[第三章] 真の太陽神・皇祖神とニギハヤヒ ~ その1
3 伊勢神宮内宮の御祭神とその変遷
伊勢神宮とは
さて紙面の都合で今回絞って提起したいのは、皇大神宮(内宮)の方である。皇大神宮(内宮)は皇祖天照大御神(神宮では、天照坐皇大御神と称す『皇大神宮儀式帳』)を主祭神とする全国至上の神社で五十鈴川の川上、神路山の麓にある。昔は朝日宮、磯宮、あるいは宇治宮とも称した。
天照大御神との表記は『古事記』に見え、天照大神は『日本書紀』に多く使われている。さて読者の皆様は、天照大御神の性別はと、問われると何とお答えになるだろうか。おそらく大半の方が、女性と答えると思われる。事実『日本書紀』は、本文でも、二つの「
奈良県長谷寺の本尊十一面観音像の右の脇士には雨宝童子立像があり、文字どおり、等身大の少年の表情をしている。そこには「天照皇太神」の扁額があるのだ。また、『源平盛衰記』に収められている説話にも、源中納言雅頼に仕える武士が見た夢に出てくる天照大御神は衣冠束帯に身を固めた貴人の男性として描かれているのである。さらに奈良県桜井市
しかし律令制また明治維新による神道国教化政策の中で、支配する神が天津神であり、国津神はそれに支配される神だという図式を作って、天津神に背く神様は悪神だとする神祇政策が採られた。これにより国津神の総帥家たるスサノオ・ニギハヤヒ父子の相対的神位の低下と、日本創成期の立役者としての栄光の故事来歴がゆがめられることとなった。
『日本書紀』の神話のなかではじめ、天照大神は、
また「古代日本と伊勢神宮」(新人物往来社)によると、第五章・伊勢神宮創始考には次のようなことが記されている。
「扶桑略記」(鎌倉時代)にも伊勢神宮の斎女が、夜な夜な川の主である蛇身と
伊勢神宮の御神体は神鏡・
先年探訪した奈良県田原本町に鎮座する
蛇は男性神としての天照大御神であり、とりもなおさず蛇こそは三輪明神(大神神社御祭神=ニギハヤヒ)の化身として信仰を今に集め、境内には「巳の神杉」があることなどを、私も本誌第五十三号で紹介したところである。今日、蛇は一般に疎ましいもの、忌み嫌われる生物だが、古代人はその瞬きをしない目の光(蛇の目)、脱皮を繰り返しての成長や、四肢がないなど無駄を削ぎ落とし、洗練された体躯に、若返りや死からの再生・神秘と考えられており、蛇には強い生命力、知識があると信じられていた。(「蛇信仰」)その畏敬の念は蛇を大地の神、水の神などとし、自然や生命を支えるものと深く結びつけた。新居浜の太鼓台を思い出していただきたい。最上部の金糸は一対の竜であり、四方のごぶちょい房は、豊かな水の恵みを具象化したものである。それは日本神話の中にもスサノオに退治された
さらに三輪山(桜井市)は我が国最古の神聖な山であったが、その山の主が蛇であることは、前掲二者にも勝る蛇信仰の好例である。ここでは三輪山と蛇神にまつわる伝承を二題紹介する。
A 箸墓伝説(崇神紀)
倭迹迹日百襲姫(ヤマト・トト・ヒ・モモソ・ヒメ)という神がいた。彼女を卑弥呼に擬する人も多い。三輪山の神は蛇であり、倭迹迹日百襲姫はこの神に仕える姫である。日本書紀崇神天皇条に、倭迹迹日百襲姫に纏わる次のような神婚伝承がある。
倭迹迹日百襲姫は三輪の神、大物主の妻となったが、大物主神は夜しか訪問してこないため、姫にはその姿を見ることはできなかった。そこで、そのことを大物主に言うと大物主は、「明朝、櫛笥の中にいるが、姿を見ても驚くな」という。翌朝、姫が櫛笥を開けると、その中にいたのは、【衣紐/したひも】ほどの小さな蛇であった。驚きの声を上げた姫に大物主は、たちまち人の姿に戻り、姫を恨んで「おまえにも恥をかかせてやる」といって、天空を踏み轟かせて三輪山へ帰ってしまった。
