風早宮大氏神延喜式内社國津比古命神社 ・櫛玉比賣命神社略縁起
※当コンテンツは風早宮大氏神が公開配布している両社縁起を元に、氏子崇敬者及びサイトご来訪の皆様方に対し、さらに解かりやすく御神徳を伝えるため、当職(神社総代兼責任役員)を拝命するサイト管理人において、解説文等を補足編集したものです。また当ウェブサイト全般にわたっては、全国神社総代会規約第 3条(事務局:神社本庁)に規定する目的遂行のため、公益性や公共の福祉の増進に寄与することを主眼に置いて編成しています。
式内社とは、延喜年間(901年-922年)に編纂された「
風早 (風速) の名称は承平年間(931年-938年) につくられた「和名類聚抄」『国郡部』に初めて見られます。この地は「國造」である『物部阿佐利』により開拓され、支配されていました。
この
祭神
- 式内社であること
- 歴史地理的条件
- 環境風土の形態
國津比古命神社
國津比古命神社は応神天皇の時代に物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。
社号は、初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して國津比古命神社と名を改めました。後に誉田別尊を合祀し『頭日八幡宮』と再び改めましたが、享保年間(約 270年前) に國津比古命神社と旧号にもどりました。
天正年間(1573年-1591年) 、戦火のため社殿・宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築し、現在にいたっております。
明治 4年に社格が『郷社』になり、同29年『県社』に昇格しました。昭和26年 『八脚門』県指定有形文化財 。 昭和43年 中殿・拝殿改築。 昭和60年 社殿屋根葺替・境内地拡張補強。
由緒原文略記
当社は延喜式神名帳記載の古社なり。社記に云う文徳天皇仁壽元年正月正六位上を授くと。しこうしてその創始は応神天皇の御宇、物部阿佐利風速國造に任ぜらるるやその祖、饒速日尊、宇摩志摩遅命の廟殿を設け祭祀したまひしに起こると称す。後、物部氏、風速氏はその氏神として深く尊崇あり。あるいは神殿を建て、あるいは神領を奉る。殊に物部氏は波田村(現在の正岡郷高田区)神田村(現在の正岡郷神田区)の地を捧ひで神戸を定め、社名を櫛玉饒速日尊神社と称せしを中古、阿佐利命を合祀して國津比古命神社と改む。しこうして物部氏の苗裔代々その神職となりて奉仕し来たれり。これを先生家(せんじょうけ)・國造家(こくぞうけ)と云う。後、応神天皇を合祀し、ついにはこれを主神の如くに思うに到り、その社名をも頭日八幡宮と称せしを、中御門天皇享保年中、旧号に復して、國津比古命神社と称せり。その後、天正年間兵火に罹り社殿宝物等灰燼に化したりしを河野家再び社殿を建築せり。寛保元年松平隠岐守厚く崇敬あり。毎年代官をして参拝せしむべき制を定めらる。また毎年正月、5月、9月には神符を奉らしめ藩主入部在城の年には正月3日、社職登城して謁見を得る制をも掟せらる。殊に旱魃の年には松山領内10郡の代官所より祈雨祭を請托し、その祭費は大割郡費をもって之を支弁せしめられたり。
櫛玉比賣命神社
國津比古命神社の主祭神である櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしているのが、向かい側の櫛玉比賣命神社です。社号は『
由緒原文略記
当社は延喜式神名帳記載の古社なり。文徳天皇斎衡元年3月壬辰従五位下を授けらる。軽島豊明朝、物部阿佐利を風速國造に定めて下らしめたもうや、阿佐利はその祖、饒速日尊社及び当社を創始し、朝夕深く敬虔を捧げられたり。社名は饒速日尊の妃を祭祀せるによりて、櫛玉比賣命神社と称す。その鎮座の地は現今の所よりやや南方なる小山の頂に在りしを、御水尾天皇の寛永年中、官命を受けて現在の地に奉遷したりしなり。中古、祓入座大明神とも称せし事あれども、中御門天皇の享保年中、旧号に復せり。右古来、物部氏、風速氏、越智氏等代々その氏神として崇敬あり。
