々歳々全国津々浦々からの賽客は、毎年三百万から四百万と言われ職業の如何に拘わらず詣で来て、それぞれ深い御蔭を戴かれて居るのであります。
以上は極めて概略を申し述べましたが、偉大なる御事蹟、高大なる御神徳に至っては到底よく筆紙の尽くす所ではありません。崇敬者の皆様、希くば敬神愛国の至誠を体され、各業務に精励して、以って、大神の御神慮に副われむことを願って止みません。
20.神倉神社(熊野早速玉大社摂社)
和歌山県新宮市神倉山
- 御祭神
高倉下命 、天照大神- 御由緒
- 新宮市の西端に聳えたつ権現山の南東端、熊野速玉大社の飛地境内となっている神倉山に鎮座している。 御祭神の高倉下命は、神武天皇御東征の時、霊夢の告げにより神剣(建御雷の神より授かる)を得て賊軍を平定したことが記紀に記されている。
高倉下命は、瓊々杵尊 の兄、饌速日命 の御子神で、早くから熊野を統治せられ、後に熊野三党、三山祀官の祖となった神である。
また、神倉山の峻崖は、日本書紀にある神武天皇が登った天磐盾 であると伝えられ、山上の巨岩ゴトビキ岩を神の依り代と仰ぐ原始信仰であり、更に熊野三所大神(早玉、結、家津美御子)が天降り給うた霊所でもある。
これ故に、神倉山は古代より熊野の祭礼場として神聖視され、熊野の根本であるといわれる。 和歌山県指定の史跡となっている。
古記録によると、社殿の外の峻崖上に拝殿があり、御供所、満山社、子安社、中ノ地蔵堂などがあった。 明治三年(1870)の颱風で拝殿は倒壊、同四十年(1907)七月に熊野速玉大社に合祀されたこともあったが、大正七年(1918)、岩下に小祠を再建、昭和に入ってから社務所、神橋、大鳥居(山麓)など建築され、社殿、玉垣、鳥居(山上)、鈴門などを新築し今日に至っている。
山麓の社務所北隣には妙心寺がある。 神倉の中ノ地蔵堂の本願として知られており、慈覚大師の創立と伝えられ、代々京都から公卿息女の入寺を例とした由緒ある尼寺である。 また、山麓から山上に至る自然石の積み上げによる石段は、源頼朝公の寄進と伝えられ、鎌倉時代の貴重な遺物として知られている。 - 特殊神事
- 二月六日夜(旧暦正月六日)に行われる火祭りである。
午後五時過ぎ警固、御幣三本、神饌唐櫃、迎火松明、本社神職、助祭員、介釈(二十五人)の行列で、熊野速玉大社より神倉神社へ出発する。 妙心寺に参拝し社務所にて小憩、神職は山上に登山、介釈は中ノ地蔵で上り子を制する。
午後七時過ぎ、斎火を焚き、これを松明に移して宮司祝詞を奏し、迎火松明につけ、中ノ地蔵堂に至り、祈願者各自の松明に点火する。 次に祈願者(上り子)が山上の玉垣内に入り門を閉じる。
暫時して開門すると、急な石段を千数百人の祈願者が一斉に駆け下りる。 次に宮司以下祭員一同は阿須賀神社に至り、奉幣行事をして熊野速玉大社に帰還する。
お燈祭は、「熊野年代記」敏達天皇四年に「正月六日夜神倉火祭始」とあり、神倉、阿須賀、速玉の順に奉幣行事があることから、「熊野権現垂跡縁起」に示す如く、神来臨の道順を毎年復縁する祭礼である。
和歌山県指定無形文化財。
猿田彦神社 神倉三宝荒神社
神倉山麓には、天孫降臨に「導きの神」の御神徳が高く「天狗さま」として親しまれた猿田彦命の神社が、明治の御代まで鎮座していました。 また、三宝荒神社(火産霊神・誉田別命)は立里(高野山)にあります。
昭和五十六年(1981)に社殿、鳥居、境内、参道等の整備を行い、両神社を御奉斎しています。
-熊野速玉御由緒より- - 御由緒
- 熊野速玉大社の摂社となっているが、熊野修験道華やかなりし頃に語られた縁起であろうが長寛勘文には熊野権現のこの地方における最初の垂迹の地であるとなっている。これによると、九州の英彦山に八角の水晶の姿で降臨し、修験道ゆかりの山々を経由し、切部山から神倉山に天降り、さらに熊野川向こうの石淵の谷に遷って後、速玉社と家津御子社に祀られたと言う。熊野根本大権現と呼ばれた。要は速玉大社より古い信仰の場であったことが認識されている。速玉大社からはゴトビキ岩は見えない。天に向かった男根を祀っていると思わせる信仰と熊野川に坐ます神を祀ったのが始源であると思われる速玉社とは別個の信仰であろう。
御神体はゴトビキ岩である。ゴトビキはヒキガエルの方言。ゴトビキ岩を袈裟岩が支える構造になっている。この袈裟岩の穴から袈裟襷文銅鐸の破片が出土している。弥生後期にはすでに祭祀の場であった。