姫は後悔して箸で陰部を突いて死んでしまった。そのため姫の墓は「箸墓」と呼ばれた。この墓は、昼は人が造り、夜は神が造ったという。大坂山の石を運んで造ったが、それは山から墓まで人々が立ち並び石を手から手へ渡して運んだ。
B 三輪山の蛇神の目の光(雄略紀)
日本書紀の雄略記に少子部連【栖軽/すがる】が雄略天皇に雷を捕らえて来いと命ぜられ三諸岳(三輪山)の神を捕らえて天皇に献上したが、「【雷兀虫兀虫/かみひかりひろめ】きて、【目精赫赫/まなこかがや】く」大蛇に畏れをなして、天皇は殿中に隠れてしまい、大蛇は元の山に放たれた、という話が載っている。ここでも、三輪神は蛇でもあり雷神でもある、また大蛇と既に理解されていたことが分かる。
このお話は『日本霊異記』にも「雷を捉ふる縁」として載っている。大物主大神は見ることを試みられ、雷神としてその姿を現し、怒りをもって答えた。しかも神の来臨を待って試みられたのではなく、こちらから本拠の山へ登って捉えたというのは、崇神紀よりもさらに三輪の神が格下げされたということであり、しかも神を試みるものは、栖軽という小童神めいた蜂の名前を持つ男であり、巫女でも皇女でもなく、もはや説話Aのような婚姻をもってする対等の関係ではなく、三輪山の祭祀権が掌握されてからの話として書かれる。三輪山にまつわる神話では、『日本書紀』神代巻に「吾は
天照大神は皇祖神の性格の他に日神としての性格も持っている。それは記紀の神話からも分かるが、
以上のことから整理すると、原初各地に異なる太陽信仰を持った氏族が列島には割拠していた。日神信仰は農耕社会たる古代日本では、最も普遍的な信仰であったに違いない。それは現代社会を生きる我々さえもが、新年の初日の出を拝み、手を合わす純朴な行為につながっていると思う。日本のまほろば大和の地では天照大御神は初め日神(男性太陽神)として信仰され、大和朝廷と密接な関係が生じたのは六世紀前半頃、更に皇室の唯一絶対神の地位に上ったのは、八世紀・記紀編纂前後とみる。『日本書紀』は都が平城京にあった西暦七二〇年に編纂された歴史書である。そしてこの時期に何らかの政治的思惑から皇祖神・天照大神を女神に
★ 天皇霊の宿る神山・三輪山
―天皇家が恐れた三輪山の國津神・大物主大神―
① 初代神武天皇皇后は大物主大神の娘
丹塗矢と交わった女
以下HP『天の浮橋(古事記中巻)』から関西風現代語訳で、その内容を引用させていただく。「神武記」
皇后
ところで、日向にいらっしゃったときに、阿多の小椅の君の妹で、名前は
阿比良比売 を嫁はんにしてお生みになった子は、多芸志美美 の命で、次は岐須美美 の命の二柱やった。せやけど、さらに皇后にする美人をお捜しになったときに、大久米 の命が申し上げたんや。「乙女がおりまっせ。この乙女を神の御子ていうんですわ。その、神の御子ていうわけはですな、三嶋の
湟咋 の娘で名前は勢夜陀多良比売 でして、それがごっつうべっぴんやったんで、三輪の大物主 の神さんが心を奪われよって、その乙女が糞をするときに、赤く塗った矢になって、糞をする溝から流れてきて、乙女のそこを突いたんですわ。そしたら乙女は驚いて、飛びあがって身震いしましてん。そして、矢を持ってきて床の辺に置いたところ、たちまちに立派な男になりよったんですわ。そのまま、その乙女を嫁はんにしてお生みになった子が、名前は冨登多多良伊須須岐比売 の命ていうて、そのまたの名は比売多多良伊須気余理比売 ていうんですわ。(これは、そのホトていう言葉を嫌って名前を改めたんや) で、こういう次第で神さんの生ませた御子ていうんですな」さて、七人の乙女が高佐士野で野遊びしたとき、伊須気余理比売がその中におったんや。そこで、大久米の命はその伊須気余理比売を見 て、歌で天皇に申し上げたんやな。
倭の 高佐士野を