史跡 境内 前方後円墳
昭和43年 中殿 改築。 昭和60年 社殿改築・境内地拡張補強。ご両社はご夫婦なかよく向かいあってお祭りされ、私どもをやさしく見守っていただいております。
これが家族円満、夫婦円満(一願成就)の神社であるといわれる所以です。
櫛玉比売命神社古墳 国津の丘に櫛玉比売命神社古墳がある。
昭和42年(1967)11月愛媛大学の研究班玉岡・橋本氏らが、この表面実測をしているが、前方後円墳で規模もかなり大きいとしている。古墳の入り口方向は、南から西へ約48度の方向に傾き、後円部の直径約35メートル、前方部の長さは約40メートルで総長75メートルの古墳である。後円部の覆土の高さ約8メートルである。
前方部先端の盛り土の高さは約5メートルで円丘の端からその前方部の中央部の大部分は土を切り取り、社殿並びに前庭広場としており、ただ社殿裏、前方先端部に葺き石が残っていているほかは、ほとんど大部分が、変形している。しかし後円部は完全に残されている。
この櫛玉比売命神社は郷社で天道日女命、御炊屋姫命を祀る。古蹟史に饒速日尊は天照大神の孫ニニギの兄である。饒速日尊は天道日女命を娶り、天香語山、宇摩志麻治の2子を生むとあり、阿佐利は国津比古命神社とともに、饒速日尊の妃を祀り、櫛玉比売命神社を建てた。その頃の神社はやや南方の小山、今の宗昌 寺の丘にあった。後水尾 天皇の寛永年間に命を受けて現在地に奉遷されたもので、中古は祓入坐大明神 と呼ばれた。これは勅使道(現在の北条北中学校南側の市道)が昔宗昌 寺門前まで通じており、まず風早土手浜から上陸した勅使が、最初に妃神たる櫛玉比売命神社に参詣したことを示す位置関係であり、なぜならここでまずお祓いを行ったのである。それからメインの饒速日尊の宮殿を参詣したのである。よって祓入坐大明神 の異名があるのであると、生前、井上先代宮司に教わったことがある。神道の古体を残す伊勢神宮の外宮と内宮の関係に非常によく似ている。
祓い
人々は春には豊かな実りを祈り、秋には感謝の誠を捧げるために祭をします。祭をする者は「きよらか」でなければならないので、お祓いなどをして心身を清めます。
祭に使う道具なども新調します(当社の場合は神輿を新調します。)。
祈り
日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。
時に道臣命に勅したまはく、いま高皇産霊命を以ちて、朕、親ら顕斎 を作さむ。
汝を以ちて、斎主となして、授くるに、厳姫の號を以てせむと。
神人一体
なぜ、神輿を壊してしまうのでしょうか。
- 祭の物忌を解くため(解斎の行為)
神社の信仰で大切にされるのは清浄さです。手水を使い祓いを受けて参拝をするのは、心身を清らかにして神前に出るという考えを形に表したものです。これをより厳重に行うものが「参籠(さんろう=おこもり)」や「禊(みそぎ=潔斎)」です。古くは「参籠」や「禊」によって心身が清浄となる状態を「斎まはり清まはり (ゆまはりきよまはり)」と表現しました。
これは神事にお仕えする者(神職)が守るべき基本的な作法でもありました。
氏子各位においても、祭道の井手(水路や村道)掃除を各区毎で9月に行いますね。あるいは、だんじりや村社神輿を御磨きします。村社境内地の掃除をします。宵祭りには幟や御神燈の設置、注連縄・御幣を街路に張り巡らし、晴れ着である法被や浴衣などをそろえます。各家庭ではご馳走を用意して、杵で御餅をついたりして親戚や知己の仲間を呼んで祝宴(お客事)を催しました。このように神迎えの環境を整え、心身を清らかにして祭りの準備を行うことを「(斎忌・いみ)物忌の期間」と言います。 - 祭具の清浄さを保つため(神威の更新)
- 祭の期間は「きよらかな期間」であるため、それの終わりを告げる行事として
当社の場合、毎年神輿を新調しますが、伊勢神宮では平成25年10月に式年遷宮(20年に一度すべてを作りかえる)が斎行されます。