神武紀に「熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登り、荒坂の津で高倉下から神剣フツノミタマを献じられた」とある。この天磐盾に比定されている。
祭神であったから、高倉下命が剣をささげたのか、後世の記紀の伝承から高倉下命がゴトビキの神となったのかである。熊野国造は物部系であった。当然祖神を祀ったであろう。それが高倉下命であった。丁度中央では物部氏大伴氏が勢いがあった頃、記紀の編纂も行われていた。そういう事から高倉下命が祭神とされたのであろうが、この磐座は何も人格神を必要としない。その姿に打たれる磐座である。 - お姿
- 平家物語巻十の平維盛の熊野参詣の記事に「かんのくらをおがみ給ふに、厳松たかくそびえて、嵐妄想の夢を破り、流水清く流れて、浪塵埃の垢をすゝぐらんとも覚えたり」と見える。あまり良い季候ではなかったようである。
小生は雨上がりの真冬のわりには暖かい穏やかな朝に参詣できた。ゴトビキ岩は遙か太平洋から望める。従って太平洋や新宮市街がよく見える。500段をを越す石段を地元の方々で毎朝登られる方がおられる。雨上がりの朝であったので、滑りやすい石段になっていた。
ゴトビキ磐とその下の巨大な岩盤が見事である。また朱色の柵は遠目からでも鮮やかである。
21.水無 神社〔水無 皇大神宮〕(式内社・国幣小社)
岐阜県高山市一之宮町石原5323番地
- 水無神(御歳神)初代皇后 天照高姫 高照姫命 高照光姫命、紀では
媛蹈鞴五十鈴媛命 。日本の初代天皇である神武天皇の皇后だったと言われている方でして、『日本書紀』では媛蹈鞴五十鈴媛命、『古事記』では富登多多良伊須須岐比売命 、またの名を比売多多良伊須気余理比売 と記されています。小椋一葉氏によると、父は饒速日尊で母は玉櫛姫。また飛騨地方には「位山の主は神武天皇に位をさずくべき神なり」という口碑が伝わっている。これは「位山の主」ミトシが日向から入り婿した神武天皇に大王・饒速日尊の後継者の位を渡した経緯を見事に伝えている。
配祀 大己貴命,三穗津姫命,應神天皇,高降姫命,神武天皇,須沼比命,天火明命
配祀 少彦名命,高照光姫命,天熊人命,天照皇大神,豐受姫大神,大歳神,大八椅命
大己貴命 『一宮御本縁』
高照光姫命 『神名帳頭註』
神武天皇 『飛騨八所和歌裏書』
八幡神 『元禄検地水帳』
天火明命 『神名帳考証』
水神 『先代旧事本紀』
- 御祭神と御神徳
- 水無神として、御年神を主神に外十四柱を祀る。水無神の名はすでに延喜式に記され、清和天皇の貞観9年(867年)従五位上の神位を授けられた国幣社で、代々飛騨一宮と称し、飛騨国中の宗祀と仰がれた。表裏日本を二分する分水嶺に座して、水源と交通の要衝を鎮め『作神様』としても美濃、信濃、越中など広い地域にわたって農業を奨励し民主の安定を進められた神様で、縁故地に多くの分社を擁する。従来より御神徳を慕って、開運厄除け、交通安全、商売繁盛、学業成就、安産、初宮詣などさまざまな願いを持って参拝する人が多い。他に飛騨国中の産土神八十八社を鎮祭する摂末社がある。
- 御由緒
- 古来、飛騨国一ノ宮として名高く、創始年代には、神代にありと社伝にもあるが詳らかではない。史上にあらわれるのは平安書秋、貞観九年(867年)神位を授けられた記事に始まる。 中世鎌倉時代には社領は付近十八ケ村に達し、社家十二人と社運が隆盛であったが、戦乱にかかわり荒廃をみた。江戸時代に入って歴代の領主、代官、郡代(天領時代)の尊崇をうけ、また、一般庶民の厚い信仰にささえられ、明治四年五月14日、太政官布告によって国幣小社に列せられ、昭和10年より国費をもって十年の歳月を要する造営がなされ今日の社殿が完成した。昭和二十一年二月官制廃止後は神社本庁に所属し現在に及ぶ。社名の水無は『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあるが、水主の意味である。社前を流れる宮川の川床があがり、流れは伏流して水無川となり、水無川、水無瀬河原、鬼川原(覆ケ河原)の地名となっているこの宮川のい源流くらい山は日本を表裏一帯に分ける分水嶺になっており水主の神の坐す神体山として当神社の置く宮称している。この霊山には一位の原生林があり天然記念物とされ、平治元年(1159年)には、飛州一宮神主から位山の一位の御笏を献上したことがみえるのをはじめ、一宮神領、位山の一位をもって謹製した笏を歴代天皇に献上するのが例となって今日に至っている。
