[第一章] 浄闇の御動座祭は鎮魂祭だ!
2. 神武東征(遷)
愛媛県神社庁編の『愛媛県神社誌』に國津比古命神社の特殊神事として「
「
(お渡りの神事)『日本書紀』に記されている『
当社の場合、女の神様が、男の神様に人々の幸福を祈るために『おしのびの渡御』をすることです」
分かりやすい表現ではあるが、正直今一つ釈然としない。そこで原文にあたる事にする。
『日本書紀』巻第三「神武天皇紀」に、以下のような記述がある。
「時に道臣命 に勅したまわく、今、高皇産霊尊 を以ちて、朕、親ら顕斎を作 さむ。汝をもちて斎主となして、授くるに厳姫 の號 を以てせむと。」
これは東征途上(前戌午年九月)の神武天皇自らが皇祖を祀る(憑坐:よりましになる)具体的な内容を記述したものである。
この際「神武東征(東遷)」の経緯を簡単にたどってみよう。
『日本書紀』「神武即位前紀」によると
-御 由 緒-
都農神社は古来日向国一之宮と称え、御祭神は御神徳の高い、大巳貴命 (又の御名大国主命)を奉斎する古社であります。
当社の縁起によれば、神武天皇御東遷の砌、宮崎の宮を御進発になり、途中此の地において、国土平安、海上平穏、武運長久を御祈念の為、御親ら鎮祭されたのを当社の創祀と伝えます。
その後歴代皇室の尊崇篤く、第五十四代仁明天皇の承和四年には官社に列せられ、同十年神階の宣授があり、第五十六代清和天皇の天安二年神階従四位上を奉られ、第六十代醍醐天皇の御代、延喜式神名帳には日向国児湯郡都農神社と撰録せられ、日向国式内社の一つとして登載された日向国一之宮であります。
当神社の旧記によれば、往古は日向国第一の大社として社殿壮大、境内広闊で第三鳥居は十五~六丁、第二鳥居は六~七丁の間に亘って建立せられた古跡が今なお認められ、天正年間大友、島津両武将の争乱に遭い、社殿兵火に罹り、累生秘蔵の宝物、古文書等鳥有に帰し、以来社殿境域次第に縮少の止むなきに至りました。
明治天皇御践祚に際し、王政復古、●?百度維新に従って神祇を崇め、祭祀を重んずるの大典を挙げ給う。
茲においてか当社は明治四年五月十五日県内他社に先んじて国弊社に列せられたのであります。
昭和九年神武天皇御東遷二千六百年記念式典に当たり、記念事業として奉賛会を組織し境内の拡張整備を行ない、概ね現今の深厳なる御社頭の状態を仰ぐに至り、御神威愈々釈然たるを覚ゆる次第であります。
-御 神 徳-
御祭神大巳貴命は国土開発、殖産農耕に特に勲功高くましまし、武神としての霊徳は申すまでもなく、漁業航海守護の神、交通安全守護の神、更には医療の神、縁結びの神、子孫繁栄、福徳円満の守護神として古来地方民の信仰をあつめた御社であります
●文章引用 『都農神社御由緒書』より 深謝
さて神武一行は大和へ進軍しようとしたが、
〈ナガスネヒコはおそらく河内や大和に
物部氏は日神崇拝を持っていたので、その本拠の草香は「
物部氏はヤマト政権に抜擢重用された。初期の天皇家は物部氏としきりに縁組をし、その娘を妃に迎えている。(別添一覧表参照)古代では生まれた子は母方で養われて、またその名も乳母からもらうという風習がみられた。そうしたとき、征服者の男性は被征服者の母方の信仰や伝統を受け継いだ。ヤマト政権の中心にある天皇氏は物部氏の持っていた太陽信仰を取り入れ、日神の
時に長髄彦 、乃ち行人 を遣 して、天皇 に言 して曰 さく、「嘗 、天神 の子有 しまして、天磐船 に乗りて、天 より降 り止 でませり。号 けて櫛玉饒速日命 と曰 す。
是 吾が妹三炊屋媛 、亦の名は長髄媛 、亦の名は鳥見屋媛 、を娶 りて、遂に児息 有り。
名をば可美真手命 と曰 す。
故 、吾 、饒速日命を以 て、君として奉へまつる。夫 れ天神の子、豈両種有 さむや。奈何 ぞ更に天神の子と称 りて、人の地 を奪はむ。
吾 心に推 るに、未必為信 ならむ」とまうす。
天皇の曰 はく、「天神の子亦多 にあり。汝 が君とする所 、是実 に天神の子ならば、必ず表物 有らむ。相示 せよ」とのたまふ。
長髄彦、即ち饒速日命の天羽羽矢一隻 及び歩靫 を取りて、天皇に示 せ奉る。 天皇、覧 して曰 はく、「事不虚 なりけり」とのたまひて、還 りて所御 の天羽羽矢一隻及び歩靫を以て、長髄彦に賜示 ふ。
長髄彦、其の天表 を見て、益?? ることを懐 く。
然 れども凶器已 に構 へて、其の勢 、中 に休 むこと得 ず。
而 して猶迷 へる図 を守りて、復改 へる意 無し。
饒速日命、本 より天神慇懃 したまはくは、唯天孫 のみかといふことを知れり。
且夫 の長髄彦の稟性愎? りて、教 ふるに天人 の際 を以 てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。
其の衆 を師 ゐて帰順 ふ。
天皇、素 より饒速日命は、是 天より降 れりといふことを聞 しめせり。