感謝
米を作るということを通じて、自然の恵みに感謝する。
米作りを中心とした一年サイクルの祭
- 春祭り(祈念祭)
- トシゴイノマツリとも訓み、トシは稲の意で、すなわち稲種を蒔く季節の初めに当たり、その年の五穀豊穣と国家国民の弥栄とを神々に祈る祭で、秋の新嘗祭と相対する極めて重要な祭典で、一般には春祭りとして知られています。
- 夏祭り(風神祭)
- 延喜式祝詞のなかに「天下の公民の作りと作る物を、悪しき風・荒き水に相はせ賜はず、皇神の成し幸へ賜はば」とあり、台風や水害・旱害から稲の生育を守られるべく祈りを捧げる祭りです。
- 秋祭り(神嘗祭)
- カンナメサイとは、元来宮中および伊勢の神宮で行われる、天皇陛下が天照大神に新穀を奉られる祭りです。田圃の中で一番熟れた稲をわずかばかり刈り取り、神様に供える初穂儀礼といえるでしょう。
- 例大祭
- 例祭とは、その神社の恒例として、1年に1回執行する祭儀で、神社の祭りの中でも最も重要な祭典とされています。その期日はおおむね、御祭神に縁故のある日とか、その神社に因縁のある日を選んで定められてあるので、神社によって日が違います。
- 冬祭り(新嘗祭)
- ニヒナメノマツリと訓みます。ニヒナメは新饗の義で、新は新穀、饗は御馳走の意を持っています。つまり、春の初めの祈年祭に五穀の豊穣を祈りましたが、神様の恵みによって今やその収穫を見るに至ったので、まず新穀をお供えして、五穀の悠遠な根源を顧みるとともに、広大な神恩を感謝する為に行うのが、この祭典の趣旨です。ここでは斎行時期として冬祭りの区分にしましたが、収穫祭として秋祭りとの広義な解釈もあります。民俗学者の谷川健一はその著「隠された物部王国」で初穂儀礼(神と人)が終わったあとの人間同士の共同体の祭りと説きました。
結び ~よりよく生きる
- 好き、嫌いなく食べる(元気な体)
げんきの「き」の字は「氣」・「気」?生活の中から米をしめ(メ)出していませんか? - 言動を正す(正しい言葉づかい)
言霊(ことだま・・・言葉の魂) - 豊かな自然とご先祖様に生かされていることに感謝する
風早宮大氏神参拝祈念詞(資料)
(画像提供元等)関連リンク
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- 出雲大社公式ページ
- 石上神宮[いそのかみじんぐう]公式サイト
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古墳の上に造営 祭神は物部氏に連なる
国津比古命神社・櫛玉比売命神社は地元で、ヒサゴの山と呼ぶ国津古墳(円墳)と、櫛玉古墳(前方後円墳)の上に造営されている。
八脚門は愛媛県指定文化財 安土・桃山期の特徴残す
国津古墳の方は一部損壊しているが、櫛玉古墳の方は前方部の前端が残されて社殿(比売神社)が築造されている。
北条市内約300基の古墳のうち、この櫛玉古墳が最大で、首長墓としての様相をとどめている。
日本の古墳時代は3世紀末から7世紀にかけてで、地方の首長墓は、6世紀から7世紀にかけて前方後円墳が採用されている。
このことから、国津・櫛玉古墳の主は、5世紀末頃風早地方に君臨した首長ではないかと思われる。この頃、5世紀末から6世紀にかけては、ちょうど大和地域を中心とする勢力が急速に支配地域を拡大し、その権力が強大化していく時期であった。彼らの勢力は、天神思想によって祖先神や支配者・英雄などの特定個人を神格化し、序列化・支配体制のイデオロギーを確立している。
国津・櫛玉古墳の主と、神社の祭神とが一致するかどうかについて即断は許されないが、古墳の上に神社を造営する考え方は朝鮮半島から伝わった古い形式のものである。
国津の主祭神はニギハヤヒ(フルネームは、天照国照天火明櫛玉饒速日尊)配神は宇摩麻志麻治命 、誉田別命、阿佐利命となっている。ニギハヤヒは記紀によると天孫族の末で神武東征に協力して大和地方を開拓したとある。(ニギハヤヒを祀るのは全国でも少なく、しかも西日本にかたよっている)