七行く をとめども 誰をし枕かむそのとき、伊須気余理比売はその乙女たちの先頭におったんや。そこで天皇は、その乙女らを見て、お心の中で伊須気余理比売の前に立っとるんをお知りになって、、歌でもってお答えになったんや。
かつがつも いや前立てる
兄をし枕かむそこで、大久米の命は天皇のお言葉を、その伊須気余理比売に伝えたときに、〔比売は〕大久米の命の入墨をした目を不思議やと思て 歌ったんや。
あめ つつ ちどり ましとと など黥ける利目
すると、大久米の命は答えて歌ったんや。
をとめに 直に逢はむと わが黥ける利目
そこで、その乙女は
「お仕え申し上げましょう」
て言うたんや。
ところで、その伊須気余理比売の命の家は、狭井河のほとりにあるんや。天皇は、伊須気余理比売のもとにおいでになって、一晩一緒に寝たんやな。
(その河を佐韋河ていうわけは、その河のほとりに山百合がぎょうさんあったんや。それで、その山百合の名前をとって佐韋河て名付けたんや。山百合のもとの名前は、さゐていう)
後に、その伊須気余理比売が橿原の宮中に参内したときに、天皇が歌をお詠みになったんや。
葦原の しけしき小屋に
菅畳 いやさや敷きて わが二人寝しこうして、お生まれになった御子の名前は、
日子八井 の命や。次に神八井耳 の命。次に神沼河耳 の命の三柱や。
② 大田田根子 の苧環型神婚譚
神婚神話・神婚譚とは、神と神との結婚をさすこともあるが、一般には、神と人とが結婚し、神の子の誕生を語る話型をいう。多くの場合、登場する神は男神で、その神と結婚する女は巫女的な性格(
三輪山伝説のこの場合は、男神がもちろん大物主大神でその神婚相手が
以下HP『日本神話の御殿(古事記中巻)』から現代語訳で、その内容を引用させていただく。「崇神記」
この
天皇 の御世 に疫病 が多く起き、人民 が死んで尽 きそうになった。すると天皇 が悲しみ歎 いて神牀 (*8)で寝ていた夜に、大物主 大神(**5)が夢に現れて、「これは我が御心 である。そして、意富多多泥古 (**6)をもって我が御魂 を祭らせれば、祟 りも起こらず、国は安らかに治まるだろう」と言った。このようなわけで
早馬 を四方 に走らせ、意富多多泥古 と言う人を求めると、河内之美努村 (*9)にその人を見つけた。呼び寄せて天皇 が、「おまえは誰の子であるか」と尋ねると、「僕 は大物主 大神が陶津耳 命(**7)の娘の活玉依毘売 を娶 って生んだ子の、名は櫛御方 命の子、飯肩巣見 命の子、建甕槌 命の子、僕 が意富多多泥古 です」と申し上げた。そこで天皇 は大いに喜んで、「天下は治まり、人民 は 栄える」と言って、意富多多泥古 命を神主 として、御諸山 (*10)で意富美和之大神 (**5)の御魂 を祭祀 させた。また、
伊迦賀色許男 命(**8)に告げて多くの平たい土器を作らせ、天神地祇之社 (*11)を定めて奉納 させた。また、
宇陀墨坂神 に赤色の楯 と矛 を祭った。また、
大坂神 に黒色の楯 と矛 を祭った。また、坂の尾根の神や河の瀬の神にも、ことごとく
漏 れることなく幣帛 を奉納 した。これによって
疫病 はすっかり止み、国は安らかに治まった。この
意富多多泥古 と言う人を神の子と知った理由は――。上に述べた
活玉依毘売 はその容姿が整っていた。そこに壮夫 がいて、その容姿や威厳 は比類 なきほどで、夜半 になって突然やって来た。そこで惹 かれ合って結婚して一緒に住んでいる間に、まだ幾時も経 っていないのにその美人 は妊娠 した。そこで父母がその妊娠 した事を怪 しんで、その娘に、「おまえは自 ずと妊娠 した。夫もいないのにどうして妊娠 したのか」と尋ねると、「立派な壮夫 がいて、その姓名も知りませんが、毎晩やって来て一緒に住んでいる間に自 ずと懐妊 しました」と答えた。そこでその父母はその人を知りたいと思って、その娘に、「赤土 を床の前に散らし、糸巻きに巻いた麻糸 を針に通して、その衣 の裾 に刺しなさい」と教えた。そこで、教えられた通りに翌朝に見ると、針でつけた麻糸 は戸の鍵穴 を通り抜けて出て、残っていた麻糸 はたった三勾 (*10)だけだった。そこで、鍵穴 から出たことを知って、糸を辿って行くと美和山 (*10)に続いていて、神の社 に行き着いた。そこで、その神の子と知ったのである。そして、その