而して今果して忠効 を立つ。
則ち褒 めて寵 みたまふ。此物部氏 の遠祖 なり。
※:歩靫 …(矢を入れて携帯する容器)
●HP『万葉集を携えて』(田中久光氏)より引用 深謝
次にこの件の現代語訳を掲載させていただく。
12月4日、磐余彦尊 の軍はついに長髄彦 を討つことになった。しかし戦いを重ねたが、なかなか勝利をものに出来なかった。そのとき急に空が暗くなって雹が降り出した。
そこへ金色の不思議な鵄 が飛んできて、磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝いて、その姿はまるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。
長髄というのは元々は邑の名であったが、これを人名に用いたものだった。そこで磐余彦尊の軍が鵄の力を借りて戦ったことから、人々は鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはなまったものである。(奈良市西部富雄あたり・金鵄伝説) 以前、孔舎衛 の戦いにおいて、五瀬命 が矢に当たって戦死したが、磐余彦尊はこれを忘れず常に仇を討とうと考えていた。その機会をここに見つけた磐余彦尊は歌を詠んだ。
「みつみつし 来目の子等が 垣本に 粟生には 韮一本 其根が本 其ね芽繋ぎて 討ちてし止まず」
(天皇(磐余彦尊)の御稜威 を背負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、栗が生え、その中に韮 が一本混じっているその韮の根本から芽まで繋いで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう。)
また次のように歌った。
「みつみつし 来目の子等が 垣本に 植ゑし山椒 口疼く 我は忘れず 打ちてし止まず」
(天皇(磐余彦尊)の御稜威 を背負った来目部の軍勢のその家の垣の本にに植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない今度こそ必ず撃ち破ろう。)
また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を来目歌という。これは歌った人を指したものである。長髄彦は磐余彦尊に使いを送って言った。
長髄彦> その昔、天神の御子が天磐舟に乗って天降られた。御名を櫛玉饒速日命 といわれる。それで我々は饒速日命を主として仕えている。天神の子は二人おられるのか。どうして天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのか。私が思うにあなたは偽物でしょう。
磐余彦尊> 天神の子は数多くいる。お前が主とあがめる人が本当に天神の子ならば必ずその表 があるはずだ。それをしめせ。
磐余彦尊が使いの者に返答すると長髄彦は、饒速日命の持つ天の羽羽矢と歩靫 を磐余彦尊に示した。
(作者注)歩靫は、徒歩で弓を射るときに使うやなくい。
磐余彦尊> これはまちがえない。
長髄彦が示した羽羽矢と歩靫を見た磐余彦尊は言って、自分の持つ羽羽矢と歩靫を長髄彦に示し自分もまた天神の子であることを示した。長髄彦はそれを見て、ますます恐れ畏まった。しかし戦闘は、いままさに始まろうとしており、回避することは難しかった。そして長髄彦の軍は、間違った考えを捨てず改心の気持ちがなかった。
饒速日命は天神が気にかけているのは、天孫である瓊瓊杵尊の子孫だけだということを知っていた。また長髄彦は性質がすねたところがあり、天神と人とは全く異なるところがあるのだということを説いても無駄だと思い殺害した。そして饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順した。
磐余彦尊は饒速日命が天から降りてきた事が事実だと知り、いま忠誠を示したのでこれをほめて臣下に加えて寵愛した。この饒速日命が物部氏の先祖である。
●HP「明日香ちゃんのひとりごと倶楽部」より 深謝
さてこの辺りになると記紀ともに熊野への迂回作戦に到る過程の話は一切載せていない。そこには日本の建国前史の模様を窺い知る上で、とりわけ重要なことが隠されていたのではないかと、八木荘司氏は疑義を呈している。戦前の皇国史観では、東征当時は
この件を『古事記(記)』ではニギハヤヒは皇孫ニニギ(
このニニギの妻が、
考古学資料においても、我が国初の王権の存在が、大和にあったことを如実に物語っている。すなわち三輪山麓の
さらに平成十六年十一月十日の朝刊各紙は、
私見では池上・曽根遺跡も北九州から神武に先駆けて東遷したニギハヤヒ率いる物部一族(物部氏の天降り伝承)の幹部クラスの居館跡と考える。