22.日尾 八幡神社〔日王八幡宮〕(県社)
愛媛県松山市鷹子町894日王山
- 御祭神
- -西玉殿
品陀和気命、帯仲日子命、
-同側玉殿
健内宿弥
-中玉殿
饒速日命
天道日女命
伊予比女命
多紀理毘売命、狭依毘売命、多紀津毘売命
若干柱命
-東玉殿
大帯姫命
-同側玉殿
猿田比古大神
- 御由緒
- 第四十六代考謙天皇の勅願所として、天平勝宝四年(752)宇佐八幡の摂社として神霊を勧請して営まれ、久米八幡と称した。
大仲朝臣久米麻呂(三輪田神主家の祖)と高市古麻呂(武智家の祖)が斎主として奉仕したという。
天平神護元年(765)、朝廷は勅使を下して社殿の補修を行い、神護景雲二年(768)には神衣を納められた。また宝亀元年(770)、同九年(778)にも再度勅使をもって幣帛を奉らしめた。
中玉殿に奉斎する伊予比女命は伊予比古命とともに伊予国の地神として、また部族久米部の祖神として、久米郡神戸郷矢野神山(平井町小屋峠)に祀られていたが、豪雨があり、洪水のため社殿が流されたので、矢野神山より下手の平井谷明神鼻に新たに社殿を遷座し奉った。その後、延喜十七年(798)ころ、また数日に渡り豪雨があり、山が崩れ伊予比女命・伊予比古命の両御神体とも再び漂流、伊予比女命の御神体は日瀬里(今の久米窪田町)の竜神淵に留まれたのを久米八幡に合祀された。
尚同時に流された伊予比古命の御神体は天山町の縦淵に留まられ、そこより居相に遷座され伊予村大神と称えられたが、之が今の椿さん、伊予豆比古命である。
続日本紀(797年)に「天平神護二年(766)夏四月、伊予国久米郡伊予神に従五位を授け、神戸二烟 を充 つ」とあるが、伊予神は伊予比女(伊予豆比女)命、及び伊予豆比古命をさすと思われる。
その後、源頼朝によって、社殿の再興があり、承久年間(一二二〇年ころ)河野通信によって再び社殿の改修が行われた。しかしその後応永年間(一四〇〇年ころ)火災のため社殿・社宝・旧記など悉く焼失してしまった。永享年間(一四三〇年ころ)河野氏によって再び社殿は造営されたが、土民の中に社の領地を侵しとるものや社殿を破り壊すものなどがあった。文明十三年(一四八一、足利時代末期)河野通治はこれらの者を捕らえて罰し、新たに掟を設け、制札を立てるなど、久米八幡の庇護に勤めた。しかしながら、天正十三年(一五八五)秀吉勢の為、河野氏が湯築城に滅びてからは、久米八幡も一時荒廃したという。
慶長八年(一六〇三)加藤嘉明が松前城から松山入城の際に、新しく築かれた城の固目として、城の四方に八幡社を選び八社八幡を定められ、武運長久を祈願せられたが、久米八幡もその一社と定められた。松平(久松)氏松山移封の後も、また藩主の崇敬厚く修築等がたびたび行われた。明治一二年(一八七九)県社に列し、同四〇年には「神饌幣帛料を供進することを得べき神社」として指定され、終戦時にまで至った。
私見であるが、日王山中腹に鎮座する日王大神とは、饒速日尊であると推測する。まさしく太陽神の神名にふさわしい。また伊予三大書家のひとり三輪田米山(明治期の神主)の扁額や神名石、注連縄石など作品も多い。
三輪田米山
書家。神官。久米郡鷹子村(現松山市)出身。日尾八幡神社の神官の家に生まれる。本名は常貞。幼名は秀雄。神官の仕事をしながら書を研究する。41歳で自社の幟を書き、その雄大で力強い書が評判を呼ぶ。隠居した時、自社の注連石・神名石を書き、名声を不動のものとした。以後、石碑のための揮毫(字や絵を書くこと)の注文が次々と寄せられ、松山近郊に数多くの石碑が建てられる。その書の特徴は型破りともいえる自由な造形と気宇壮大な空間感覚にある。豪放無欲な性格で、酒を好み、斗酒なお辞せず、酒至って後、筆をとったと言われる。
23.風早宮大氏神 (夫婦神)
國津比古命 神社(式内社・県社)地元氏神
愛媛県松山市八反地106
櫛玉比賣命 神社(式内社・郷社)地元氏神
愛媛県松山市高田甲702
- 風早宮大氏神延喜式内社國津比古命神社櫛玉比賣命神社略縁起
- 式内社とは、延喜年間(901年-922年)に編纂された「延喜式」『神名帳』に記録されている神社のことをいいます。全国に2861社 (3132座) あり、愛媛県内には当社を含めて24社あります。風早 (風速) の名称は承平年間(931年-938年) につくられた「和名類従抄」『国郡部』に初めて見られます。この地は「國造」である『物部阿佐利』により開拓され、支配されていました。この物部阿佐利命の祖神をお祭しているのが「國津比古命神社」です。