麻糸 が三勾 残っていたことによって、その地の名を美和 と言うのである。この
意富多多泥古 命は神君 (*12)、鴨君 の祖。
このように苧環が3
この神婚の件に関連して、夜毎女性の元を訪れる男の正体が彼の衣の裾につけた麻糸をたどることによって蛇神であった神婚譚は『肥前國風土記』
大田田根子という、天皇に貢せられた人物を祭主とすることによって、旧三輪祭祀集団の氏上と氏人との関係を切断したかと思われる。崇神王家が完全に教権を掌握したことを意味する。いかに厚く祀られようとも実質的に神の階級は下がったことになる。大田田根子をもって代表される他国の人が祭主となったとき、旧三輪山神職たち下級の祝たちは、神と人の二重の奴となり、神の分身を奉じて異郷に出て行く。崇神朝のこととして書かれている百襲姫的祭祀と大田田根子的祭祀との間には、本当は三輪王朝から河内王朝へと展開する長い年月が横たわり、崇神紀には二つまとめて記しているけれども、神権と政権との葛藤は王朝が交代されるたびに繰り返された問題であろう。現実に制度化されて政権と神権が全く分離されるのは大化改新以後、天皇制が確立されてからのことになる。
③ 出雲國造神賀詞 ・三輪山の服属譚
この賀詞はどういうものかというと、全国に國造はたくさんいたけれども、奈良・平安時代になってこの就任式が行われたのは、出雲と紀伊の二国だけであった。しかし紀伊國造は朝廷で就任式は行われたが、神賀詞のような服属の誓いはしていない。出雲國造は亡くなるとすぐに兄弟なり子供が後を継ぎ、その前段の火継式を熊野大社で就任式を松江市大庭町の
すなわち、出雲の国をつくりながら、これを天照大神に譲り渡した
大穴持命 (大己貴神 )は、その名を大物主クシミカタマと称え、大和の大御和 の神 なび(三輪山)に移し、皇孫(天皇家)の守り神になります
というものである。この祝詞に従えば天津神に征服された國津神は、朝廷に対し忠誠を誓い、さらに
本来出雲國造の賀詞で挿入すべき事柄でない三輪山の大物主大神が顔を出している。あえて私(大物主大神)も天皇に忠節を近い皇居をお守りしますという誓いを立てる。元三重大学教授・文学博士の岡田精司氏は『神社の古代史』のなかで、もともとは別の形でオオタタネコノ末裔たる三輪氏がしていたのではないかと指摘している。それだけ天皇家が三輪山の神を恐れ、定期的に服属儀礼を出雲國造の口を借りて内外文武百官の前で演出させる必要があったということであろう。
④ 大王(天皇)選定の聖なる場
―三輪山の夢占いによる皇位継承―
天皇霊の鎮まるところである三輪山は、皇位継承に関わる重要な卜占を担っていた。
治世48年春1月10日、天皇は
豊城命 、活目尊 に勅して言った。(作者注)
豊城命は御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)と妃の遠津年魚眼眼妙媛の間に出来た皇子、豊城入彦命。活目尊は御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)と皇后の御間城姫の間に出来た皇子、活目入彦五十狭矛尊を指す。後の活目入彦五十狭矛天皇(垂仁天皇)。
天皇> お前達2人の子は、どちらも同じように可愛い、どちらを私の跡継ぎにするか迷っている。そこで、それぞれ夢を見なさい、夢で占うことにしよう。
二人の皇子は命をうけて、