宇摩麻志麻治はニギハヤヒの子で、物部連 の祖となっている。
また、櫛玉の主祭神は天道日女命 、配神は御炊屋姫命 双方ともニギハヤヒの妻とされる。
同社の祭神すべてが物部氏の祖に連なるものたちで、物部氏が早くに風早地方に君臨していたことをうかがわせる。
伝承では、物部阿佐利(ニギハヤヒから10代目)が風早地方の国造として5世紀頃に活躍したとする。が、風早についての史実の最初は、物部薬が白村江 の戦い(663年)に参加、唐軍の捕虜となり、690年代に風早の地に帰国する(日本書紀)ものであるが、この薬と阿佐利との関係は不明。いずれにしても物部氏の系譜であることには違いない。
物部氏は軍事・刑罰をつかさどる大氏族で、4から5世紀には大友氏とともに大連 を世襲する。
従って物部氏の勢力は、瀬戸内海が重要な拠点であった当時、風早地方一帯に興亡する水軍勢力と強く結びついただろうと想像できる。その勢力の中心は加羅・百済系であった可能性がある。
同社の創建時期は不明であるが、初め「櫛玉饒速日尊神社」と称し、阿佐利を合祀して現在の「国津比古命神社」に改めたといわれている。その時期は大化改新から平氏滅亡の間(645から1183年=この時期、神社数が増加)という。
阿佐利を祭祀した勢力、それがこの神社を知る上でのポイントであろう。
いずれにしても、秋祭り(10月9,10,11日=当時。現在は体育の日を含む3連休に改変)の神事のおりだけ、井上忠衡現宮司(平成17年5月18日死亡)は、「祠官風早国造物部忠衡」と名乗りを上げて祭神と交わるのだという。
本殿の前にある楼門は、松山の阿沼美神社 に建造したもの(1605年とも、1649年とも伝えられる)を、元禄年間(1688年から1704年)に移転したという。
温和さのなかに華麗さがただよう建築は、安土・桃山時代(1568年から1600年)の特徴がよく表現されており、県指定の文化財となっている。
安土・桃山時代の文化的特質は、折りからの商品経済の発展にともなう、新町人・豪商層の台頭による経済力と、全国統一事業の成果とがあいまって、豪華雄大さと英雄主義的なものを表現しているところにある。なかでも建築関連では、寺社建築にかわって城郭・霊廟建築がさかんとなる。
国津比古命神社にある楼門は、単層の入母屋造りの本瓦葺、八脚門、柱はいずれも円柱仕上げとなっている。
八脚門とは、控柱が本柱の前後に各4本、柱間3間(柱間が3箇所の意)で、出入り口はその中央になっており、古来最も多い様式のものを指す。
桃山時代の中心様式であった一部唐様の和様建築(折衷様)、桁を支える蟇股 の風格、その内側の動物や植物の彫刻の技法は、華麗雄大な面影を伝えている。
入り口上部の紅梁(ごうりょう=柱上の組物間にかけられた反り上がった梁)など部分的な補修が数度と、1980年に屋根を葺き替えた以外は当時のままであるという。
両脇に立つ1.5㍍ほどの色あせた髄神が300年近い歳月を物語っている。
この楼門が阿沼美神社 から運び込まれたエピソードについては、次のような面白い話と共に、当時のおおらかな心が伝えられている。
両神社の神官は日頃から気ごころの知れた仲であったが、ある日、話が阿沼美神社 に建造された立派な楼門のことになり、一夜のうちにこの門を運び去るものがいれば、そのものにやるということになった。
そこで、楼門がなかったのか、国津比古命神社は、すべての氏子を集めて敷石ごとこの楼門を運び去ったという。
阿沼美神社 側では、はじめまさかと思っていたが、本当に運び去られてしまってがっかりしたと伝えられているが、真偽の程はわからない。
さて、同社の秋祭りの神事が姫神から始まっていること、みこしを石段から転がして傷つけ、毎年新装することを併せ、この祭神が農耕神的性格を表現していることがわかる。
- 資料/「北條市史」、川口謙二著「神々の系図」(東京美術社刊)、「歴史散歩事典」(山川出版社刊)