- 御祭神
- 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊 (以下、『櫛玉饒速日尊』といいます。) 相神 宇摩志麻治命 物部阿佐利命 誉田別尊 (応神天皇) そして櫛玉饒速日尊の妃神 (櫛玉の比賣) をお祭しているのが「櫛玉比賣命神社」です。祭神 御炊屋姫命 天道姫命 神社創設の時期は明確ではありませんが、①式内社であること②歴史地理的条件③環境風土の形態から考えて、いまから 1500年以上前と考えられます。
國津比古命神社
國津比古命神社は応神天皇の時代に物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。社号は、初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して國津比古命神社と名を改めました。後に誉田別尊を合祀し『頭日八幡宮』と再び改めましたが、享保年間(約 270年前) に國津比古命神社と旧号にもどりました。天正年間(1573年-1591年) 、戦火のため社殿・宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築し、現在にいたっております。明治 4年に社格が『郷社』になり、同29年『県社』に昇格しました。昭和26年 『八脚門』県指定有形文化財 。 昭和43年 中殿・拝殿改築。 昭和60年 社殿屋根葺替・境内地拡張補強。
櫛玉比賣命神社
國津比古命神社の主祭神である櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしているのが、向かい側の櫛玉比賣命神社です。社号は『祓座大明神』ともいわれました。寛永年間(約360年前) 官命により、南方の小山の頂より現在の地に移されました。古来、地方豪族の氏神として崇敬され、明治29年に社格が『郷社』になりました。
史跡 境内 前方後円墳
昭和43年 中殿 改築。 昭和60年 社殿改築・境内地拡張補強。ご両社はご夫婦なかよく向かいあってお祭りされ,私どもをやさしく見守っていただいております。これが家族円満,夫婦円満(一願成就)の神社であるといわれる所以です。
祓い
人々は春には豊かな実りを祈り,秋には感謝の誠を捧げるために祭をします。祭をする者は「きよらか」でなければならないので,お祓いなどをして心身を清めます。
祭に使う道具なども新調します。(当社の場合は神輿を新調します。)
祈り
日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。時に道臣命に勅したまはく,いま高皇産霊命を以ちて,朕,親ら顕斎を作さむ。汝を以ちて,斎主となして,授くるに,厳姫の號を以てせむと。顕斎とは「そこに神様がおられるようにお仕えすること」です。櫛玉饒速日尊のご神徳は「一願成就」です。國津社の神輿の前で祭を行っている時に櫛玉社のおしのびの渡御(宵の明星の神事)があります。人々の幸福(一願成就)を祈ります。
神人一体
なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。①祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)②祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)①祭の期間は「きよらかな期間」なので,それの終わりを告げる行事としてこれがある。②当社の場合,毎年神輿を新調しますが、伊勢神宮では平成5年10月に式年遷宮(20年に一度すべてを作りかえる)が斎行されます。
感謝
米を作るということを通じて,自然の恵みに感謝する。
結び(よりよく生きる)
①好き,嫌いなく食べる(元気な体)。げんきの「き」の字は「氣」・「気」?生活の中から米をしめ(メ)出していませんか?②言動を正す(正しい言葉づかい)言霊(ことだま・・・言葉の魂)③豊かな自然とご先祖様に生かされていることに感謝する
神詣で(風早の火事祭)