浄沐 して身を清めてから祈り眠った。(作者注)
浄沐とは、浄は河で水を浴びる事、沐は強飯を蒸した後の粘りのある湯で髪を洗ったりすること。ここでは
禊 ぎの意。次の日の朝、それぞれに見た夢を天皇に話した。
豊城命>
御諸山 に登って東に向かって八度槍を突きだした後、八度刀を空に向かって振りました。活目尊> 御諸山の頂に登って、縄を四方に張って、栗を食べに来る雀を追い払いました。
これを聞いた天皇は夢占いをして二人の皇子に言った。
天皇> 豊城命はもっぱら東に向かって武器を用いたので東国を治めるのが良いだろう。弟は四方に向かって心を配って、稔りを考えているので、我が位を継ぐのが良いだろう。
そして4月19日、活目尊を立てて皇太子とした。また豊城命には東国を治めさせた。これが
上毛野君 、下毛野君 の先祖となった。
この話の舞台が三輪山だということは、三輪山がある時期、天皇位の継承と深く関わっていたのではないかと思われる。天皇と三輪山の関わる話がもうひとつ『日本書紀』にある。
⑤ 三輪山と天皇霊 蝦夷頭領 綾糟 の服属儀礼
『日本書紀』巻第二十「三十代敏達天皇」十年に次のような不思議な記事が見える。
是に綾糟ら、懼然恐懼りて、すなはち泊瀬の中流に下りゐて、三諸岳に面ひて、水をすすりて盟ひて曰さく、
「臣ら蝦夷、今より以後、子子孫孫、清明心を用ちて、天闕に事へ奉らむ。臣ら、もし盟に違はば、天地の諸神と天皇の霊、臣が種を絶滅えむ」とまをす。
辺境を侵した蝦夷の首領者綾糟などを召して、泊瀬川(三輪川)の水に禊ぎをさせて、永久に反逆の心のないことを誓わせたというのだ。服従の誓いを破ったら、天皇が滅ぼすのではなく、「天皇霊」が子孫を根こそぎにするというもの。その「天皇霊」の所在する地が三輪山なのである。
なぜ三輪山に清きあかき心をもって誓わなければならないのか?そして誓約をたがえた場合は゛天皇霊゛に我等の子孫を滅ぼせといったのかということである。
すなわちこの山には大物主大神が居るだけでなく天皇霊が宿る山ということになり、三輪山と天皇家は不可分の関係に合ったということになる。神社伝承学を重視する私見では大物主大神こそは風早宮大氏神ニギハヤヒその人であり、したがってニギハヤヒこそ神武天皇大和入り前の、真の皇祖ということになろう。
大物主大神は記紀完成の天武朝に天皇統治の扶翼神として創出されたとする川副武胤氏の説もあるが、本来その祭祀は縄文時代にまでさかのぼり、アニミズム信仰としてヤマトの國魂として原住民の尊崇を集めていた。そこからシャーマニズムの時代になり大物主大神と倭大国魂神に分化して行ったのである。
その他三輪山伝説に関しては「崇神紀十年九月条(箸で死亡した女と墓)」と「雄略紀七年七月丙子条(捕まった三輪山の神)」をそれぞれA、BとしてⅢ巻3節に掲載しているので参照されたい。これまでさまざまな角度から三輪山にまつわる伝説を見てきたが、特に重要なポイントはA、Bの件であり、ヤマト國魂たるニギハヤヒの祭祀が、崇神天皇のとき皇居から放逐され、さらに斎宮の原型たる皇女をもって祀らしめたが、三輪君氏の台頭でその座が天皇家から移籍換えしたこと、さらに
⑥ 神功皇后の新羅討伐
―軍神としての大物主大神―
筑前の國の風土記に曰はく、氣長足姫尊、新羅を伐たむと欲して、
軍士 を整理 へて發行 たしし間 に、道中 に遁 げ亡 せき。其の由を占 へ求 ぐに、即ち、祟る神あり、名を大三輪の神と曰ふ。所以 に此の神の社を樹 てて、遂に新羅を平 けたまひき。 (『筑前風土記』逸文釈日本紀)神功皇后は
柏日浦 で髪占いを行い(北条鹿島にも髪洗磯 の伝承地がある。その昔、神功皇后が三韓征伐の軍を進められたとき、満ちてくる潮で身を清め、髪を洗われて神々に戦勝の祈願をされたと伝えられている。鹿島山頂の「御野立 の巌 」(三韓征伐時、立ち寄られた神功皇后が鹿島神社・風早宮大氏神で戦勝を祈願されてから頂上の平たい大きな岩に御立ちになった故事による)とともに古くから鹿島の名所の一つに数えられている。)男装してのち国々に命じて船を集め、兵甲を調練しようとしたが、軍卒が集まらなかった。そこで「必ず神の心なむ」として大三輪の社を建て、刀矛を供えると軍衆が自ずと集まったというもの。式内社夜須郡に大己貴 神社(県社)がそれである。(現在福岡県朝倉郡筑前町弥永六九七―三)大己貴神社 夜須郡弥永村(朝倉郡三輪町弥永)にある。
祭神一座 大己貴神〔即ち三輪大明神〕相殿〔東は天照太神、西は春日明神〕
神功皇后元年九月に新羅を征した時に、諸国に船舶を集め、甲兵を練ばしめたが、軍卒が集まらなかった。皇后は、必ず神の心である、と言って大三輪社を立て、刀矛を奉らしめた。すると軍衆は自ら聚まった。
-『和漢三才図会』-
大己貴神社 筑前国続風土記によれば、「大神大明神は弥永村にあり、<延喜式神名帳>に「夜須郡於保奈牟智神社小一座とあるはこれなり。祭るところの神は大己貴命なり。今は大神大明神と称す。御社は南に向かえり。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合わせ祭る。宮所神さびて、境地ことに勝れたり」
<日本書紀>に「仲哀天皇九年秋九月・庚午朔己卯(の日)、(神功皇后)諸国に令して船舶を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し、皇后曰く必ず神の心ならんとて、大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、軍衆自ずと聚る」とあり、九月二十三日(旧暦ゆえ、現在の十月)祭礼ありて、この日神輿御幸あり。御旅所は村の西・十町ばかりの処にさやのもとというところあり、これなり。その他、年中の祭礼たびたび有りしとか。いまはかかる儀式も絶えはてぬ。然れども夜須郡の惣社なれば、その敷地広く、産子(氏子のこと)殊に多くして、人の尊敬浅からず」との記載がみられる。
太宰管内志(国学者・伊藤常足編)によれば「<筑前神社志>に、(神功)皇后より後に嵯峨天皇弘仁二年(八一一)勅願ありてご建立あり。その後、六百六十一年を経て御土御門院文明三年(一四七二)、勅願としてご建立あり。その間、数度造り替えありといえども詳らかならず、伝われる縁起・記録類は天正十五年(一五八七)より九十六年の間、仮殿に居ましける。寛文十二年(一六七二)石鳥居建立。祭礼神幸の儀式は同十三年に再興す。本社、貞享四年(一六八七)改造す。拝殿は元禄五年(一六九二)建立。同六年社領少々、黒田甲斐守寄付し給えり。神職松木氏(本姓大神)先祖より宝永二年(一七〇五)まで六十二代相続せり」とある。
さらに、筑前国続風土記附録にも次の記録がみられる。「神殿一間半・二間半、拝殿二間半・四間、(中略)この村(弥永)及び甘木・隈江・楢原・甘水・持丸・菩提寺・千代丸・牛水・馬田・野町・高田・依井・大塚すべて十四村の産土神にして、夜須郡の惣社なり。頓宮地は本社の西南、八町ばかりにあり。東南十間余り、周りに松杉植わり、中に礎石あり。神幸の時は、ここに仮殿をも葺く。また町の中に浮殿の地あり。切り石ありて里人は神輿林と云う。社内に祇園社・黒殿社・八幡宮・現人社・水神・神池あり」
-境内案内板-
●文章引用 HP『玄松子』より 深謝
⑦ 大物主大神の性格
大物主大神の「もの」とは鬼神交換の表記で、『万葉集』には「
風早宮大氏神の祭祀も神社側の見解のごとく、社殿建造より千五百年以上、物部氏来臨以前から土着の風早氏などによって風早國魂の信
仰(磐坐祭祀)があったものと考えられる。海神を祀る鹿島沖の伊予の二見(
昭和47年5月、鹿島老人クラブが建立