①総論 俗に、半鐘と太鼓をたたきながら、賑やかにだんじりをかくので、「かじまつり」などといわれておりますが、『火事祭』は「ひのことのまつり」と読みます。そのいわれは國津比古命神社にお祭りされている神様の名前に関係があります。お祭りされている神様は『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』と申します。なぜ「ひのことのまつり」なのでしょう。②別火 秋祭の始まる3日前から神職は斎館に参籠して,潔斎を行います。調理に使う火は鑚りおこします。また,秋季動座祭においては此の鑚火により調理した「鮒のいずみや」と「一夜酒」が特殊神饌としてお供えされます。③動座祭(宵の明星・・・顕斎の再現)日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。当社の動座祭には,この顕斎の神事の再現がなされます。動座祭に限って女神である『櫛玉比賣命神社』から祭祀が始まります。御動座は祭式次第の最後に斎行します。これに対し,男神である『國津比古命神社』では御動座は祭式次第の最初に斎行し神輿の前で祭祀をします。ちょうどその御動座祭の時(祝詞奏上の時)『櫛玉の比売』の『宵の明星』の渡御(おしのびの渡御)が斎行されます。これが『顕斎の神事』の概略であります。④解斎の神事 各地区での渡御を終えた四体の神輿は神社にかえり,大勢の氏子崇敬者の見守るなか四十段の石段のうえから真っ逆さまに投げ落とし分霊が表れるまで壊されます。なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。①祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)②祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)⑤一願成就 私どもは『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』の御神徳を一願成就と説いております。『生きとしけるもの』はすべて『火』のおかげをこうむっております。一願成就の「一願」とは「一つの願事」が叶うということよりも,それぞれの人の願事がかなうことによって「世の中の人がみんな幸福になること」であります。これが「ひのことのまつり」の所以であります。
風早の秋祭 「ひのことのまつり」
俗に,半鐘と太鼓をたたきながら,賑やかにだんじりをかくので,「かじまつり」などといわれておりますが,『火事祭』は「ひのことのまつり」と読みます。①そのいわれは國津比古命神社にお祭りされている神様の名前に関係あります。お祭りされている神様は『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』と申します。なぜ「ひのことのまつり」なのでしょう。②動座祭(宵の明星・・・顕斎の姿)「動座祭」は分霊を本殿から神輿にお移しするお祭です。日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。時に道臣命に勅したまはく,いま高皇産霊命を以ちて,朕,親ら顕斎を作さむ。汝を以ちて,斎主となして,授くるに,厳姫の號を以てせむと。動座祭には,この顕斎の「姿」があります。動座祭に限って女神である『櫛玉比賣命神社』から祭が始まります。櫛玉社のご動座は祭式次第の最後に行います。これに対し,男神である『國津比古命神社』ではご動座を祭式次第の最初にします。國津社のご動座のおり(祝詞奏上の頃),『櫛玉の比売』の『宵の明星』の渡御(おしのびの渡御)が始まります。これが『顕斎の神事』の概略であります。③解斎の神事 各地区での渡御を終えた四体の神輿は神社にかえり,大勢の氏子崇敬者の見守るなか四十段の石段のうえから真っ逆さまに投げ落とし分霊が表れるまで壊されます。なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。①祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)②祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)④一願成就 私どもは『天火明命』の御神徳を一願成就と説いております。『生きとし生けるもの』はすべて『日(火)』のおかげをこうむっております。一願成就とは,一つの願事が叶うという意味ではなく,人々の願事が叶うことによって「世の中の人がみんな幸福になること」であります。これが「ひのことのまつり」のいわれであります。